堕ちていく
『だれかぼくを治して!
男が欲しくて死にそう』
真っ白なチョークが広い黒板いっぱいに殴り書きを描がいている。俺がそれに気づいた途端、教室の半分ぐらいがこらえられないように笑い出した。俺はその笑い声に麻痺したようにその場に固まり、名状しがたい屈辱とみじめさに、焼かれたチーズみたいな熱を全身にふくれあがらせる。
冷えきったぶあつい雲がとどこおる十二月、色彩の枯れた朝、俺は今日もひとりで無口に教室に踏みこんだ。すると、くすくすという忍び笑いが聞こえ、無表情にそちらを見た。入口のそばの席にたまる女子たちだったのだが、笑っているのは彼女たちだけではない。
眉をゆがめて、まだ席替えをしていないつくえを見たが、そこには何もない。嫌な予感は滲ませつつも、ストーブの焚かれた教卓の前を横切って窓際に行こうとし、視界の隅で黒板に何か大きく書かれているのに気がついた。
しばらく、視覚がその中傷に平面に停止した。一瞬、何と書かれてあるのか分からなかった。黒い画面に鮮紅の裂けめが入った心象だけ走る。スクリーンの真ん前の席から観る映画のように、教卓から黒板を見る。
俺のこと、と理解したのと同時に誰かが噴き出し、ついで教室に爆笑が氾濫した。
途端、軆が一気に芯から発火し、でたらめな混乱に涙まで絞り出されそうになった。気まずさなんてものではなかった。どう感じたらいいのかにもあまって、真っ暗になった眼前から足元まで感覚そのものが薄れていく。
何で。何でそんなこと──そんなこと、ぜんぜん思っていない。みんなの笑い声が、津波のように頭にかぶさってくる。教卓の陰で薄暗い上履きに視線を下げ、わずかに呼吸を喘がせるばかりで、バカみたいにそこを動けない。
「それならオカマの学校にでも行ってろよ!」
「そうそう、普通の学校に来るなよ」
「こっちは食い物にされたらたまんねえんだからさ」
「お前に病気移されて親泣かせたくないしな!」
さらに甲高い笑い声が巻き起こり、何かに耐えて肩に力を張った。ほんの刹那、怒りのようなものも感じたけれど、押し寄せる屈辱がそんなのは流してこの場を走り去ってしまいたくさせる。
足元は震えている。頭の中が何もかも拒絶して、真っ白に壊れていく。逃げてしまえばいい。みんな笑っている。こんなところいたくない。そこまで言われてここにいる必要なんて──手のひらに爪が食いこむほど手提げをきつく握りしめたときだった。
「何だ、どうしたんだ」
背後にそんな声がし、少しだけ振り返った。一丸になって笑う生徒たちに面食らう堀川だった。つられてやや笑みを浮かべる彼はたたずむ俺にも気がつき、続いて黒板の落書きに目を止める。ついで、彼が続けた反応が俺には信じられなかった。堀川はその紛い物の叫びを目にして、噴き出したのだ。
「カミングアウトって奴か」
こちらを向いた堀川の笑顔に息がすくみ、教室にはじけた笑い声には、感情が力いっぱい叩かれたガラスみたいに粉々になった。意識がざらざらの仮死状態になり、愕然と突っ立つ以外、自分がどうしたらいいのか分からなくなる。体内が殺風景に蒼ざめていく中、かろうじて感じる絶望がごく短く瀕死の炎を眼にたぎらせた。
教師のくせに!
堀川は俺の眼に何かは感じたのか、かすかに臆して出席簿を持ち直す。そして、生徒を抑えてこちらに来ると席へと俺の肩を押し、なぐさめとは正反対の気休めを押しつけた。
「そんなに本気で悩んでるなら、カウンセラーの先生のところに行けばいい。火曜日と木曜日に来てるのは知ってるだろ」
まばらに笑ったクラスメイトたちのことは、彼はさすがにたしなめたが、もう無駄な応急処置ですらなかった。俺は足を引きずってつくえにたどりつき、コートを椅子の背凭れにかけると、ずっしり疲れのかかった軆を席に預ける。「さて」と堀川はホームルームを始めようとし、その前に黒板を振り返ってこちらを向いた。
「塩沢、これ消していいだろ」
また低い失笑がささめき、くだらない追い討ちをかけられた俺は激しい恥辱感に肩を震わせた。何なのだ、あいつは。こいつらと一緒に俺を辱めたいのか。俺が真っ赤な頬を陰らせて押し黙っていると、堀川は肩をすくめて黒板を綺麗にし、ホームルームに移った。
俺は憑き物が取れて抜け殻になった人のように椅子にぐったり力を抜き、つくえに当たる弱い冬陽に視線を麻痺させる。堀川の声やそれを聞かない生徒のひそひそ話は、隣の家の物音ぐらいぼんやりとしか聞こえない。
そういえば今日は、先週の期末考査の結果が土日をはさんだため、答案が一気に返ってくる。それぐらいのことが憂鬱だったらよかったのに、今、俺が悩んでいることはいったい何なのだろう。
カウンセラーか、とつくえに肘をつき、冷たい手で顔面を傷口のように覆う。それはつまり俺は病気ということか。こいつらの言う通りに。学校に配置されるようになったカウンセラーは知っている。正直行ってみようかと思ったこともある。
さすがに軽蔑されない気がした。でも、相手は仕事で俺の話を聞くだけで、俺に心を開いて親身にそばにいてくれるわけではない。そう思うと、何でもない相手に悩みを打ち明けるなんて自分の孤立を際立てるだけの気がした。他人である代わりに相手は専門家で、適切な助言をくれるのかもしれないけど、それは何だか自分が病気であるかのようだ。
まあ、病気なのかもしれない。この指向が、ではない。この指向についてのみんなの反応に対して、俺の感情的な聖域は黴が生えるように蝕まれつつある。感じるのが痛みばかりなら、麻痺したほうがいいだろう。
ぼくを治して。もちろん、同性愛は治るとかのものではない。でも仮に“治った”ら、彼らはどう応じてくるのだろう。また仲間に入れてくれる? そんなことはない気がする。いずれにしたって、俺は流罪に処された犯罪者のごとく追放されたのだ。
牛乳瓶の墨に白い花がさされていたのは、先月の終わりだった。あの次の日から試験期間に入ったので、これまで特に目立った仕打ちはなかった。嫌な間にたっぷり悪い予感がふくれあがったところで、試験が終わればさっそくこうだ。
イジメなんて、これまで何度も見てきた。これから、貪食のように加速していくのは分かっている。一応俺のほうにそうされる原因はあるわけで、イジメと呼べるのかは分からないけれど。あの日、誰も牛乳瓶を回収しなかったことで、いわば事は認知され、俺が何をされようと否定はしないと公約されたのだ。
手を静かに下ろす。腫れぼったいまぶたに虚ろな光があたる。血痕が染みついたように、鼓膜から笑い声が取れない。そばの席ではなおも嗤いを噛んでいるのもいれば、嫌悪を冷たく保って、黒板に見入っているのもいる。
前髪の隙間で、廊下側の同じ前から四番めの席に目をすべらせる。そしてぎくりと手元に引き戻す。賢司もこちらを盗み見ていた。硬い喉に唾を飲みこみ、心臓を抑えると再度右に視線をやる。次は彼は黒板を向いていた。
気づかれたのだろうか。一瞬出逢った瞳の残像を反芻し、気重な息をつく。被害者に向けるような、憐れむ傷んだ目──さっきは、賢司も笑っていたのだろうか。
背凭れに虚脱して陽射しに睫毛を透かし、改めてあの黒板の落書きを想う。ぼくを治して。男が欲しくて死にそう。どうしてだろう。砕け散って錯乱した白光が、いくらか落ち着いてきて、ようやくそう思えてくる。どうして、そんなふうに考えるのだろう。
俺は彼らに何かしただろうか。言い寄ったり襲ったりしただろうか。ゲイだというだけで、何も人に迷惑はかけていない。あるいは、存在して視界に入るだけで気持ちが悪くなるというのか。
そうなのだろう。友達は友達としてしか見ていない。仮に好きになっても、相手がストレートなら気持ちを押しつけたりはしない。だから別に気味悪がらなくてもいい。これは、みんなには詭弁なのだ。嫌なものは嫌だ。春から自分が自分にそうだったので、そういう譲れない感覚は分からなくもない。でも、だったらせめて放っておけばいいのに──案の定、こうして私刑を執り行う奴が出てきた。
無視だって当然つらいし、ときにはぶたれる以上の苦痛だ。でも、まだ仕方がないと思える。ホモなんかとは関わりたくない。そんな気持ちがあるなら無理強いはしない。理想的には、そんな気持ちはたぶん偏見だから正すべきなのだろうが、しょせん理解するしないは個人の自由だ。けれど、攻撃は自由の領分をはみでている。
分かっていた。そう、じゅうぶんこうなることは分かっていた。けど、それでも、俺の心は理不尽さに圧されてヒビにきしんでいる。
堀川がホームルームを終えて去ると、束の間、教室は騒がしくなる。俺は思い出して、手提げに入ったままの教科書を取り出した。そして、つくえにしまおうと引き出しを開けて眉を寄せる。試験のためからっぽにしておいたそこには、血のような赤いマジックペンで落書きがあった。俺は目を閉じて教科書を突っ込むと、教室のどこで誰が笑っているかはもう確かめず、つくえにうつぶせる。
『この机はホモ専用です。
使うと汚染するから注意!』
【第二十八章へ】
