絶望の朝
今朝ほどひどい気持ちで目覚めた朝は、これまでにはなかった。どんなにおぞましい夢にうなされたあとでも、ここまでどん底に憂鬱で、息も絶え絶えで、恐ろしかったことはない。そう、あの真夏の悪夢に飛び起きた夜だって、ここまで吐きそうに胸苦しくはなかったはずだ。
べたべたした軆をだるく起こし、一瞥したカーテンの隙間は嫌な天気だった。せめて晴れておいてほしいときに限って、いつもこうだ。転がる糸巻きみたいに、よりどころのない浅い夢を見ているあいだから聴いていた雨音が重たい。
今日は月曜日だ。学校がある。昨日の夜は、ずっと深刻に自殺を考えていたけど、結局そのために部屋を出ることもできなかった。
だって、もうおしまいだ。そういううわさは感染症みたいにまたたく間に広まる。クラスが違うのなんか関係ない。
みんなにゲイだと知られている。どんな顔で教室に入ればいい? どうやってそこで一日を過ごせばいい? 何も変わりないなんてありえない。これまでにテレビや本で見かけた同性愛者への糾弾が、ひらひらと目の前に降る。世間は同性愛に理解を持ちつつあるように言っているけれど、実際は何も消えていないのだ。
白い眼が怖い。黴菌みたいに避けられるのも嫌だ。唾や暴力だって遠くない。全部失ってしまう。友達もいなくなるし、きっと賢司も──彼は一学期の変調と照らし合わせ、自分に想いを寄せられていると気がつくかもしれない。
ダメだ。終わりだ。俺はこれから死ぬまで、誰も知らない土地に行きでもしない限り、ひとりで突っ立っていかなくてはならない。
家族にだって、近所にだって、広がっていく。猛暑の下で流氷に乗っているようだ。どんどん立場が溶けて、誰も自分の船に乗せて救ったりはしてくれなくて、やがて水底に沈む。
こんなことなら、本屋になんか行かなければよかった。時間を戻したい。本屋さえ行かなければ、あの本を手に取りさえしなければ、こんなことにはならなかった。落とさず素早く棚に返すだけでもよかったかもしれない。
とにかくあの瞬間、一番最悪な行動を取ってしまった。バカだ。全部、自業自得だ。誰のせいでもない。俺が悪かったのだ。自己嫌悪が渦潮のように気分を取りこみ、ケロイドみたいに消せない後悔だけが垂れこめる。
秋の澄んだ虫たちの声を聴きながら、昨日は遅くまで暗い部屋でつくえに伏せっていた。死ぬぐらいしか、マシな道はないように思えた。死ねば何にも出遭わなくてすむ。どうせこの先、楽しいことになんて巡り会わないだろう。あてもなく自殺の方法を羅列して、自分の身にあてがってみた。
手首を真っ赤に引き裂くカミソリ。くくって喉を絞めあげる縄。道路に飛び出してすぐ眼前に迫るバス。何だか自分でも怖いほど生々しく、現実感がないということがなかった。何で死ぬのって怖いんだろ、と潜在的に染みつくその本能を呪いながら、ぐずぐずとベッドに入った。
そして、こうして朝になれば律儀に目を覚ましている。これからいろいろ、食べるとか着替えるとかが済めば、学校だ。登校拒否という手もあるけれど、そんなのは親の協力がなければ厳しい。俺の親は、同性愛どころか不登校もとんでもないと思っている。
押し黙って意固地に閉じこもるか。いや、そうすれば鍵なしのドアをあっさり開けられ、引きずりだされる。だいたい、食事やトイレのとき部屋を出ないわけにもいかない。引きこもりの奴ってどうやって生きてんだろ、と眉を寄せ、病気にもなれずにのろのろとベッドから足を下ろしたときだ。
「柊」
軽いノックとそんな声と共に部屋のドアが開き、顔を上げるとかあさんだった。
「あら、今起きたの。七時十五分よ」
「ん、……うん」
「早く着替えて降りてきなさい。ごはんの用意はできてるわよ」
「めし食えそうな顔に見える?」
俺のすれた野良犬のような陰気な眼にかあさんは眉をゆがめ、こちらに来ると、俺の額に触れる。するとその手のほうが温かく、俺は早くも八割方あきらめる。
「熱はないわよ」
「ね、熱はない病気だってあるよ」
「こんな天気の気分的なものなら、吹き飛ばしなさい。女性でもないんだから。早くするのよ」
かあさんは俺の肩をぽんとすると、さっさと部屋を出ていった。続いて、雪乃ねえちゃんの部屋に声をかけている。おなじみの口答えがぼんやり聞こえる中、がっくり息をつき、これだもんなあ、と分かってもらえないいらつきを抱えて立ち上がる。
塞いだ動作で制服に着替え、宿題と時間割りを確かめると、室内を見まわした。時間稼ぎになるものはないかと思っても、カーテンを開けておくほかに引き止めてくれるものはなかった。雨は相変わらず憂鬱に降りそそいでいる。ため息をついて手提げを持つと、結局、俺は部屋をあとにした。
「あんたのが遅いなんてめずらしいわね」
いちごヨーグルトを食べていた雪乃ねえちゃんに肩をすくめ、隣に腰かける。とうさんは、俺が降りてきたときちょうど家を出ていた。
朝食はきつね色のトーストとバターが匂うスクランブルエッグ、まだ粉末のコーンスープだ。喉が閉塞して息だってうまくいかないのに、物なんか食べられない。スクランブルエッグを少しとスープだけで席を立つと、かあさんと雪乃ねえちゃんは顔を合わせていた。
顔を洗い、歯を磨きながら、薄暗い擦りガラスの窓を向く。学校には早く登校する物好きが必ずいる。ざわめいていく校内に、うわさは封切られているかもしれない。
ゲイ。いったいみんなどう思うだろう。とてもじゃないけど、好意的にしてもらえるとは思えない。うがいした水を吐き出し、電燈で鏡に灰色っぽく映る自分を見つめる。どうしてだろう。死刑囚のような、拷問されて当然の醜い顔に見える。
雨の日は早めに家を追い出される。俺は英文字が散らかった青い傘を、雪乃ねえちゃんは無地の黄緑の傘をさす。生温く湿った匂いを立ちこめさせる雨は、ぼたぼたと音まで暗い。
火事の煙のようにぶあつくなった雲にあたりは蒼ざめ、それでもいつもすれちがう小学生たちは、やんちゃに駆けていく。俺にもああいう頃はあったのに、今は何というざまだろう。胸元から足元までが、澱んだ沼に浸かったみたいにべたついて重い。
これまで、嫌な気分なんてたくさん味わってきた。学校に行きたくない日だってあった。だが、こんなに切実だった日は初めてだ。こんなに自分では、どうすることもできない、本当の本当にどうすればいいのか分からない渦中なんて、初めてだ。
何を言われるだろう。何をされるだろう。視界や呼吸の色合いが低下する。行きたくない。なぜわざわざ傷つきにいかなくてはならないのだ。いい獲物ではないか。中学生。はけ口の対象は、いくらあっても多すぎない。
「昨日から変ね」
俺は右に横目をし、銀色を引く雨越しに雪乃ねえちゃんを見る。
「かあさんが気にしてたわよ」
「休ませてくれなかったけど」
「昨日出かけて何かあったのかって」
「……別に」
雪乃ねえちゃんは首をすくめて傘を持ちなおし、「賢司がいるから大丈夫でしょって言っておいたわ」と前髪が濡れないよう気にする。俺はもう一度雪乃ねえちゃんをちらりとすると、「うん」と雨の雑音に紛れて薄っぺらくうなずいた。
すぐそばをワイパーがせわしない車が通っていく。それを避けながら、爪先を湿らせるスニーカーを目で追う。アスファルトで小さく雨粒が跳ね返っている。
賢司はどう想うだろう。彼ぐらいしか、理解に望みがある人は思いつかない。賢司が分かってくれなければ、死刑宣告だ。ほかに誰が俺を受け入れてくれる?
こんなのは初めてだ。いつも俺の心のそばには誰かいた。その人たちがまるで幽霊だったように消えていき、今初めて、すべてリセットされたかのような虚空で孤立している。
賢司だって、本当は今にも消えてしまいそうに感じている。けれど、もし彼だけでも理解してくれたら、もうときめいたりはしないから、親友としてそのそばにいて生きていけそうな気もする。
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