非常階段-23

手に取った本

 昨日の土曜日は、賢司も入れた友人たちと駅前の百貨店に出かけた。色気づいた提案は出ず、ゲーセンやファーストフードで、壁の落書きより取り留めなく過ごした。
 欲しい漫画があるとひとりが本屋に行くと言い出し、けっこう広いそこで俺たちはいったんばらばらになった。みんな、雑誌コーナーや漫画コーナーに散らばった。
 俺はみんなに合わせている重荷を数分でも逃れたくて、文芸コーナーから一般書コーナーへと歩いた。興味もない堅そうな本をぼんやり目でたどり、そこで視界に飛びこんだ数冊の一角が、今日になっても意識に絡みついて気になっている。
 同性愛──数冊の中に、その文字が確かにあった。上から下まで、綺麗な歯並びみたいにずらりと敷きつめられた本棚の下段に、何冊か専門書らしきハードカバーが集まっていたのだ。開いた目に一瞬頬が引き攣り、反射的に後退って、そのまま逃げ出していた。
 何でなのかは分からない。通じていた参考書コーナーで足を止めて、振り返った。けれど、怖いような焦るような、犯罪でもやるみたいな奇妙な抵抗感になぜか近づけなかった。
 もちろん、ちょっと見てみたかったけど、今は賢司たちと一緒だ。見られたらやばいよな、とうつむいて心臓を抑え、表情を繕うと俺は彼らに合流し、そのまま次第に早くなっている日暮れに帰路についた。
 それから、ずっと気になっている。あんな本があの本屋にあるなんて、知らなかった。あんなとこぜんぜんうろつかないもんな、と今は頬杖をつき、燻った天気に陽の当たらないテーブルで朝食を取っている。
 気になるなら読めばいいのだが、読みたくない感じもある。だって、あんなのは、同性愛者でない限り読まなくてもよさそうな本だ。普通は読まなくていい本を読むのは、普通じゃなくなることである気がする。
「柊、ごはん食べながら頬杖つくのはやめなさい」
 テーブルにつくのは俺ひとりで、時刻は九時になろうとしている。かあさんはキッチンをうろうろし、とうさんと雪乃ねえちゃんはすでに活動しているのでなくまだ寝ている。香ばしい塩鮭に醤油をかけた俺は、一応手をおろした。
「家でぐらいいいじゃん」
「家で癖がつくと、外でもするようになるのよ」
 八時頃には起きていたかあさんはすでに身なりも整え、とうさんと雪乃ねえちゃんの鮭を皿に横たえている。俺はパジャマで、髪も遊閑地の雑草みたいにぼさぼさだ。
「別に頬杖ぐらい誰も気にしないよ」
「行儀が悪いのよ。おねえちゃん遅いわね」
「とうさんも遅いよ」
「おとうさんは、昨日休日出勤だったんだし」
「雪ねえちゃんも夜更かししてた。話し声うるさくて、三回は壁蹴った」
 俺のベッドは、雪乃ねえちゃんの部屋に面する壁に沿っている。「話し声?」とかあさんは魚を焼いた網をシンクに回収する。
「電話だろ。ケータイで」
 かあさんは一応憂慮しているらしいため息をつき、俺は窓を向いて試験の日の気分みたいな曇った色を眺める。天気予報によれば、降りはしないそうだ。鳥ものんきに鳴いているし、出かけられなくもなさそうだ。どうしようかな、とほぐした鮭と昨日の残りでぱさつき気味のごはんを口に含む。
 同性愛の本を読めば常軌を逸したことになる、なんてちょっと大袈裟で神経質な気もする。とはいえ、やっぱり怖い。買うとき、少なくとも店員には知られる。バーコードを取りこみながら、題なり帯なりちらりとして思う。
『こんな本読むってことは──
 考えただけで、ゴキブリがたかってくるように耐えがたい。買うのはやめておこう。万引きなんて度胸もないし、とすると、立ち読みか。でも、通りかかった人が何かの拍子で読む本に気づいたら──どうせあんな本書いてもらっても手に取れないよ、と椅子に蛸みたいにべったり虚脱してしまう。
 人が自分なんて見もしていないのは分かっていても、万が一というのが執拗に気になる。そして、読んでどうかなるのか、という気になってくる。その本を書いているそいつがそう思っていたって、自分もそう思えるかは分からない。結局、自信なんて自分の気持ちで成り立つものだ。読んでも読まなくても同じなら読まないでおこうかな、とそちらのほうがやや磁力が強い。
 でも何か気になるんだよな、と思わず天気の具合なんて窺っている。読まないまでも、ちらっと見れば気が済んで、忘れられるかもしれない。「柊」とまたたしなめられて体勢を正しつつ、行かないとこのまま考えつづけるんだろうなあ、と苔生したため息をついて、わかめを着た豆腐を箸でつついた。
 午前中いっぱい、回流を泳ぐ魚みたいに鬱々と錐揉みしていた俺は、もうこの気分がはらいおとせるならと出かけることにした。空も悪化していないし、髪や服もまともだ。うつぶせていたベッドを降りて見た時計は十二時過ぎで、昼飯食っていくか、と塞いで痺れていた関節を伸ばすと、部屋を出た。
 水商売でもないのに十一時過ぎに起きていた雪乃ねえちゃんは、何やら隣でさっきから騒がしい。ナポリタンを作っていたかあさんに訊くと、午後には出かけると言っていたそうだ。「俺もこれ食べたら遊びにいく」と言うと、言い方が悪くて、勉強はいいのかという小言につながってしまった。
「昨日も遊びにいってたじゃない」
「デートよりマシだろ」
 リビングで新聞を読むとうさんが俺より雪乃ねえちゃんの身持ちを気にするように、かあさんは俺の身持ちのほうを気にする。「早すぎる冗談はやめて」と何だか蒼ざめて怒ってしまった。しかし、相手は男がいいなんて言えば、せめて女の子にして、とかなってくるのだろう。俺がゲイで一番ショックなのはかあさんかもな、と朽ちた枝がもげおちるような息がもれる。
「ひとりで本屋に行くだけだから、すぐ帰ってくるよ」
 そうかあさんの機嫌をなだめつつナポリタンを平らげると、とうさんとも軽く会話を交わして、雪乃ねえちゃんより先に家を出た。本は買わないと思うけれど、電車に乗らなくてはならないので、ポケットには財布が入っている。
 車をよけて家並みを歩きつつ空を向く。一面にほこりみたいに薄汚れた雲がかかっていても、ぶあつさはなく、あたりは暗いというより蒼い。室内より肌寒さがあり、長袖着てこればよかったかな、とカレンダーでも今日が九月最後の日曜日だったのを思い出す。この天気の不調が整えば、秋なのだろう。
 早いなあ、と肩をすくめてしまう。このあいだ、桜が舞い散っていた入学式だったのに。いつのまにか小学生だという感じは消え、中学生という自覚が刷りこまれている。
 中学生になって、いきなり毎日が加速している。小学校のときは、もっと一日にいろんなことがあって長かった。中学生になっての記憶は光速だ。単調な悩みに冒された一日はそれは長いけど、何も残らなくて、振り返ったときには省略されている。何か無駄って感じなんだよな、とアスファルトを踏むスニーカーもいやに見慣れた。
 中学校もある坂道を下って駅に着くと、そこからふた駅先が街だ。ひとりでこのへんまで来れるようになったな、としみじみしつつ駅を出たら、すぐそこに昨日も来た五階建ての百貨店がある。この天気なのに、というか、だからというか、歩行者より車が多くて、排気ガスが騒々しかった。横断歩道を渡って建物に入ると、本屋のある四階に直行する。
 四階にはほかにCDショップやおもちゃ屋、文房具店なんかもある。何か買っといたほうがいいものなかったかな、と焦れったくうろついても、文房具は二学期が始まる前に買い揃えたものが活躍中だ。ゲームは見たら欲しくなるな、とおもちゃ屋は素通りし、CDも同じく素通りする。そして、そのCDショップと隣り合っているのが、たっぷり広さを取られた本屋だ。
 教室に入るときのような気分だ。憂鬱で、できれば関わりたくない。しかし、今は嫌なら帰ってもいい。読みたくなければ読まなくてもいい。でも、そうだとかえって自分がどうしたいかあやふやになって悩む。黙っておけばいいものを、良心にとがめられて自首するみたいだ。どうしよ、とその場に突っ立ちかけ、ちょうど俺をよけて本屋に入った人のおかげで我に返って、とりあえず踏みこむことはできた。
 無関係な棚へとふらつきそうなもやつく足を、ここまで来たんだから躊躇ってたってな、と締まらせ、一般書コーナーへと向かわせる。なくなってたらラッキーかも、と懲りずに思ったが、数冊のかたまりは依然とそこにあった。
 電燈が明るい周りは、静かだけど立ち読みをする大人がちらほらいる。同年代はいない。見まわして監視カメラにも気がついた。同性愛、という文字を確認しつつ、心臓が痺れたような息苦しい緊張に硬直する。
 どうしよう。周りに人がいる。カメラもある。手を伸ばしたいけど、意識過剰がのぼせあがって指が痙攣している。明るい上方を向くと、その棚のジャンルが記してあった。
 医学。医学──に、なるのか。よく見るとその数冊は、心の傷がどうとかいう本と、精神障害の何とかいう本にはさまれていた。病気あつかいか、とつい痛んだ笑みをこぼし、まさに心に切り傷を感じる。周りの人は誰も俺なんか見ていない。監視カメラが爬虫類の冷たい眼のように気になるけれど──病気でも犯罪でもないはずだよな、とゆっくり心に言い聞かせ、深呼吸と引き換えにその中の一冊を棚から引き抜いた。
 震えそうな肘をこらえ、山崩しみたいに慎重に手元に引き寄せたその本をめくる。カバーの裏に著者の白黒写真があった。中年の男で、カミングアウトした同性愛者であるらしい。
 煮え立つマグマみたいにどろどろうごめく心臓を飲みこみ、そろそろとページをめくっていくと、その本はどうやら同性愛を解説する本でなく何人かの体験談を編集したものらしかった。こういうのはあんまり、と何となくぱっと閉じて、ずきずきする目で表紙を見つめ、重たい腕で棚に返す。
 ひとつずつ本を見ていったものの、同類はここにいる、といった感じの本が多かった。でも、そんなのは共感するより早く、そいつがどんな苦しんだか察する余裕が今の俺にあるか、と思う。あるいは生々しく理解できすぎて、滅入る。どうも素直になれず、もしかして書いた奴の作り話だったら、とまで猜疑は広がる。
 俺は今、この状況をどうすべきかを知りたいのだ。同性愛に免疫がない人に向けた感じの本なんか参考になると思ったのだが、甘かったようだ。
 確かによく考えれば、どう受け止めればいいかなんて人それぞれだ。そんなの本に書いて定義したりするわけないか、と最後の本をめくると、同性愛者の団体のようなものへの連絡先があった。TEL、FAX、HP―─一応メモしていこうかな、と英数字の羅列を一時停止で見つめて、迷っていたときだった。
「塩沢っ」
 突然びくっと跳ね上がった肩に、血の気が凍結する。ばさっ、と本を取り落としながら、声のした左手を向くと、見憶えのある誰かが駆け寄ってきていた。
 誰だ。ひとりじゃない。でも知った顔なのは手を振っている奴だけで、そう、小学校のときの──
「何してんの。まさか参考書?」
 咲いながら彼は俺が落とした本に目をやり、途端、ほぐれていたその頬が亀裂に錆びついた。「あ」と俺は声をもらしたけど、襲ってきた狼狽は、慌てて拾い上げるより総身をくまなく凍てつかせた。
「何……それ」
 後ろの何人かもそいつの肩越しに本を覗きこみ、周りの大人もいくらかこちらを振り返る。そいつの連れは、その本が何の本か見取ると、隣と顔を合わせたりこちらを凝視したりした。運悪く表紙を上向きにして床に落ちた本の題は、こうだった。
『愛しあうかたち~同性パートナーと生きる』
「あ、あの、」
 真っ白に凍りついた頭で何とか声を出し、無意識に右手を持ち上げるとみんな後退る。その目や頬や口には、ヒビが入り、そこから麻痺した引き攣った笑いがこぼれていた。その笑いは、今にも嫌悪があふれだしそうにひりひりに腫れ上がっていた。
「あ……、」
「ご、ごめん。俺たち、もうひとり合流する奴がいるからさ」
「あ、あの、これは、」
「いいって。はは。そっか。し、知らなかったからさ。じゃあ。邪魔して悪かったな」
 弁解で呼び止めようとしたけど、喉が痛くて音が出なかった。その隙にみんな焦った早足でそこを去り、残された俺は、次第にぞっとしていく冷気に足元を失って立ち尽くす。
 何だ。どういうことだ。
 混乱した息遣いが圧迫されて、視線がだんだんぶれてくる。どろどろの墨が、脳内から眼前に垂れおちてくる。
 嘘だろ。そんな。ばれた。ばれたのか。あいつらに、友達に、同じ学校の奴に知られてしまった!
 頭に土砂崩れが降ってきて、がくんと膝を崩してその場にしゃがみこんだ。瞳がぱっくり壊れ、心臓が発狂したようにぐちゃぐちゃに乱れてくる。
 嘘だ。どうしよう。ばれた。みんなにばれた!
 こんなの、ひとりに知られたらおしまいだ。でも、ひとりでさえなかった。どうしよう。どうすればいい。みんなにばれる。クラスメイトにも、担任にも、家族にも、賢司にも!
 駆け巡る高温に肩をおののかせて目をつぶっていると、「大丈夫?」と見兼ねたそばにいた女の人が声をかけてきた。俺は絆創膏をはぐみたいにそろそろと顔を上げ、ぎこちなく息を飲みこむとうなずいて、ゆっくり立ちあがる。涙が出そうだったけど、握りしめた手のひらに爪を食いこませてこらえた。
 女の人は、本を手に取ってさしだす。それに腐った傷口を見るような目をそそぎ、だるく受け取ると、そのまま棚に返した。その人には一応頭を下げると、おぼつかない足取りで歩き出す。こちらを振り返っていた大人のひとりが、俺が後ろを通るとき、かすかに身を引いた。鋭いカマイタチを感じても静かに目を閉じただけで、本屋を出て帰り道へと足を動かす。
 何も見えない。何も聞こえない。真っ暗闇を歩いているようだ。軆の中に取りついていくのは空恐ろしい霧だけで、どんどん意識がかすれていく。
 ばれてしまった。彼らが黙っているわけがない。彼らはあくまで善意で俺の本性を言い触らすだろう。塩沢柊に近づいたら汚いと──どうしよう、と感覚の調律を失くすみぞおちをぎゅっとつかんでも、絞り出されるのは言い知れない恐怖と不安ばかりで、何も分からなかった。

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