終わらない悪夢
秋頃から何かにつけて朝はぐずぐずし、雪乃ねえちゃんには先に家を出てもらうようになっていた。雪乃ねえちゃんが遅刻したくないのと、俺が雪乃ねえちゃんと並んで歩くのが窮屈なせいだ。両親は相変わらず何も知らない。でも雪乃ねえちゃんは──知らずにいられるわけがない。
気にかけてくる姉ではないのは言うまでもないが、まったく無視するということもない。風呂が沸いたと知らせるとか、食卓とかでは普通に口をきく。が、以前よりある意味打ち解けていた皮肉なんかが遠くなった。両親に教えたりはしていないようだ。
雪乃ねえちゃんに知れているということは、二年生あたりまでうわさは拡大しているということだ。ひとつ気がかりなのは、周囲の雪乃ねえちゃんへの態度だ。やはり悪くなっているだろうか。
あの通りの姉貴だし、「あいつのことなんか知らないわ」とか言って自分と俺は切り離しているのも考えられる。そちらのほうが気苦労は少ないけれど、姉貴なのに、とかつい血にかこつけて思ってしまう。
まあ、確かにいざ話しあうことになっても、舌も唇もこわばってしまいそうだ。ふたりきりの時間が長引くと、本当に事について触れられそうで、朝はばらばらに行くのが習慣になるよう仕向けていた。
頭が痛いとか、腹が痛いとか、吐き気がするとか、いろいろかあさんに浅知恵を小銭のようにかきあつめる。かあさんは俺を眉を寄せて見つめ、「じゃあ病院に行く?」とちょっといらついた様子でこまねく。
リビングの入口では、髪も服も整えた雪乃ねえちゃんが、待ち合わせみたいに焦れったくドアにもたれている。
「雪乃は先に行きなさい」
「また?」
「しょうがないでしょ、頭が痛いって言うんだから」
雪乃ねえちゃんは俺を一瞥し、俺もそちらをちらりとする。雪乃ねえちゃんはベージュのコートの肩をわずかにすくめると、この寒風が深まる冬にも短くするプリーツスカートをひるがえし、リビングを出ていった。
あの学校のコートの色は三色あり、もうひとつは黒だ。賢司は確かその黒のコートだった。
「柊」と呼ばれてかあさんを向き、悪ふざけが見つかったように気まずく肩を硬直させる。かあさんは制服にも着替えていない俺を見つめ、古い機械が起動するときのように、重たそうな息をついた。
「どうする?」
「……え」
「病院に行くの? だったら、服に着替えてきなさい」
喉につっかえる後ろめたさにうつむく。ここには暖房がきいているけれど、足元は素足なので冷たい。
「何にもないって言われたら、そのあと学校に連れていくわよ」
かあさんに顔を上げたが、無論、抗議できた義理ではない。かあさんはその俺の反応に吐息をつき、「ねえ」と俺のやわらぎをそいでいく肩に手を乗せる。
「頭が痛いのは本当かもしれないけど、精神的なせいなんでしょう」
玄関でドアが開き、何も言わずに閉められる音がする。
「病院に行ったって、きっと何にも出てこないわ。おかあさんが言いたいこと分かるわね」
かあさんの目に地下室のように薄暗い目を向ける。かあさんは俺の寝ぐせの残る頭を撫でると、「車で送ってあげるから、早く支度しなさい」と車の鍵を取りにダイニングへと身を返した。
「……行きたくないんだ」
かあさんは俺の低くすりつぶした声に振り向き、「どうして」と持て余した顔で俺を覗きこむ。
「柊には、友達だってたくさんいるでしょ。賢司くんもいるじゃない。なのに、何で行きたくないの? 勉強?」
現代の親なのだし、かあさんも事に感づいてはいると思う。けれど信じられないし、信じたくないのだ。息子がそんな事態におちいっても、どう対応したらいいのか分からない。だから──。
ひがみすぎだろうか。でもやっぱり、かあさんは認められない。この事態に根づく要因を知れば、靴箱にゴキブリの死骸を入れられたことを認めるほうがたやすいだろう。
結局、毎日登校時間をゴムみたいに引き延ばしながらも学校に着く。特にぶあつい底の靴を履いているわけでもないのに、ずっしり重い足を道路におろし、車を降りて憂鬱に校門をくぐる。風は頬や白い息を切りつけるけど、よく晴れていた。振り返ると、かあさんは俺を見守っている。でも、正直この状況で見守られるのは、逃げ出さないよう監視されているようでもある。
いずれにしろ八時半が近く、のろのろ歩く生徒を大声で追い立てる教師がいた。昇降口へ歩いていくと、小走りに靴箱に駆けこんでいく生徒の中、悪い毒にでもやられたようにムカつく肺を抱え、拷問台を擁する建物に仕方なく踏みこんだ。
イジメをはたで見てきた経験で言えば、一度獲物になれば、環境を変えるほかに解決策はない。転校生への洗礼などならまだしも、気丈にやり返したら相手はビビるなんて絵空事だ。
あちらが飽きるか、その班、その教室、その学校、あるいはこの世をこちらが逃げるかなのだ。クラスでの話合いになったイジメが小学四年生のときにあったけど、それもその生徒があやふやな理由で転校して解決した。
けれど、それは本当に解決だろうか。自分は中途半端に降りた。そんな後悔じみたやましさが、羞恥心を刺激しそうな気がする。
とはいえ、おとといは靴箱にゴキブリで、その前はつくえで教科書が水浸しだった。その日、俺は日直だった。昼休みに用事で担任に呼び出され、印刷物の束を教室に持ち帰ると、中央列の前から三番めという四月と同じ位置になった今月の席に近づく。
そしてつくえが点滴のように雫を落としているのに気づき、悪い予感に駆られて急いで引き出しを開けた。すると、そこでは教科書やノートが水にびしゃびしゃにふやけ、かたちをでこぼこに変えつつあった。「嘘」と湿った紙の臭いに思わず口走って泣きそうに焦っていると、久米といういつも何かあるときは俺を嗤っていたクラスメイトが、通りかかって言った。
「ああ、お前に触られて汚れてるだろうから、洗っといたぜ」
彼を振り返り、その色白で綺麗だけど鋭さのある顔立ちを言葉が追いつかなくてただ見つめた。彼はおかしそうに細い目をもっと細めると、眉に嫌悪をにじませて一歩俺から飛び退く。
「変質者のほうが、女を襲うだけまともだよな」
俺は瞳を穿ち、久米は茶髪をなびかせてその場から身をひるがえしていった。教科書に触れる指先に冷たさが響いていく。彼を迎えた仲間は楽しそうに笑い、ほかの生徒も見ないふりか、ただ見ているかだった。教科書に目を落とし、真空状態になって息ができなくなる胸元に、表情を苦しく圧迫させる。
何でだよ。血も忘れて真っ白に涸れる痛みでは、それしか思うことができなかった。
彼らのそうした嫌悪により、どんどん角に追いつめられていく。恥ずかしいなんて、そんな一種の余裕は、そのうち水が蒸発していくように削られていくのかもしれない。わざわざ精神力を痛めつけられにいくなんてバカバカしくなる。学校なんかやめて正解だった、と信じるどん底に極まる。
ここにいても、誰も分かってくれないのは事実だ。誰も俺が傷つくのなんて気にしない。みんな敵で、そう、関与しないということで賢司さえ敵なのだ。
彼らが攻撃で訴えていることは何だろう。やはり消え失せろということか。けれど俺のほうは、自分を受け入れろとうるさく訴えていない。放っているのだから放っておけばいいのに、みんな俺を消滅させないと気が済まないのか。
もしくは、何も言わないからあれこれされるのか。ゲイで何が悪い、と言い返したら──言い返したって、悪いに決まってるだろ、という反撃が正当なような感覚が強すぎる。そんな感覚を持った人間が多すぎる。特に学校なんて場所では、深い考えはない多数決が無闇に強い。
そう、みんな深い考えはないのかもしれない。絶対ホモは許されない、とかたくなに思う奴なんて少ないと思う。俺が現れて初めて、どう受け止めるかにとまどい、おおかたは気持ち悪いと見るようだから自分もそうなっておこう、と消極的に受け止めたのだろう。
そして、いったんそういう方針に決めたら、深く考察するのも面倒臭いし、いつしか“何となく”は“信条”にまで化して揺るがしがたくなる。つまり彼らの指針も目的もない無軌道な嫌悪は、底無しの胃袋みたいに満足することなく、さらに激しくなりうるのだ。
教室で獲物になるのは、全世界を敵にまわすのと変わりない。誰も守ってくれない。誰も気にしてくれない。周りにいるのはぶちのめしてくる奴か、それを見過ごす奴だ。
持つわけがない。恥ずかしくなんてないのかもしれない。そんな状況に墜落したら、誰だって投げ出したくなる。やめたほうが精神にもずっといい。ここで傷つきつづけて何になる。大人になって振り返ったとき、嫌な気分にならずに済むのがどちらかは明快だ。
教室にいると、捨てられないゴミを持ち続けるように嫌な気分が降りつもる。今日もまた嫌なことがあった。一生忘れられない経験が、記憶に穢れるようにこびりつく。それを本気で死ぬまで引きずっているかもしれないのが怖い。
これから毎日毎日、この悪夢の日々を送ったことを思い出す。思い出さない日はない。愛し合った故人みたいに。本当に、この執拗な記憶力は恋愛のようだ。忘れることができれば、どんな嫌な目に遭っても構わない気がしてくる。でも、絶対に消えやしないのだ。
学校に来なければ、どんな経験にも出遭わなければ、記憶には何も書きこまれずに済む。そんなふうに思うと、本当にこの学校には来たくない。何もかもやめてしまいたい。まっさらなまま、何にもないほうがマシだ。これ以上、心の中に真っ赤だとか真っ黒だとかの殴り書きを増やし、思い出したくもない痣につきまとわれるのに怯えたくない。
その日は吐息が日中でもうっすら色づく、朝には小雨もぱらついた薄暗い日だった。十二月も下旬が近く、校内は冬休み気分、テレビや町もクリスマス気分に浮かれている。
しっとり湿った、ところどころ錆も見受けられる非常階段で、俺は手すりにもたれて厚みのある一面の灰色を見上げている。冬休みか、ときめ細かく冷えこんだ風にため息と髪をなびかせて身をすくめる。俺には浮かれるゆとりもない──それぐらい、ほっとさせられる。
今日もまた笑い者にされた。休み時間につくえでぼんやりしていたら、いきなり一冊の本を目の前に投げ出された。見るとそれは破れてなかば落丁した、かなり古い裸の男がポーズを取ったゲイ雑誌のポルノページだった。眉を寄せて顔を上げると、また久米たちで、彼は俺の狼狽えた目に金属がきしるような物笑いをした。
「お前の落とし物だろ。ゴミ捨て場にあったぜ」
彼の背後のふたりは噴き出し、残りのひとりは素早く本を取り上げ、勇者の剣のようにそれを電燈の真下に掲げた。
「おい、これがこいつの恋人なんだってさ!」
すぐさまみんな振り向いたり目を留めたりし、途端、嫌悪や軽蔑がたっぷり混ざった声が、ふたを取った湯気のようにわっと上がった。吐くような声や笑い出す声、ひと言さしはさむ隙もなかった俺は、熱に硬直する軆でかろうじてうつむく。
「そんなに赤くなるってことはほんとなんだ」
冗談ではなくて顔を上げたが、何がこいつらの口をガムテープみたいに黙らせられるのか、喉が空っぽでぜんぜん声が出ない。
「もしかして、これがうわさの本なんじゃねえの」
「うわさ」
「ほら、こいつってホモ雑誌読んでるとこ、岸村たちに見られたんじゃん」
「あ、そうか。そうだな。ははっ、じゃあ懐かしい再会を授業中にごゆっくり」
四人はげらげらと笑いながら俺の脇を去っていた。その蝉の声みたいにがさつにいくつも重なる笑い方は、ときどき気がふれていた。バカにすることでしか俺には接せられないような、どこか虚ろで頭が痛くなってくる爆笑だ。
俺は張りつめたみぞおちに唇を噛みしめた。ねじあげられるように、無性にその場におさまったままではいられなくなってくる。投げだされた雑誌に猛烈な衝動がはちきれた瞬間、俺は閃光にかられて本を鷲掴むと教室を走り出ていた。
ざわめく制服すがたを涙をこらえて縫っていると、四時間目の始業の鐘が鳴った。パンフレット並みに薄っぺらかった本は、手の中でリボン状につぶれていた。生徒が教室に引いて、教室に帰りたくなかった俺は、とっさにそばにあった非常階段へのドアにすべりこんだ。そしてそこで痺れてくる指で雑誌を細かくちぎり、桜の花びらぐらいになって何の写真かも分からなくなったページを、風に奪わせていった。
すごく静かだった。授業中は、教室にいないとこんなに静かなのだ。風の音だけがすりぬけ、上着もない俺はずいぶん凍えさせられるけど、教室よりずっと息が抜ける。
正面に面しているのはビルの灰色の壁で、湿った冬の空は滅入った色合いなのに、誰もいないとひりひりの膿に麻痺しかけていた心は不思議と休まった。濡れた鉄の匂いと、下から立ちのぼってくる濡れた土の匂いがしている。
それでもだいぶ気はくらくらして、視線を地面に取り落としそうになる。あの雑誌が本当に拾い物か、わざわざ調達したのかは謎だが、いずれにしろ、どうしてあんなことをするのだろう。
いったいこの状況は何なのか。あいつらの罪か。俺の罰か。俺はそんなに悪い存在なのか。俺がゲイで、彼らに何の迷惑がかかる? 好きになられるのが怖いのか。どのみちあんな切れた男なんて好きになれない。仮にこの状態が罰だとして、俺にあそこまでやっていい奴がいるとすれば、それは賢司だろう。
罰、だなんてもちろん思いたくない。あいつらの罪だと思っていたい。でも、感情がちぎれそうにすりきれていて、分からないのだ。それが客観的にもゲイの保身でないかどうか。
思えば、すっかりゲイとしての自分について考えなくなっている。そんな余裕がない。今、俺の心は次々と消えない血飛沫をくっきり残していくばかりで、ほかのことには動けない。何も分からない。このままでいてはいけないのに、悪魔が吸い取っているように浪費される精神力に、このままでいるほか、どうしようもない。
冬休みにはしばらく休めるのだが、二週間後には三学期だ。三学期にはどうなっているのだろう。分かっていても、想像はつかない。終わってはいないだろう。いつまで終わらないのか。ここを卒業したら変わるだろうか。
そこが、イジメとは決定的に違うのだ。俺はこの状況以上に、ゲイということを逃れられない。逃げ出せば、それは、学校からというより人生からになるのだ。だってもしかしたら、生きているあいだずっと、俺の周囲はこうかもしれない。
くたばりそうな目で非常階段を見下ろす。ここをおりれば、せめて今はこのまま拷問には帰らず逃げ出せる。取り留めなく思って、睫毛を緩めながらも、結局は手すりに背中を伝わせる。そして、濡れた冷たい非常階段に、捨てられて路地に暮らす犬のようにうずくまっていた。
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