非常階段-31

年末年始【2】

「……ねえちゃんは、知ってるんだろ」
 雪乃ねえちゃんの目が、カメレオンみたいに目玉だけこちらに動く。
「何を」
 たたみのとうもろこし色を見つめ、「別に」と目を閉じて体温の通っていくふとんに身を縮めた。また風音とボタンを押す音が沈黙に響く。
「賢司は何も言わないの?」
 少し目を開けた。口はつぐんでいるから、呼吸のたびふとんの木と防虫剤の匂いがする。しばしボタンを押す音が止まり、送信したのか確認のように一度ボタンを押した雪乃ねえちゃんは、ケータイを閉じた。
「意外だわ」
 もう少し目を開ける。雪乃ねえちゃんはこちらは見ずに立ち上がり、ケータイはすとんとオレンジのジップアップニットのポケットに落とした。
「何。トイレ?」
「バカ。向こうでやるわ。メールだし。電気消すんでしょ」
「………、ごめん。いいよ、つけてても」
「あんたが弱ったら、あたしがイジメたことになるのよ」
 雪乃ねえちゃんは変わらない無愛想で部屋を出ていき、俺はしばらくその閉められたふすまを見ていた。そしてゆっくり立ち上がると、紐で明かりを黙らせる。
 ストーブの篝火みたいな赤い熱が、部屋を真っ暗にはしなかった。再びふとんにもぐり、深い森のようにほの暗い室内を見つめていると、何やらけっこう寂しくて胎児になっていた。違う匂いのふとんの中、風の音と向こうでの笑い声が聞こえる。きつく目を閉じると、よく分からないまま滲みそうになった涙をこすった。
 意外。でも、賢司のことはもう考えたくない。周囲に惑わされたりしない奴だと信じていたのに──これが賢司が弱い奴だったと取るべきなのか、俺がねじまげるほど醜悪なのだと取るべきなのかは、分からない。
 年越しをここで済まし、朝食に春の花壇のように鮮やかなおせち料理を食べると、元日の昼前には出発して初詣に行った。願いごとはたくさんあったが、神様は同性愛を認めていないそうなので黙っておいた。そのあと、夕闇の雪景色を包みこむ雪が降り出した頃に父方の実家におもむく。こちらは、郊外だけど母方の実家ほど田舎でもない住宅地の一角で、すでに長女になる叔母一家が一番乗りしていた。
 健在の祖父母は居間で叔母夫婦と談笑していて、いとこの桃子ももこ静香しずかは怪獣みたいに騒がしく家中を駆けまわっている。桃子は小学三年生で、静香は一年生だ。お淑やかそうな名前のくせに、どちらもぜんぜんおとなしくない。
 とうさんとかあさんが居間に顔を出している話し声を聞きつけたのか、二匹は玄関のそばの階段を飛び降りてきて俺を見つけると、「柊ちゃんだ」とラリアートでもかけてくるように駆け寄ってきた。
「柊ちゃんってやめろよ」
「ママには柊ちゃんって呼ばせてるよー」
「ねーねー、彼女できたー?」
 たまごの殻みたいに、今にもこめかみにヒビがはいりそうだ。「知るかよ」と痺れた指で肩の淡雪を払い、荷物を持ち直して玄関に上がる。祖父母の家だろうと、匂いは他人の家に踏みこんだときと同じ違和感がある。
「性格悪いと彼女できないよー」
「女の子は優しくされないと好きになってあげないよー」
「お前らを彼女にする予定はないからいいんだよ」
「冷たーい」
「あ、雪ちゃんだ。こんばんわー」
「あ、ああ。こんばんは」
 臆し顔の雪乃ねえちゃんを横目に、そういや俺のいとこって全部女なんだよな、と思い出して両親の後ろにつく。次女の叔母夫婦の子供はひとりで、四歳の女の子だ。今のところ塩沢の名前を継げるのは俺ひとりということで、何だかなあ、と隠した自分の一部がまたもや疼く。
「あらあら柊ちゃん。久しぶりねえ」
 堅実派の兄や両親に反抗したのか、二匹の母親である叔母さんは塩沢家中一番ひらけていて騒がしい。とうさんとかあさんのあいだから頭を下げた俺に、そう満面に微笑んだこういう人は、同性愛は能天気に受け入れるかばっさり嫌悪するかだと思う。無論、叔父さんはその叔母さんの尻に敷かれている。
 そのうち次女の叔母さん一家もやってきて、正月の厳格さの欠片もない宴会が始まる。桃子と静香はおとなたちのあいだを小犬みたいに駆けめぐり、雪乃ねえちゃんは二階で電話、俺はヒマなら面倒を見ておいてくれと、例の四歳の早穂さほを押しつけられる。
 早穂は二匹とは違っておとなしい、将来有望なお人形さんだ。睫毛が花びらのようなぱっちりした目に見つめられると、脅迫的なかわいさに曖昧に引き攣った笑みを返してしまい、絵本でも読んであげようかとなる。
 そうして酒や肴の匂いがうろつく部屋は離れ、薄ら寒い台所に明かりをつける。テーブルにならぶ追加料理をしょっちゅうかあさんたちが取りにくるけど、騒ぎとはひと置きある。
 叔母さんに荷物から絵本を取り出してもらった早穂は、いそいそとそれを持ってきて、隣の椅子につたなくよじのぼる。ちょっと手助けしてやって彼女が椅子に落ち着くと、俺は本を開いて、透明感のある水彩画が綺麗な物語を読んでやった。
 ストレートを演じた暁に女と家庭を持ち、子供ができたらその子にどんな感情を抱くか。以前そんなことを考えた。俺は怨んでたたく親になる気がした。こんなふうに絵本を読んでやる父親になれる可能性もあるのだろうか。愛し合った相手なら殴るはずなくても、その場合、相手はどうしても男なのだ。こうばれてしまったからには、俺が子供を持つ日は永遠に来ないのだろう。ゲイだと知る前には、子供なんかいらないとか思っていたのに──
 バターが蕩けてくるようにうとうとしてきた早穂に、叔母さんを呼びにいく。「ありがとうね」と俺の頭に手を乗せた叔母さんは、おっとりと物静かな人だ。叔母さんの優美な手が器用に早穂を抱き上げるのを見ながら、自分はやはり重大に欠落しているのだろうかとまざまざ暗く焦る。
 宴会は夜遅く続き、子供たちは二階の一室に電気ストーブと共にまとめられた。「女ばっかり」と毎年俺は抗議するが、「ひとり男がいたほうが安心だろ」と酒がまわった大人に押されて気づまりな想いをさせられる。
 言葉の通じない外国人たちと相部屋になったような窮屈さは、今年は特にだ。変な気を起こす恐れがまったくないのが、かえって俺のひずみをさいなむ。メールをやる雪乃ねえちゃんの周りで小犬をやっていた二匹が眠りにつくと、部屋は落ち着き、俺は窓辺に頬杖をついて寒天ににじむ星を眺めてむくれていた。
「いつまですねてるのよ」
 ごそ、と身動きする音と共に、雪乃ねえちゃんの取り合いたくなくなさそうな声がする。一階では笑い声が途絶えない。
「何で女の中で寝るんだよ」
「男の中だったら寝れるっていうの」
 ボールをよそへ投げられたような心外な不愉快に眉を寄せ、雪乃ねえちゃんに首をねじる。雪乃ねえちゃんはケータイを閉じて荷物のそばにかがみこんでいた。三人はすやすやと砂糖菓子みたいに甘い顔で眠っている。俺は頬杖をほこりっぽい桟におろすと、しばし口をかためたのち、ため息を陰らせた。
「ねえちゃんはどう思ってる?」
「勝手にすれば」
 こちらを見もしないそっけない台詞に、やっぱな、と粘る液体のように壁を伝って冷えたフローリングに座りこむ。窓、クローゼット、白い壁紙、いたって洋風の空き部屋だ。俺と雪乃ねえちゃんがふとんを敷けば、ストーブの周辺以外、床はおおわれる。服とタオルを抱えた雪乃ねえちゃんは、早穂をよけてドアへと向かった。
「どこ行くの」
「確かに、あんたがいなきゃよそで着替えなくていいわよね」
「………、」
「お風呂よ。あの初詣の人混みで、髪とかにどんな臭いがついたか分からないわ」
「ついてても誰も分かんないよ」
「あたしが気になるの。ケータイ鳴ってもほっといてね」
「はいはい」と脱力して首をすくめる。雪乃ねえちゃんは説教したりない教師みたいに眇目をしたあと、部屋を出ていった。
 俺はジーンズの膝に頬をあて、まろやかに織り重なる寝息の合間に一階の笑い声を聞く。俺は大人になったとき、あんなふうに今の家に帰ることはできないかもしれない。すべての最悪の事態は、タイマーをセットしたように刻々と迫る時間の問題なのだ。
 みんなにばれ、友達を失くし、賢司も失くし、唾棄に包囲され──しかし一週間後に三学期が始まれば、俺の感性はさらに悪化する。通知表の通信欄は、事について触れていなかった。それでも両親にばれる日へと秒針は確実に進んでいる。悪い予感をともなった鼓動のような響きを持って。きっと今ここに集まる親戚たちにも、空気感染みたいに俺の破れかけている秘密は伝わる。
 どうしてだろう。底に行き着くことなく、悪夢は続いて続いて行き止まらない。終わりも答えも見つからない。俺が何をすれば気が済むのだ。ゲイじゃないと言えばいい? 女の子とつきあって見せれば? 結婚して子供を作ったら納得? この状況が何のためになるのか分からない。自分たちの偏見による吐き気が落ち着けば、俺の心はどんなに踏み躙られてもいいというのか。
 だったら、俺のほうがみんなを拒絶したい。全部投げ出して、自分に閉じこもりたい。学校もやめたい。あいつらの顔を見たくない。声も聞きたくない。冬休みのおかげで余計に耐性が怖気づいている。
 次は何をされる? あそこでは無感覚な悪魔──いや、天使が血なまぐさい笑みをたたえている。はみだし者に、自由はない。
 何ひとつ報われない。ひたすら全部ダメになっていく。
 あんなところに行くなら死にたい。本当に──死んで何も感じなくなって、これ以上このわずらわしい頭の中に何もなすりつけたくない。

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