非常階段-124

非常階段にて

 三月二十一日は快晴だった。今日、三年前の春に悪い予感と共に入学したこの中学校を、俺は卒業する。
 長い三年間だった。入学前、中学時代にこんなにいろんなことがあるとは思っていなかった。捨ててしまいたい、悪夢のような記憶もたくさんある。でも三年生の一年間で、ずいぶん報われた。
 俺は、非常階段をついに降りなかったのだ。
「──三年五組、桐島智也」
 卒業生と在校生と保護者がひしめく厳粛な体育館で、一組から順にひとりずつ名前を呼ばれては、体育館の舞台に上がっていく。そして、話したこともない校長から卒業証書を受け取り、舞台を降りて席に戻っていく。
 六クラスを丁寧にひとりずつやるのだから大変だ。すすり泣きも聞こえる会場で、智也は軽快に壇上に上がって卒業証書を受け取っていた。相変わらず飄々としてるな、と思っていると、今度は俺の名前が呼ばれた。
「三年五組、塩沢柊」
 俺は返事をして立ち上がり、「あいつって確か……」というささやきを無視して舞台に向かう。やっぱちょっと緊張する、と思いながら舞台に上がると、校長の正面に立つ。
「卒業おめでとう」
 この校長は俺のこと知ってんのかな、とちらりと考えながら、腕を伸ばして卒業証書を受け取る。素早く歩き出す前に、一瞬その紙に目を落とす。
 終わった。本当に終わったのだ。長かった、何度も辞めてしまいたくなった中学時代が、やっと──
 卒業式が終わると、卒業生はグラウンドに出て、保護者と合流したり写真撮影や寄せ書きをしたりで、祭りのようににぎわった。俺はグラウンドに入る段差のところで、まだ冷気をはらむ風に吹かれながら、ぼうっと突っ立っていた。卒業証書は、すでに丸めて筒に入れてある。
「柊」と呼ばれて振り返ると、かあさんととうさんが歩み寄ってきていた。
「よかったわ、すぐ見つかって」
 雪乃ねえちゃんは来ていないだろう。かあさんはハンカチを握りしめていて、俺のそばに来ると頭を撫でてくれた。俺はとうさんを上目で一瞥する。
「来て、くれたんだ」
 とうさんは俺を向き、ばつが悪そうに笑った。とうさんが笑うところを見るのは、久々だった。「まあな」ととうさんは正面に来ると、俺の頭に手を置いた。
「よく卒業したな」
 とうさんを見上げる。その目にあの苦々しい色はなく、海のように深くて優しい色が広がっていた。俺は照れ咲いすると、「うん」とうなずいた。
「柊っ。いたいた。こんなとこで何してんだよ」
 振り返ると、智也が駆け寄ってきていた。さっそく堅苦しい学生服のボタンを外してくつろいでいる。
「あ……」
 智也は俺のかたわらで立ち止まり、とうさんとかあさんを交互に見た。悪戯が見つかった子供のように、めずらしく決まり悪そうに笑った智也は、「桐島智也です」と簡単に自己紹介する。
 かあさんはすぐに思い当たったらしく、深々と頭を下げた。
「で、柊。ほら、写真の中に君も入りなさい」
「え、いいのか」
「けっこう、お前探してる奴いるぞ」
「え……」
「まったく、卒業してばらばらとなると分かったら、虫がいいよなー。ま、最後くらいつきあってやれよ」
 俺はうなずき、荷物はかあさんたちに預けると、グラウンドに駆け出した。話したこともなかったクラスメイトや同級生たちが、笑顔で俺を一生残るフレームに呼びこんでくれる。その中で、俺は紺のセーラー服の深井のすがたを見つけた。
「深井」
 駆け寄っていくと、深井はちょうど家族といて、俺はおじさんとおばさん、そして芽さんに頭を下げた。
「卒業おめでとう」
 芽さんにそう言われて、俺は照れ咲って礼を言う。
「塩沢、何か人気だねー」
「そ、そうか?」
「あたしなんか、友達と写真撮ったらおしまい。みんな、ほんとは塩沢に話しかけてみたかったんだろうね」
 俺は騒がしい同級生たちを見返る。そうなのだろうか。
「あー、いよいよ今週受験だね」
「深井も」
「うん。緊張するー。友達の中で、ひとりだけ落ちたらどうしよ」
「深井は大丈夫だろ」
「そっかなあ」
 待ち合わせで早く来てしまったみたいにそわそわする深井を、「落ち着きなさい」とおばさんがたしなめる。俺は芽さんと顔を合わせて咲った。
 芽さんが部屋を出て、二ヵ月だ。初めて会ったときより、ずっと身奇麗になって周りの女子が騒ぐくらいの美青年になっている。さっきも「亜里紗にこんなおにいさんいたのっ」と女子の数人が深井にたかっていた。
 表向きでは芽さんは、五年間、以前の町にいたことになっているそうだ。
「一応、寮がある学校にいたことにね」
「そうですか。まあ、そっちのほうが外にも出やすいですよね」
「でも、不思議な感じだな。僕は卒業式なんて出なかったから。泣いてる子たちが、映画みたいに感じるよ」
「映画ですか」
 笑っていると、また名前を呼ばれた。大人の声、と思って振り向くと、そこにいたのは香野だった。
「先生」
「卒業おめでとう。よく三年間学校に来てくれたよ」
「はは、逃げる勇気がなかったから」
「でも、立ち向かう勇気はあったんだ」
 立ち向かう勇気。そうなのかな、と頬をかいていると、深井の両親と挨拶していた香野が思い出したように俺を向く。
「そういえば、お前を探してる子がいたぞ」
「え。卒業生ですか」
「いや、私服でまだ一年生くらいの」
 すぐに心当たりが浮かんだ。きっとあの子だ。ちなみに、一年生は卒業式には出席しない。見送ってくれたのは二年生だ。
「ちょっと行ってきます」とその場を離れ、どこだろ、とグラウンドを見渡しても黒と紺の制服の群れしかない。
 もしかしてあそこかな、とグラウンドを出て、昇降口の前を横切りかけたときだった。
「柊っ」
 またも名前を呼ばれて立ち止まる。あれ。でも、“柊”ってことは──
「智也?」
 すっかり信じこんで振り返った俺は、石化の魔法でもかけられたみたいに、そのまま立ち尽くして固まってしまった。
 智也ではなかった。さっきの俺と同じように、筒や荷物を提げてそこにいたのは、見ないうちにすっかり男らしい顔つきになった、賢司だった。
「賢司……」
「久しぶり。柊」
 一歩近づかれて、思わず一歩引いてしまう。その俺の動作に賢司は一瞬傷ついた顔をしたものの、笑顔を取り留めて俺を見つめてくる。
「さっきは声かけづらくて」
「………、俺、今探してる奴がいるから」
 自分でも驚くくらい、一気に声のトーンが冷たくなっていた。すぐ身を返して走り出そうとすると、「待ってくれよ」と言われて、躊躇ったけれど、もう一度振り向く。
「賢司、俺──」
「ごめん」
「えっ」
「それだけ言いたかったんだ。ほんとに、その……一年のときは、ごめん」
「な、何で賢司が謝るんだよ」
「だって、俺もひどいことしたじゃないか」
「………、別に、殴ってくる奴よりマシだったし」
「いや、ひどいことした。裏切った……と思う。ほんとにごめん。ずっと言いたかったけど、機会がなくて」
「………」
「みんなと一緒になって、柊のこと偏見して、ごめん」
 スニーカーに目を落とした。どう受け取ればいいのか混乱した。一年のときの痛い記憶が、白いフラッシュのようにこめかみにきしむ。
「いまさらだって分かってる。許してくれなくてもいい。ただ、俺が反省してるのだけは分かってほしいんだ」
「反省……」
「ずっと、クラスが変わっても、柊のことが気になってた。でも、どうやって近づいたらいいのか分からなくて。三年になって桐島とかと仲良くなってる柊を見て、もっとどうしたらいいのか分からなくなって。どんどん、時間ばっかり過ぎて」
 賢司もうなだれている。だけど俺の視線に気づくと顔を上げ、まっすぐ言ってきた。
「ほんとに、ごめん」
 賢司を見つめ返した。彼の前にいると、あんなに苦しかった搏動が、今はもうない。こいつの隣に並ぶたび、どきどきして、苦しくて……だが、もうそんな変調は起こらない。
「いいよ」
「えっ」
「そんな、気にするなよ。あのときはしょうがなかったもんな」
「そんなことない。俺が弱かったから。もっと強かったら、柊のこと理解して、ひどい目から助けてあげられたかもしれないのに」
 賢司は再び首を垂らす。彼の気持ちが本物なのが、何となく伝わってきた。
 俺は賢司を怨んでいるだろうか。いや、怨むことができなかった。ただ哀しくて、がっかりして──
 そんな俺の虚空を賢司が自覚していたとしたら、もしかして彼も三年間、俺を裏切った後悔で苦しんだのかもしれない。俺のことなんか忘れていると思っていた。そんなことはなかった。今、こうして向かい合って話しかけてくれた。
 そう、きっと賢司には賢司なりの重たい三年間があったのだ。
「気にするなよ」
「え」
「ぜんぜん平気だったって言ったら嘘だけど、ほんとに、もういいんだ。謝ってくれてありがとう」
「柊……」
「よかったら、今度遊ぼう」
「いいのか」
「もちろん。うわさ立つの覚悟しろよ」
 にっと笑ってやると、賢司はほっとしたように咲った。「じゃあ俺、ほんとに探してる奴いるから」と言うと賢司はうなずいて、今度は引き止めない。「またな」と残してその場を去ると、校舎の陰まで駆けていった。
「あ……、」
 校舎に張りついた日陰の非常階段を見上げると、そこにいたのは、予想通り二ノ宮だった。カーキのフードパーカーを着て、二階でぼんやり手すりにもたれている。俺は急いで階段の元に行った。
「二ノ宮」
 二ノ宮はびくりと声の主を探してきょろきょろとし、俺を見つけると、嬉しいのと恥ずかしいのをカフェオレのように混ぜて咲った。俺は階段をのぼり、二ノ宮の元まで行く。
「来てくれたんだ」
「はい。あの、卒業おめでとうございます」
「ありがと。グラウンドに来てくれたらよかったのに」
「私服だと目立ちますし。ここなら先輩来るかなと思って」
「そっか」と俺は手すりに背中に預けてもたれ、二ノ宮と顔を合わせると何だか咲ってしまう。
 すでに電話番号は交換しておき、校外で会う準備はしていたけれど、やっぱり卒業を見届けに来てくれたのは嬉しい。
 二ノ宮は何やらもじもじしたあと、俺を見つめて「あの、先輩」と口を開いた。
「ん?」
「い、嫌だったらいいんですけど」
「何」
「ボタン……を、くれますか」
 俺は制服のボタンを見下ろし、「あ」と初めて気がついて咲った。そうか。漫画とかでもよくある。卒業式には、特別な人に第二ボタンを渡すのだ。
「いいよ。ちょっと待って」
 俺は第二ボタンに手をかけ、ぐっと強く引っ張ってみた。が、けっこう頑固に取れない。制服三年間着倒したのにな、と餅でもちぎるようにねじりあげると、ようやくぶちっと取れて、二ノ宮にさしだした。
「はい」
 二ノ宮は嬉しそうに微笑むとボタンを手に取り、ぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます」
「いや。こんなんでよかったら」
「大切にします」
 そう言って、二ノ宮は取り出したハンカチでボタンを包み、ベージュのパンツのポケットにしまった。そして顔を上げて俺と視線が合うと、はにかんだ笑みになる。
「卒業式、どうでしたか」
「んー、舞台に上がるときは緊張した。泣いたりはしなかったかな」
「そうなんですか」
「感慨深くはあるよ。入学したときから、どんな中学時代になるんだろうって不安で、三年間来つづけて。あー、これで終わりなんだなって」
 二ノ宮は俺の顔を見つめる。空は暖かくても、冷たい風がさらさらと抜けていく。
 二ノ宮は下を見おろし、「僕も感慨深いです」と言った。
「入学したときから先輩のこと気になってて、二学期からこんなにたくさん仲良くしてもらって。でも、もう先輩は学校に来ないんですね」
 陰りを帯びた口調に、俺は二ノ宮に首を捻じった。そして目を開く。二ノ宮の頬には、ひと筋涙が伝っていた。
「二ノ宮……」
「あ、ごめんなさいっ。不安とかじゃなくて、ただ──」
 慌てて涙をぬぐう二ノ宮を見つめて、最後に伝えなきゃいけないな、と思った。この学校に来なくなる前に、この言葉だけはこの子に残していきたい。そしてあわよくば、それを支えに、彼にも中学時代を送ってほしい。
 俺は二ノ宮の手をつかんで、そっと握った。
「えっ、あ……」
 つかんだ二ノ宮の手は、この寒空なのに温かかった。その微熱に、俺は確かに応えられる。
「二ノ宮」
 二ノ宮の瞳に、じっと瞳をそそぐ。そして、一度、深呼吸した。
「卒業する前に、君に言っておきたいことがあるんだ」
 とまどう二ノ宮の手は本当に細い。次の言葉で、この手に力を与えたい。
「俺、二ノ宮のことが好きだ」
「えっ──」
 二ノ宮は目を見開いた。俺は真剣にその瞳を見つめ返す。
「たぶん、ずっと、好きだった。初めて会ったときから、何かそんな気がしてた。君をこの学校に残していくの、不安なのは俺のほうだよ。会えなくなるのも寂しい。だから、きちんとまた会ったりしたいんだ。遠ざかりたくない」
「先輩……」
「……ダメ、かな」
 二ノ宮は慌てたように大きく首を振ると、俺の手を握り返す。俺の手に、二ノ宮の熱が溶けこんでいく。
「先輩……」
「ん」
「僕も、先輩のこと……好きです」
「……うん」
「ほんとに、好きです。これからも、一緒にいて……ください」
 息継ぎでぎこちなくそう言った二ノ宮を見つめ、俺は恥ずかしそうに咲った彼に微笑んだ。握りしめた手を、離さないようにもっと強く握る。彼の心がそこにあるように、つないだ手は温かかった。
 俺は間違っていなかった。今ならはっきりそう言える。
 非常階段を降りなくてよかった。同性愛者だからといって、横道にそれてしまわなくてよかった。当たり前の生活をつらぬいてよかった。
 つらぬいたからこそ、俺は智也に出逢い、深井に出逢い、この二ノ宮と出逢うことができた。
 これからも、いろいろあるだろう。逃げ出したくなるときもあるだろう。消したい経験にも見舞われるだろう。だけど、俺は逃げない。堂々と普通の生活を続けていく。
 非常階段は降りない。だって俺は、どこも何もおかしくない、きちんとしたひとりの人間なのだから──。

 FIN

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