桜舞う中で
連れ立って出てきた息子たちに、俺のかあさんと森本のおばさんは挨拶を交わす。満員電車じみたちょっと蒸し暑い混雑に、縫うというより押し流されて一階に降り、上履きは出席番号と同じ番号の靴箱に入れる。
強い風に桜の花びらがひるがえる外に出て、一オクターブ高い声で笑い合う母親をよそに、これと歩きかよ、と死体でも入っているようなかばんに、森本と共に目を落としていたときだった。
「柊っ」
とっさにかあさんを向いた。が、かあさんも俺を見て、「『柊』って聞こえたわね」とあたりを見まわす。森本に腕を軽くたたかれ、校門のほうをしめされた。その指先を視線でたどり、人混みをかきわけてこちらに来る男子生徒を見つける。森本と顔を合わせる。
「誰?」
「さ、さあ」
昇降口から校門へはろくな距離がなく、そいつはすぐ目の前に来た。やけに親しくにっこりとされ、俺は押し売りでもされているように臆して、後退りそうになる。
「あ、あの──」
「柊だろ。塩沢柊」
「ま、まあ。えと、君は」
「──賢司くん?」
割って入ったかあさんの声に、振り返る。意味不明だった暗号をやっと解読できたように、かあさんの眉が次第に怪訝をほどく。
「そう、賢司くんでしょう」
「はい。久しぶりです」
「まあ、ほんとねえ。大きくなって。何年ぶりかしら」
ケンジ。聞いたことあるな、と目を雑踏にそらしていると、「ほら」とかあさんに肩を叩かれる。
「賢司くんよ。憶えてないの? 市内にいた頃、よく遊んでたじゃない」
かあさんを見たあと、そいつと顔を合わせ、そういえば見憶えもある特徴ある切れ長の目を見つめる。軽い短髪、目線は俺よりやや高く、肩幅もかたちづくられつつある。子供の頃、俺はけっこう内気で、二階のベランダから、みんなが遊ぶ公園をひっそり眺めていた。ある日、ひとりの奴がベランダの元に来て、ぎくりとする俺に、にっこりとして両腕を振ってきた。
「そんなとこで、何してんだよ。こっち来たら──」
あのときの笑顔と、目の前の笑顔が、3D画像がふっと浮かびあがるように重なった瞬間、「あ」と目を開いて声を漏らした。そうだ。思い出した。賢司。寺岡賢司。そう、市内のマンションに住んでいた頃、幼稚園は違っても同じ棟で仲がよかった奴だ。
「マジで? 賢司?」
「そうっ。何だよ、薄情だな。思いっきり忘れてたな」
「だ、だってさ。え、待って。何でここに」
「お前な、同じ教室にいたことすら気づかなかったのか」
「嘘。えと、じゃあ一年一組」
「そお。ま、お前のいた列の一番後ろだったんだ。クラス発表で、同じ名前がいるなー、とは思ったけど。このかわいらしい顔見て、確信持ちましたわ」
ぐに、と粘土みたいに頬をつねられ、俺はどきっとしてとっさにその手をはらう。
「い、……痛いだろ」
「ふん」と賢司は得意気に笑うと、「友達?」と森本をしめす。何だか変な心臓を抑えてうなずき、「小六のとき、同じクラスだったんだ」と入りにくそうにしていた森本を紹介する。
「森本裕助っていうんだ。こっちは寺岡賢司」
「よろしく」と賢司はさっくり森本に微笑み、「こっちこそ」と森本は多少気圧されつつも、親しく返す。昔から賢司は人懐っこく、魔法で現れたみたいにまばたきのうちに友達を作る。
「でも、すごい偶然ね。おとうさんの転勤がこっちのほうだったの」
「というか、戻ってきたんです」
賢司はかあさんにも愛想よく接する。確か、賢司のおじさんが勤める会社は、俺のとうさんの勤める会社の近所だった。
「でも、あのへんずいぶん変わってたし、いっそ郊外に住もうかって。ま、俺はよく分かんないんですけど」
「おかあさんは来てるの。挨拶したいわ」
「あ、来てますよ。路上駐車してた車取りにいってるんです。俺は、柊があの柊が確かめたくて残ってて」
賢司はこちらににやりとして、俺の心臓はなぜかわずかに居竦まる。つねられた左頬が熱っぽくて、何となく触れると、「そんな痛かった?」と賢司が愁眉をちらつかせて覗きこんでくる。俺は肩を引いて首を振り、「大丈夫」と確かに熱を感じた指を、服の影に隠した。
「じゃあ、またあさってにな」とおばさんと帰っていった森本と入れ違いに、賢司のおばさんがやってきた。保守的なかあさんと異なり、ポニーテールが似合う活発そうな女の人だ。けれど、意外と親しくかあさんと旧交を温め、俺の頭を朝の雪乃ねえちゃんの髪みたいにくしゃくしゃにする。この数年間どうだったかとか、旦那のこととか、俺たちのこととか、積もる世間話をするうち、おばさんは賢司の肩を押した。
「ちょっと、柊くんとそのへんぶらついてなさい」
俺たちは顔を合わせ、「んじゃ、代わりにこれ見張っといてくれよな」と賢司が荷物を地面におろしたので、俺もそうした。
そして俺たちは、俺たちより親友同士のようなふたりを離れ、花びらとざわめきが舞い散る敷地内を歩くことになる。
「いつこっちに来たんだ」
くしゃくしゃにされた髪に手櫛を通しながら訊くと、「今月の頭かな」と賢司は軽くなったらしい肩を揉む。
「ほんとは今年の初めに来るはずだったんだ。けど、俺の卒業まではって」
「じゃあ、卒業は向こうで」
「だな。柊ってどのへん住んでんの」
「三丁目。一軒家のほう」
「あー、俺はマンションだわ。リッチになったんだな」
「借金はたんまりあるみたいだけど」
賢司はおかしそうに笑い、「ほんと久しぶりだよな」と改めて俺を見つめる。
「何の連絡も取れなかったし」
俺たちが音信不通になったのは、俺がこの郊外に引っ越したせいでなく、小学校に上がる前、賢司がおじさんの転勤で遠くに行ってしまったせいだ。電話をかけるのも、文字を書くのもままならなくて、どうしようもなかった。
賢司が引っ越す、と知ったとき以上のショックは、受けたことがない気がする。世界の狭い内気な幼児のこと、友人をひとりそばから失う痛手は、寿命がばっさり十年ぐらい縮まるより大きかった。
「お前、完全に俺のこと忘れてただろ」
「……ごめん」
「俺はときどき、どうしてるかなって気になってた。だってお前、すげえ内気だったじゃん。さっきの奴みたいな友達いるんだな。よかったよかった」
「何であんなだったんだろうな。姉貴もいるのに」
「あ、雪乃は元気? 来てないんだ」
「来るわけないだろ。今、機嫌悪いし」
「何で? 喧嘩?」
「気むずかしい人になってるんだ。微妙な年頃」
「はは。そっか、ひとつ上だったっけ。会いたいなー。あ、花びらついてるぜ」
「え」と俺が学生服を見下ろすと、「ここだよ」と賢司は咲いながら俺の髪に触れた。
瞬間、心臓が強く跳ね、頬が一気に火に染まった。やば、ととっさに焦っても、顔を背けるのは感じが悪い。視線だけが、とまどって変な方向に泳ぐ。
ものすごく、血飛沫でも飛び散ったように真っ赤になった気がしたけど、賢司は何事もなく指先から乳桃色の花びらを落とした。
「毎年、開花が早くなってるもんなー。そのうち、桜は冬の花になったりして」
笑ってきた賢司に、かなり必死に笑顔を取り繕った。
何。何だ。何でこんなに熱いのだ。目までかすかに濡れている。触れられた髪に、神経も意識も集中し、はじけた心臓を制御できない。
「どうかした?」
賢司が首をかたむけて、覗きこんでくる。俺ははっと息を閉じこめて、頭が真っ白になる。
「あ……、」
「何か、気に障ったか」
「い、いや。その、別に」
「そ。にしても、ここグラウンド広いなー」
気づくと、右手に校庭が広がっていた。賢司は一段階段を降り、俺は一瞬足元に目をつぶる。
桜を孕んだ、強い冷たい風が、むずがゆい髪を揺らし、熱い頬に染みこんでいく。何で。熱い。どきどきする。息がつっかえる。賢司に触れられたせいか。何で、賢司に触られてこんな──
「正直言うとさ、これから中学になるってのに、友達と離れるの嫌だったんだ。けど、柊にまた会えたんなら悪くなかったな」
そのときだった。
突然、鮮烈に「あの光景」がまたたき、俺は命を吹きこまれたアンドロイドのように目を開いた。賢司は校庭を見渡していて、そのすがたは俺のこわばった視界でガラス越しのようになる。
真っ赤にほてっていた心臓も、瞳も、何もかもが真っ青に冷たくなっていく。衝撃で白髪になるみたいに色褪せて、血の気がざっと引いて、弱い息遣いの痙攣だけが残る。
賢司のことみたいに、すっかり綺麗に忘れていた、半年前、俺にべたべたとつきまとった、あのおぞましい悪夢──
嘘だろ、と足元がひどい音を立てて崩れていく。あの夢はバカげた作りごとだったはずだ。根拠のない泡みたいな夢だったはずだ。
違ったのか。あれは俺の本能を映し出した鏡だったのか。
男にときめく。
男なのに。女じゃなくて、男に──
「柊?」
びくっとそちらを見ると、賢司がこちらを振り向いて首をかしげていた。でも、唐突にあふれかえるやましさに、とても彼を直視できない。
「やっぱ、何か怒ってない?」
「お、怒ってないよ。別に、ぜんぜん。ごめん」
「謝らなくていいけど。かあさんたち、まだ話してんのかな。どっか茶店にでも入りゃいいのに。このへんないのか」
「えっ。え、あ──あ、あった、かな」
「んじゃ、そこ勧めようか。俺たちも、そこでなんかおごってもらおうぜ」
隣に来た賢司にぽんと肩をたたかれ、また俺は軆を硬直させそうになる。でも、賢司にこれ以上怪訝に思われたくなくて、秘かに深呼吸して、頬も視線も馴らして、人混みをくぐる彼を追う。
石化したはずの心臓は、触られてまたのんきに脈打ち、黙れよ、と本気で歯噛みしながら、胸のあたりを握りしめる。冷たい風にくっきり感じる頬の熱が、みぞおちにずきずきする。
こんなの信じられない。信じたくない。冗談じゃない。まさか、自分がホモだなんて──
いや、そうだ、違う。ホモなんかじゃない。俺は一度もそんなのに走ろうと思ったことはない。そうなろうとはしていないのだから、ならなくて済むはずだ。そうでないとおかしい。不公平ではないか。俺は男なんかお断りだ。他人がよそでやるのは勝手だけど、自分では嫌だ。だって、そんなの……
「女って、これだからな」
まだ盛りあがる母親を見つけた賢司にささやかれ、思わず肩が発熱に狼狽える。賢司は俺を眺め、「具合でも悪いのか」と頬を小突いてくる。ぎくっと冷や汗に体温が青くなり、触れられた頬を、点火した花火みたいにやたら熱い指で引っかく。
「下に、厚着してきたせいかも。かあさんが、今日は風が冷たいってうるさくて」
「はは。子供の頃が内気だと、自立しても親は過保護だよな。──かあさんっ。そんな長話すんなら、茶店にでも行けよ。車あるんだしさ」
賢司の声に振り向いたおばさんは、「あっ」と声を上げて校門を見やる。
「やだわ、そうよ、車っ。忘れてたわ。校門の前に置きっぱなしよ」
「もうレッカーされてるな」
「バカ言わないで。ごめんなさい、じゃあまた今度ゆっくり」
「そうですね。ごめんなさい、私が引き止めちゃって」
「いえいえ。ええと、連絡先は子供たちに任せればいいですね」
「そうですね。──賢司くん、またこの子のこと、よろしくね」
「はーい。って言っても、今回は俺のほうが柊にこのへんのこと教わりそうな。──柊、またあさってにな」
「うん。あ、あの、ごめんな。何か変で」
「気にすんなって。お前には、俺は死人に等しくなってたんだもんな。驚きもするよ」
あやふやに笑い、賢司は軽快ににっとすると荷物を取り上げて、おばさんと行ってしまった。俺も強力な磁石で地面と引き合っているような重さのかばんを取りあげる。
顔を上げると、もう桜の風の中に賢司たちのすがたはなかった。ついほっとしていると、「私たちも行きましょ」とかあさんに校門へと流れを帯びていく人混みの中にうながされる。当然この言い知れない動揺については何も言わず、俺は家に帰った。
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