非常階段-25

砕けた虚像

 とはいっても、坂道に入って同じ制服の同年代が増えてくると、肩身が狭くなった。誰がすでに知っているか分からず、傘で顔を隠せるのに気づいて、ようやくこの天気に感謝が湧く。友達と合流した雪乃ねえちゃんと離れてひとりになると、いよいよ頭の上の暗雲じみた悪い予感が生い茂ってきた。
 言い触らされていないなんて、ありうるだろうか。ない。絶対にない。ずいぶん厳めしく感じる校門を、垂れこめる心臓を息づめてくぐると、靴痕に濡れたざわめく昇降口で後ろめたく傘を下ろした。
「柊」
 ふとそんな声がかかり、白眼が怖くてうつむいて傘をまとめていた俺は目を上げる。どきりと身をこわばらせる。
 賢司だ。数段の階段をのぼって俺の隣にたどりついた彼は、意外にもいつも通りにっこりとしてくる。
「おはよ」
 ぽかんと彼の笑顔を見つめかけ、「あ」と慌てて言葉をつなぐ。
「え、えと、おはよう」
「うん。何。どうかした?」
 雫を落とす傘を閉じてくすりとしる賢司に、「いや」と俺はぎこちなく首をかしげる。
「その──あの、今日は遅いな」
「雨だからな。月曜日に雨ってやな組み合わせだよな」
「そ、そうだな。あ、えと、あのさ」
「ん」
 こちらを向いた彼の妖しい瞳に、とっさに声が酸欠する。訊いたほうがいいのだろうか。
 話を、聞いていない?
「あの──」
 とまどいそうになる目を湿る足元に隠し、聞いてないのに掘り出したら墓穴だよな、と疾風みたいに走った躊躇に俺はつい心にもない質問に逃げていた。
「数学、の宿題、やってきた?」
 賢司はきょとんとしたのち噴き出し、「そりゃあな」と傘を細くまとめる。
「何? 写したいとこでもある?」
「いや、えと──うん、ひとつ、答えは出たけど自信ないとこが」
「じゃ、教室でな」
 賢司は校舎内をうながし、俺は弱い狼狽に眉を寄せて彼に続く。賢司は知らないのか。聞いたけれど、普通にしてくれているのか。
 昨日逢った奴は賢司を知っている。いつだったか、小学校のときの友達と集まって賢司も連れていったときに、顔見知りにはなっている。親友なんてやっていたら危ない、と賢司には学校に来るまでもなく忠告のような密告が通っていると思っていたけれど──
「柊って数学苦手だっけ」
「え、まあ得意ではないよ」
「そっか」と笑う賢司と靴箱を出て、電燈の灯る騒がしい廊下を抜けていく。
 賢司に言っていないということは、あいつらは誰にも言っていないのだろうか。俺の気持ちのほうを気にして、黙っていてくれているとか。あいつとは二学期になって親交も途切れていたし、そんなのは甘いと思っていた。期待なんてしないほうがいいと希望は抑えていた。まだ望みはあるのか。
 でも──
 階段のそばの閉まっていた教室のドアを開けたのは、賢司だった。彼が教室に踏みこみ、俺が続いた途端、教室がすくむように停止した。
 音も、視線も、空気も。
 それですべて感知した。
「何?」
 賢司だけが、教室と俺のあいだで宙ぶらりんになった何かにまばたきしながら笑みを浮かせる。目の奥によぎる暗いめまいに、圧縮されていくような強い疎外感に堕ちていく。
「何か──」
「寺岡、お前知ってるんだろ」
「は?」
 入口のそばの席の賢司の友達が、駆け寄ってくる。電燈が灰色がかる教室は、関わりたくない人間が白々しい談笑に戻って、うわべだけほぐれる。
「もういいって。そいつのそばにいたらやばいぜ」
「そいつって」
 彼は俺を顎でしゃくり、賢司は俺を不思議そうに振り返る。俺は同極の磁石が弾き合うように、視線を薄汚れかけた上履きに下げる。心臓が痙攣して、じわじわと体温が燻されていく。
「柊に何かあるのか」
「お前は知ってたんだろ」
「は?」
「無理してつきあってたんだろ。そんなことやめとけよ」
「な、何だよ。話組み立てろよ」
 そいつの敵対的な鋭利な視線が、賢司の肩越しに刺さる。「言われてないのか」と別の声がかかり、次第に怪訝を強めていく賢司はそちらを向く。
「何の話してんの」
「うわ、寺岡にも言ってないってことはマジなんだぜ」
「うえっ。信じらんねえ。正気じゃないよ」
「うそー。塩沢くんがそんなのだったなんて」
「気持ち悪ーい……」
「な、何なんだよ。おい、柊、こいつら何言って──」
 渦巻くように聞こえる声の中に賢司の声が通り、彼に顔を上げた。が、言葉を選ぶ前に、ほかの声がばっさり俺の喉をさえぎった。
「そいつ、ホモなんだぜ」
 瞳にじかに映る賢司の瞳が大きく、ミイラ化の早送りのように見開かれた。俺は声帯を硬直させて、もはや見え透いた言い訳さえわめけない。音が世界からはずれたような異様な沈黙の末、「……え」と賢司は信じられない、吐き出すような声を引き攣らせた。
「……何。何だって」
 賢司は俺の喉を取った奴を向き、そいつはくっきりこちらに軽蔑を突き刺す。
「ホモだよ。オカマ」
 賢司はそいつをじっと見たあと、呼吸をわずかに乱しながらこちらに向き直った。俺の頭の中は、まさに死んでしまったかのように意識も感情も冷たい闇に帰している。
「……冗談だろ」
「冗談じゃないって、みんな知ってる──」
「お前には訊いてない。柊、嘘だろ。誰かが勘違いしただけだろ。そうだよな」
 賢司のさしせまった目を見つめた。ここでうなずけば、救われていたかもしれないのに、どうしてもつらかった。
 だって、その言葉は何だ? 俺がゲイだなんて受け入れられない、ということか。冗談。嘘。勘違い。そうなのだろう。やっぱり、こんなのはさすがの賢司すら──
 胸のあたりで血がずきずきと喘ぎ、俺は電燈が痛くなってくる顔を伏せて唇を噛んだ。
「柊──」
 何か言おうと思った。でも、思いつく言葉は“ごめん”だった。何が“ごめん”かも分からないのに、その言葉しか浮かんでこない。喉が苦く疼いて、息が苦しい。ごめん。言うべきなのだろうか。重みに耐えかねるようにわななく肩から震える息を吐き、結局、何も言わずに賢司の隣をすりぬけて席に向かった。
 錯綜した視線が、いくつもべたついてくる。驚き、困惑、嫌悪、軽蔑──魔女の料理みたいにぐちゃぐちゃに入り混じった排他的な目たちが連帯し、背中にとがを立ててくる。俺に脇を通られた奴が、無造作につくえのものを自分のほうに引き寄せた。
 ひりひりする心臓をまぶたで闇に抑え、席に着くと手提げを脇にかけて席に着く。みんな、俺に言いようのない敬遠を発しながらも、そろそろと普段の朝の風景をかたちづくっていった。
 堀川が現れた頃には調子を取り戻し、ただ、俺の席の周りの奴は、目尻や肩に警戒を張りつめさせていた。俺は窮屈に視線をつくえに据え、湧き起こるくらつく頭痛に目を閉じていた。
 バカみたいだ。必死になって隠してきたのに、こんなくだらないきっかけで、ふいになるなんて。
 もうおしまいだ。何もかも始まってしまった。食肉植物たちの種はばらまかれた。
 これからいったいどうなっていくのか、どうすればいいのか──考えるほど黒板を引っかくような頭痛は増し、堀川の声を遠くに聞きながら、心臓に絡みつく吐き気に胃のあたりをきつく抑えた。

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