ずっと前から
一月は受験勉強であっという間に過ぎ去り、卒業式の練習も始まった二月には、いよいよ滑り止めの私立の男子校の受験があった。
香野には大丈夫だろうと言われていても、やっぱり緊張する。凍りつきそうに寒い日、一緒に高校におもむいた智也はあくびなんかしていた。「どうにかなるだろ」なんて言われても、俺は男子校には何となく行きたくないと思っていた。
「何で。男子校なら出逢いありそうじゃん」
俺も智也もマフラーをぐるぐるにして、コートでしっかり防寒している。灰色の空から唸る風が冷たい。最寄り駅から受験する男子校まで歩きながら、俺が男子校受験に後ろ向きなのを語ると、智也は首をかしげた。
「そういう感覚がやだ」
むすっとして答えると、智也は肩をすくめる。
「自然に出会えるのが理想じゃなかったのか」
「自然じゃないだろ、閉鎖的なだけで」
「そうか?」
「そうだよ。それに男子校のそういう奴って、どうせ気の迷い……とかで男に揺れるだけだろ。俺には男と恋愛するのは遊びじゃない」
「ふうん」
「ストレートとは恋愛したくない」
「まー、お前には二ノ宮がいるからなあ」
「べっ、別に、二ノ宮がいるとか関係なくて──」
「あ、二ノ宮が男子校に来るのはやばいな? 何か、すげえケツ狙われそう」
俺は智也をはたいた。智也はからから笑って、白い吐息がふわりと浮かぶ。
「じゃあ何だよ、智也は男子校に行きたいのか」
「やだね。むさいし」
「……嫌なんじゃん」
かくして、進学は遠慮したいくせに一応受けた私立は、結果的に合格できた。高校浪人を逃れたことには、それなりに安堵した。
でもやっぱり、なるべくなら男子校は行きたくない。本命の高校の受験は、卒業式のすぐあとだ。なので、それまで気を抜かずにまだ勉強を続ける。
中学での三年間、俺は成績の浮き沈みが激しかったから、どうしても不安なのだ。ちなみに底辺を這っていた智也は、同じ男子校を難なくクリアしていた。
「──嫌味だよねー」
滑り止めは受かったということで、次の日曜日、俺は深井家に顔を出した。暖房で室温が快適なリビングで、深井と芽さんと俺で雑談している。
三人で囲う真ん中には、ピクニックのように床に温かな紅茶と甘い香りのクッキーが並んでいる。おじさんとおばさんは、ダイニングで新聞を読んだり家事をしたりしていた。
智也の綽々とした合格結果に、芽さんの隣にいる深井はそう言ってふくれた。
「嫌味って」
「嫌味じゃん。勉強しなくても成績いい奴ってムカつく」
「一応、俺と勉強はしてくれてたけどな」
「でも、三十何点とかが七十点台まで上がってたんでしょ。何なの? 毎日こつこつ勉強するあたしをバカにしてるの?」
「まあまあ、亜里紗。落ち着いて」
芽さんは困ったように咲って声をかけ、分からなくもないけど、と俺はおばさんが出してくれたクッキーをつまむ。深井は芽さんを見てから、「うー」とうめいて膝を抱える。
「それはさ、そういう奴なんだろうけど。あいつが本気出したら、あたしのが頭悪いのかな。それがすごくムカつく」
「俺は確実に負けるなー」
「大丈夫、亜理紗もじゅうぶんできるよ」
そう言って、芽さんは深井の頭を撫でる。そんな芽さんの励ましに気分がよくなったのか、「ありがと」と深井は照れ咲いしたあと、「あーあ」と天井を仰ぐ。
「ほんと、あいつには負けたくない。昨日だって、『滑り止めに男子校は受けなかったのか』とか言うしさ」
「そういえば、高校になったら、智也と深井の漫才見れなくなるんだよなあ」
「漫才って何」
「あれは夫婦漫才だろ」
「違うもんっ。もーっ、塩沢まで最近生意気だよっ? おにいちゃんも何か言ってよっ」
俺と芽さんは顔を合わせて笑ってしまう。深井はご機嫌を損ねたようで、紅茶をがぶ飲みしていた。俺はナッツ入りの香ばしいクッキーを口に放りこむ。
「その、桐島くんと亜里紗は、仲がいいんだ」
「ぜんぜんっ」
「わりと」
「塩沢っ。何、さっきから」
「仲いいじゃん」
「あんなん、卒業したらやっと縁が切れてせいせいするよ」
深井はカップを持ったまま、ふんっとそっぽを向く。くすくすと笑いを噛み殺していたとき、ふと何やら外のカシスが吠えて、何か訴え出した。
「何かカシスが」
「あー、最近あたしが勉強で構ってやれないんで、すねてるの」
「ほっといていいのか」
「鳴いてるとこに近寄ったら、鳴けば誰か来ると思うようになるんたよ」
「亜里紗、それは子犬のときの話だろ」
そう言って芽さんは立ち上がり、サンデッキにつながるガラス戸に近寄る。
ちなみにカシスはこちらに越してきて飼った犬だそうで、芽さんとの交流はほとんどなかったのではないかと思ったら、夜中にサンデッキで芽さんの相手をすることがあったそうだ。だから芽さんを見知らぬ訪問者のように警戒したりすることはまったくない。
今は芽さんが散歩に連れていくことで、引きこもりの生活からなるべく脱しようとしているそうだ。そういう一種の訓練に犬がいるのはなごんでいいよなと確かに思う。
もっと智也のことで深井をつつくのもおもしろそうだったが、彼女と喧嘩したいわけでもない。「俺もカシス見てくるよ」と立ち上がると、「んー」と深井はチョコチップのクッキーを選んで頬張った。
俺は芽さんのあとを追う。芽さんはガラス戸を開け、冬風が冷たいサンデッキに降りていた。俺がそれに続くと、カシスはひときわ大きく吠えて、ふさふさの尻尾を大きく振る。
何となくあたりを見まわす。カシスはさっき何やら吠えていたけど、特に何かあったわけではないようだ。本当に寂しかったのかもしれない。ここからは、レースカーテン越しだが暖かそうなリビングが窺える。
「犬っていいですよね」
芽さんがさしだした手を舐めるカシスに微笑みながら言うと、「うん」と芽さんも瞳をやわらげる。その物柔らかさも、だいぶん自然になってきた。
「ずっと部屋にいて誰とも話さなかったけど、夜、カシスにだけはここでときどき話しかけてた」
「そうなんですか」
「もちろん返事はないんだけど──いや、何となくあるんだよね。犬だけど、僕が何かに思いつめてることは感づいてたと思う。僕がつらい気持ちを吐いてるあいだ、吠えたりせずに、静かにこうやって手を舐めてくれたりしてた」
確かに、俺が近寄ると元気に吠えるが、芽さんが頭を撫でるとカシスは静かになる。芽さんを映す黒い瞳も穏やかだ。カシスもまた、深井家の一員だ。だから、こうして芽さんが一歩踏み出したことをとても喜んでいるのだろう。
肌寒くなってリビングに戻ると、テレビを観ていた深井は「おかえりー」と顔を上げた。「カシス何かあった?」と訊いてきて、「何でもなさそう」と芽さんは腰を下ろす。俺は少し凍えた指でぬるい紅茶を飲んだ。
ひとりでドアの前で空中に向かって話しているより、三人で雑談しているほうが時間は早い。ふとカーテンをめくって仰いだ空では、オレンジのレースがかかったように夕暮れが始まりかけていた。
「そろそろ帰るかなあ」と俺が言うと、「僕も暗くなる前に散歩に行かなきゃ」と芽さんもカシスの散歩の準備を始める。そんなわけで、別れ道まで俺はカシスの散歩につきあわせてもらうことにした。
「外歩くのは、抵抗ありますか」
カシスの首輪に紐をつなぐと、芽さんと俺は家を出る。住宅街なので、人通りはそんなに激しくない。芽さんの歩調に合わせるカシスに、賢いなあ、と思いつつ俺は尋ねてみる。
「ひとりだとまだ怖いかな」
「怖い」
「ほとんど知らない街だから。こもる前の友達とかがいないのはよかったと思う。いたら、ばったり会って、何を話したらいいのか分からなくて、簡単に出歩けるようになれなかった」
「昔の友達に連絡しようとは」
「もう、何年も音信不通だしね。僕のほうから返事返さなくなったから、気まずいし。今は亜里紗とか、家族と接せてるだけでも精一杯かな」
「そう、ですよね。はは、何かもう、芽さんどんどん立ち直っていきそうで」
芽さんは曖昧に咲い、「家族以外に話せるのは柊くんくらいだよ」と言った。芽さんは俺を“柊くん”と呼んでくれるようになっていた。
部屋を出て一ヶ月以上が経ち、乾涸びたようだった無理をした笑みも、ずいぶん優しさが潤ってきている。その温和さに、こういう兄貴っていいよなあ、と気紛れな猫みたいな姉貴を持つ俺は思う。
「芽さんは、これからのことって考えてるんですか」
「これから」
「学校とか、行ってないんですよね。今からでも遅くないと思いますけど」
「ああ、うん。そういうことは、とうさんたちとも話した。今、ちょうどそんな時期だけど、さすがに今からいきなり学校に行くのはね。とりあえず、一年は家で部屋を出たり、こうして出かけたりできるようになることをしようって」
「そうですか──」
いいと思います、と続けようとした。そうしながら、何気なく正面を見やった。そしてはっと立ち止まる。
視線と息が一瞬止まる。芽さんも不思議そうに足を止め、カシスは俺の数メートル先にいる少年に一度吠えた。
そこにいたのは、二ノ宮──だった。
「あ、………」
「先輩……」
ぽつりとこぼした二ノ宮は、右手に青い手提げを持ち、大きく目を開いて立ちすくんでいる。ゆっくり、わけが分からないように俺から芽さんに目を移し、再び俺を見る。
白い息だけが、時間が止まったような俺と二ノ宮のあいだを泳いだ。
「二ノ宮、」
我に返った俺の呼びかけに、びくんと肩を震わせ、二ノ宮は崩れそうな膝で一歩下がった。
「す、すみません。僕、その、図書館にたまたま行ってただけ、で」
その蒼白な頬で、彼がとんでもない勘違いしていることが分かった。
「二ノ宮、この人は」
「いいですっ」
それは、おとなしい二ノ宮が普段は絶対出さない大声で、俺も一瞬引いてしまう。
「その、僕……僕は、関係ないですから。邪魔してごめんなさいっ」
言い終わらないうちに、二ノ宮はきびすを返して走り出してしまった。俺は慌てて追いかけようとして、芽さんをかえりみる。
「芽さん──」
「あの子だね」
「……はい」
「僕は大丈夫だよ。カシスもいるから」
「………、すみませんっ」
二ノ宮の背中が見えているうちに走り出し、その傷ついた背中を追った。
何でだろう。二ノ宮にはそんなふうに思われたくなかった。絶対に、思われたくなかった。
芽さんは友達だ。言い切って友達だ。たとえゲイ同士であっても。でも、二ノ宮は──
「二ノ宮っ」
かろうじて追いつくと、俺は腕を伸ばし、ちょっと乱暴に二ノ宮の左手首をつかんだ。二ノ宮は振り返り、その顔を見て俺は目を見開く。吐く息とぐちゃぐちゃに混ざりながら、涙がどくどくと頬を伝っていた。
「二ノ宮……」
「……は、離してください」
俺は逆に強く二ノ宮の手首をつかんだ。まだ女の子のように華奢な手首で、いじらしいくらい弱かった。
「あの人は、」
「わ、分かってますっ。先輩は、僕を気遣って嘘ついてくれてたんですよね。ほんとはつきあってる人が、」
「何でだよ。俺が男と歩いてたら何でもそうなるのか」
二ノ宮は俺を見上げても、すぐに顔を背けて、手提げを持った右手で目をこする。
その涙は止まっていない。冷たい風が頬をぶっていく。
「だって、あんなに仲よさそうに」
「俺、智也とも仲いいけど、あいつとそんなふうだって思うか」
二ノ宮はこちらを見ない。俺の目はまっすぐ二ノ宮を射抜く。
「思うのか」
「……思いません」
「じゃあ、分かるだろ」
二ノ宮は乱れた前髪の隙間から、そっと俺を見る。はずみを残す息が、色づいては消えていく。
「ほんとに、ですか」
「ほんとだよ」
「先輩が、あの人を想ってたり」
「友達だよ」
「あの人のほうは」
「ないって言われてる」
「言われてる……」
「まあ、確かにあの人、ゲイだけど。そんなんじゃないよ。絶対に友達だ」
二ノ宮は睫毛を伏せた。わななく大きな息を吐き、かすれそうな声でつぶやく。
「……よかった」
二ノ宮を見つめた。よかった。その言葉の意味は、さすがに分かった。
そう、この子は俺のことが──。
なぜか急に泣きそうになった。一瞬目をそらし、まばたきで瞳の湿り気をはらうと、強引につかんでいた二ノ宮の手首を離して、その手で頭を撫でてやる。
二ノ宮は物音を聞いた犬の耳みたいにぴくんと肩を揺らして、俺を見上げなおす。
「俺につきあってる奴なんかいないよ」
「先輩……」
「大丈夫だよ」
二ノ宮は俺を見つめ、小さくうなずいた。何だか、腕にきつく抱きしめてやりたくなった。そんな自分の感情は、驚きを交えながらも、自然に体内に消化されていった。
そうだ。きっと前から、ずっと前から、俺も二ノ宮のことが……
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