潰される心臓
五、六時間目には、実行委員という犠牲者のほかに、体育祭で受け持つ仕事も決めたりした。生贄──応援団員になるのは、紅白ひとりずつ、クラスからふたり出る。案の定、誰もなりたがらなくてじゃんけんになり、俺はぎりぎりのところで勝ててバカバカしい重荷は免れた。実行委員にもならずに済んだ。応援団員になれば、委員や仕事は受け持たなくていいが、妙な替え歌をクラスメイトに伝授したりするよりは、ゴミを集める厚生でもやっているほうがマシだ。と思っていたら、ついにじゃんけんに負けて俺はその厚生係になった。
その日から学校は、埋まっていくパズルみたいに体育祭に染められていった。自然破壊の伐採のように授業をつぶし、梅雨入り前の蒸し暑さにへばる。
もちろん、雪乃ねえちゃんの愚痴も分からなくはない。でも、退屈な授業だと眠るより悩む俺は、くだらない練習や嫌いな体育教師の元でうんざりしているほうがよかった。強くなってきた日射しに汗を奪われながら、しゃがみこんで足元の乾いた土をいじり、暑いなあとか、うるさいなあとか、目先のかったるさに気を取られて深く考えこまずに済む。
考えるから、意識過剰になるのだ。もっと何も考えないように、何も感じないようにならなくてはならない。その点では、列になっても応援席でも、賢司が遠いのは都合がよかった。あの身勝手な狼狽に振りまわされていては、どうしても目標は机上に留まっているばかりだ。
今は、教室のほうが前方に賢司のすがたがあって窮屈だ。賢司が目の前にいると、かえってあとで不自然の種になることに想到するまで、彼について考えてしまう。
賢司に発熱するのが打ち切れなくても、動揺は現さないようにする。心配そうに覗きこまれたら、「んなことないよ」と彼の肩をはたいてやるぐらいになる。笑いながら痛みを感じても、暗い顔にはならない。
それは自分に嘘をつくということかもしれなくて、いい方法ではないのかもしれない。けれど、今の俺にできる最善の自衛は、偽りだ。きっと慣れたら、根拠のないうわさが次第に真実に聞こえてくるみたいに、それが本当の俺になる。そうしたらあとは、その奥でどきどきしている自分を俺が忘れてしまえばいい。完全犯罪のとき、証拠を片づけたらあとは自分が黙っておけばいいように。
どんな無理でもやってやる。これを隠しつづけるのは、ひとりで大人数をだます完全犯罪のようなものだ。前にもそう思った。そして、そんなのは精神力が追いつかないと。
でも、騙すのに慣れて、そもそも精神力なんて浪費しないようになればいい。慣れたら違和感なんてなくなる。今こうして全身に修整液をぶっかけているのが終われば、何気ないように全部書きなおす。修整液の変な臭いは、そのうち消えるだろう。
とはいえ、具合よく変化しているわけでもなかった。着替えのときは、女子の中で着替えているみたいに目を足元に据えがちにしてしまう。やましかった。そんなつもりはぜんぜんない。ただ、周りがホモかもしれない奴に軆を見られるのは嫌だろうとか思ってしまう。
半袖にハーフスウェットの、制服より堅さが取れた賢司を直視できない。二年生の組体操の練習を見かけたときには、切実にこんなよこしまなものは削り落としておかなければならないと思った。夏を帯びてきた太陽がかかせる汗は、冷や汗をびっしょりかかせたあの真夏の悪夢を思い出させる。
どうしてだろう。どうしてこんなにいちいち思い出すのだろう。放って忘れておけばいいのに、わざわざ嫌なことを思い出して、賢司やみんなといるのを自分でつらくする。何が俺にそんな自虐をさせるのだろう。
子供の頃、水と油という言葉を知って、コップで水と油を混ぜたことがある。箸でぐちゃぐちゃにかきまぜたら、水と油はけっこう混ざったけど、少し放っておいたら完全に二層に分離していた。自分がそんな感じになっていくのが分かる。心を通した潤いが失われ、表面に映る自分が乾からびていく。
嘘をついてでも隠す。それが正しい。自分にそう言い聞かせながら、砂に風化するように意義が透けてつかめなくなるときもあった。教室の窓辺にもたれたり、顔を洗って鏡を見つめたりするとき、白日にめまいを起こすみたいに、意味も理由も分からなくなる。何をしているのだろう。俺はこのまま本気で麻痺してしまうのか。
もっと狂暴に、心臓発作のように急激にそこにいるのが耐えがたくなる。家の食卓や教室の雑談で、突然冷めて、ひとり虚しく突っ立っている自分に気づく。不安定な場所に立って、不意に重心が狂うみたいに、孤立した心の奥のすすり泣きや哀しい瞳が目に入る。
途端、空気を入れすぎた風船のように過敏に衝動がふくれあがり、何もない真っ暗なところに逃げ出したくなる。何も言わなくていい、別に咲わなくていい、誰とも接さなくていいところに。自分でぐらい自分を抱えて、めちゃくちゃに泣きたくなる。みんなと違うなら、そのせいで受け入れてもらえないなら、いっそ誰もいないところに消えてしまいたい。
命取りになる言葉、仕種、意見がもれないよう、衛星のように自分を監視しつづける。台詞を選んで、視線を気にして、ほどよく笑みをはさみこむ。当たり前の末路かもしれないけど、そんなふうにしていくほど、ある副作用が浮き彫りになってくる。
本物の自分を出すのが怖い……。
みんな、隠した俺に話している。嘘をついた俺に咲っている。麻痺するほど色濃くなっていく事実に、日に日に自分を余計醜く感じるようになった。やはり、こんなのは汚いのだ。隠していてこんなにうまくいっているのが、その証拠だ。
この本能は間違っている。汚れている。病気だ。異常だ。変態だ。絶対にばれたらいけない。ばれたら生きていけない。嫌われる。同性に揺れる俺もふくめた本物──というより完全な俺なんか誰も受け入れてくれない。決まっている。
確信が泥沼へと悪循環を深めていく。俺は闇雲に自分を押し殺し、幽閉しなくてはならない本能をみずから軽蔑した。
「何か、ほっとしてるよ」
これ以上自分の醜悪さを鮮明に見たくなくて、そろそろ演技の加速を緩めようかと思うときもある。けれど、二週間足らずの練習や準備で慌ただしく終わった体育祭の帰り道、賢司のそんな言葉に出逢った。
車での入場は禁止で、前を歩く家族を外れ、染みこむような夕陽に映る長い影を連れて、体操服で並行している。スニーカーについた土を見つめていると、隣の賢司がそう言って、彼に顔をあげた。
「え」
賢司は夕暮れに頬を橙色に染めつつ、決まり悪そうに咲う。彼の向こうでは、車が排気ガスを引いて行き来している。
「柊がさ、最近は俺の知ってる柊だから」
生温さをふくんだそよ風に、賢司の髪が揺れる。俺も髪をなびかせながら、それを見つめる。何か感じそうになるけど、ずいぶん遊離が進んでいて、自分が何を感じたいのか布越しの感触のようによく分からない。
「進歩してないとかじゃないけど。ほんと、不安だったんだ。今になって現れた俺なんか柊には邪魔かなって」
「そんなことないって言ったじゃん」
「言われたけど。やっぱさ。ここんとこの柊は、そんなの感じさせない。避けたりしないしさ」
俺は下を向いて咲う。おかしくもないのに咲うのにも慣れた。
「何となく、俺の知ってる柊だよ。俺の後ろに隠れてた」
賢司の瞳に瞳を上げる。その中に映る俺は、賢司が知る俺である代わりに、俺の知らない俺だ。その外面には、内面に通じるものがなく、他人の容姿を被っているようにも見える。だから俺は、そいつを見つめることによって賢司と向き合えるようになった。
「隠れててほしい?」
そう笑うと賢司も笑って首を振り、「そのへんは変わっといていいよ」と前方の俺と賢司の家族ぐるみに目をやる。影を車道に倒すみんなの談笑が、同じような家族連れにざわめく通りに溶けている。
「柊は柊だしな。ただ、俺と打ち解けてるとこはずっと変わらないでほしいな」
俺と賢司は、橙々の中で顔を交わして笑みを造った。何かが、すごく痛んでいる気がした。でも、ぶあつく痺れた心は、淡い波紋のような痛みのイメージしか残さなかった。家族に呼ばれて賢司とみんなに追いつきながら、俺の心臓は、またひと雫、温かな血を失くしている。
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