非常階段-33

鞭打つように

 宿題をやってきたノートのページをいつのまにか破られていたり、国語と数学の教科書を強力な接着剤で背中合わせにされていたりする。一月は下旬にさしかかっていた。両脚を砕かれた人が這うぐらい遅くて、焦れったくて、長い冬は、まだ三分の一以上残っている。
 五時間目に体育の授業があるその日、着替えなくてはならない俺は、いつもより早めに非常階段から教室に帰った。体育の授業は、ひどく憂鬱だ。体操服を入れるリュックを連れて、汗でむさくるしい更衣室に行き、嫌悪の視線にうつむいて奥のブラインドの降りた窓辺に行く。そこで中身を取り出そうとリュックに手を突っ込んだ俺は、びくりと反射的に肩をこわばらせた。
 べたり、とした、嫌な感触が手のひらに気味悪く口づけた。え、とリュックに突っこまれた手を見下ろし、その妙にざらざらした感触に生唾を飲みこむ。何だ。なめくじ。いや、違う。もっと広い。それに液体状で──恐る恐る手を動かすと、じゃり、という粗い手触りが手のひらをこすった。
 途端一気に蒼ざめた俺は、嘘だろ、と右手を突っこむままリュックの口を大きく開く。すると、中には濁った土の臭いと黒ずんだ泥水が、どぶに落としでもしたようにたっぷり染みこんでいた。
 そんな、と喉元に黒煙が垂れこめ、眉も頬も焦りにゆがむ。のんきに笑いながら着替える背後を思わず振り返りそうになったが、そんなことをすれば、ふくろだたきに遭うだけで首は俯角に押しとどめる。
 どうしよう。これから授業なのに。乾かすヒマどころか、洗う余裕もない。いつされたのだ。まだホットケーキの種みたいで、生乾きですらないので昼休みか。リュックを持ち上げて底を覗くと、ベージュの綿布にもガーゼににじむ血のように染みが広がろうとしていた。
 換えの体操服なんてない。当然体操服を貸してくれる別のクラスの友人もいない。どうすればいい? 体操服は忘れたことにしようか。だが、東浦は典型的な体育教師で融通がきかない。忘れ物もサボりも、遅刻だって軆で罰する。この泥水の体操服を見せれば納得するだろうか。でも、たぶん、あいつは俺を嫌っているのだ。
「俺たちがみんな出るまで気でも遣ってるのか」
 肩にかかった声にはっと振り向くと、すでに体操服すがたになった久米たちだった。
「でも先に自分に気い遣ったら」
「東浦はお前のことすっげえ嫌ってんだぜー」
「体操服はあるんだろ。それともホモのおっさんにでも売っちまった?」
 久米のきつねのような細目の笑みに、上久保と西園は噴き出す。彼らに瞳を張りつめ、リュックをきつく抱きしめる。「ああ」とその衣擦れで気がついたように、久米はわざとらしくリュックに目を止めた。
「あるんじゃん。さっさと着替えれば」
「俺たちはみんなまともだから、お前のこと見たりもしねえよ」
「ほら、ほんとお前って女みたいだな」
 確かに女みたいに俺が胸に抱えていたリュックを、西園が強く引っ張る。「あ」と力をこめるべきか迷った一瞬の間に、右手が引き抜け、ついでぐらついたリュックが床に泥水の染みこんだ体操服をべちゃっと吐き出した。三人は周到に一歩飛びのいたが、突っ立った俺の上履きや靴下には泥水が跳ね返った。
「うわっ、何だよこれ」
「泥?」
「へえ、蛆虫が同じ臭いでも感じて巣を作ったのかな」
 久米の皮肉にふたりが爆笑したとき、チャイムが鳴った。「あ」と三人はさっさと切り替わって入口へと向かい、ただ、西園がいったん立ち止まって俺に空になったリュックを投げつける。泥を飛び散らせて俺の胸にあたったリュックは、足元に落ちてなおも靴下に泥水を染みこませた。
 平然と三人に合流できない何人かが、茫然と動きを止めて俺を見ている。だが、ひとりが我に返ってドアへと動くと、呪縛が解けたようにみんな続いて、息苦しい更衣室は俺ひとりになった。
 ぎこちなく息を飲みこみ、汗やホコリが入りまじった煙たい空気の中、こわごわと自分を見下ろす。足元にはリュックがつぶれ、冬の紺色の体操服は溶けかけたチョコレートに似た泥にまみれている。指先からも泥がしたたり、見ると手のひらは衣でもかけたようだった。
 蛆虫──をもしや、入れたのだろうか。分からない。体操服に白っぽいうごめきは見当たらない。急に喧騒が遠のいた校内に、俺はつっかえていた喉から途切れがちなため息を押し出した。そしてゆっくり、今にもがくんと崩れ落ちそうな痺れた軆をいたわってその場にへたりこむ。
 何……。もう、いったい、何なのだろう。なぜここまでされなくてはならないのだ。さんざん考えてうんざりしていることだけど、こうして屈辱に出遭うたび、心は逆撫でられた悲鳴を上げてしまう。
 何であいつらは俺にここまでするんだ!
 深すぎる心臓に息遣いがおかしくなる。耐えられない白光がせりあげてくる。土の澱んだ臭いに突っ伏し、矢を放たれた動物のような大声を上げて泣きわめきたい衝動が湧き起こる。そして手あたり次第物を壊して、めちゃくちゃに暴れたい。
 だって、もう嫌なのだ。俺の周りのものは全部消えてしまえばいい。死んでなくなって二度と関わってこなければいい。全部全部、喉をかっきられて、目も耳もいくら警戒しても侵害されるのはなくなれば──
「塩沢!」
 だけど、そんな怒号が割ってはいり、ひずんだ内面に犯されかけていた俺は我に返った。顔を上げたのと同時に、肩がこわばる。険しい渋面で大股に近づいてきていたのは、ジャージを着た体育の東浦だった。
「お前、何やって──何だこれは」
 泥水に気づいた東浦は眉間を寄せ、それに目をこらしたあと俺を向く。赤黒い顔はごついわりに、その目は小さい三白眼で嫌な迫力がある。
「お前のクラスの奴に、お前はまだここでぐずぐずしてると聞いたんだが」
 体育の授業は男女分かれるため、いつも隣のクラスとの合同だ。
「それは体操服か」
 脅迫じみた口調のだみ声に、自分がやましいのかやましくないのかも分からず、視線を制服の膝に下げる。
「黙ってちゃ分からんだろ」
 硬直する軆を持て余し、少し首を動かす。すると、どんっ、と東浦はいらついた足を踏み鳴らし、俺は突然鳴りだした目覚まし時計みたいにびくっと肩を打たれた。
「何も言わないならお前の悪さにするぞ」
「………、」
「いいのか」
「………」
「いいんだなっ。まったく、じゃあ今からここを掃除するんだ。道具はその一番隅のロッカーだ。放課後に、今日の授業をお前にだけ行なう。分かったなっ」
「………、」
「返事もできないのか!?」
「……は、……はい」
 東浦は身を返すと狭い部屋を出ていき、ばたんっとすごい音を立ててドアを閉めていった。かえりそうなたまごみたいに今にも震え出しそうだった軆を、引き攣った息で少しずつ緩める。そしてぐったり首をうなだれさせ、こんなもんだよなあ、と膝元の明らかな人の仕打ちに疲れた目をそそぐ。
 黒板が中傷に切りさかれていても、ノートが水にべこべこになっていても、こうして体操服が泥だらけになっていても、教師は分かりたくないから分かろうとしない。分かっていたら、解決してやらなくてはならない責任ができる。理解し、味方になり、まして生徒に笑顔を取り戻させる教師なんて物語の中だけだ。
 言えばよかったのだろうか。久米たちにされた。だが、それで助かっていたといえるだろうか。あいつが俺を嫌っているのは、たぶん本当だ。久米たちが知らないとひと言言えば、人のせいにするんじゃないと俺に戻ってきた気がする。あいつは分かろうとしない教師だから、考えもしない人間に決まっている。
 泥水にまみれた体操服に、捨てられて雨に濡れる小犬に向けるような傷んだ目をそそぐ。片づけていなければ、さらに何をさせられるか分からない。寒気もあって、気だるい軆に丁重に力をこめて立ち上がった。東浦の言っていたそばのロッカーを開けると、確かに掃除用具で、ホコリが詰まったような臭いがしていた。俺はバケツと雑巾を取り出し、体操服をよけて水を汲みに一度更衣室を出る。
 泥が染みついた体操服は、放課後までに乾きもしないし、そもそも乾かす場所もなかった。重い足取りで放課後に東浦を訪ねた俺は、制服で校庭のトラックの外まわりを十周させられた。今日の授業は持久走だったということだが、真実かは分からない。食欲が沈んで、あまり物も食べていない俺には、ほとんど拷問だった。
 頭の中がどんどん白くすりきれ、突き刺さる脇腹に呼吸が上がってくる。引きずる足に土ぼこりが立ち、それを寒風が巻き上げて目に入った。痛みに思わず目をこすると、耐えられずに少し指先になまぬるい液体が伝った。でも、東浦が朝礼台で死肉を狙う禿げ鷹のように鋭く監視しているから、唇を噛みしめて水分はせきとめる。
 虚ろな目を前方に彷徨わせながら、自分がなぜこんなことをしているのかよく分からなくなった。十周走り終えたときには、心臓がえぐれて呼吸も荒さを越えて薄れ、今にも失神しそうに視界の遠近感が崩れて真っ白になりそうだった。
 でも、それで終わりではなかった。朝礼台をおり、痛いぐらいの息切れと汗にほつれる俺に放免を言い渡した東浦は、一度振り向いて目を細めると、こう毒づいた。
「気色悪い趣味にかまけてるから、そんなふうにたるむんだ」
 乾いた土に汚れるスニーカーに目をふらつかせていた俺は、射抜かれたように目を開いた。
 しかし、頭をもたげて東浦を睨みつける気力はなかった。どうせ喉も胸もずきずきしていて、声なんか出ない。何も言えないのに因縁なんかつけたって──
 東浦が立ち去ると、ふらついて朝礼台をつかみ、めまいがマーブル模様にぐらつく頭を垂れさげた。
 痛かった。ものすごく、息ができないぐらい痛かった。喉に穴が空いてしまったようだ。頭もぐらぐらするし、心臓もつづまって、足元も砕けそうにおぼつかない。目の中も胃の奥も痣だらけで、どうかなりそうだ。
 冷えきった風が汗ばんだ髪の間をすりぬけていく。薄目を開けて顔を持ち上げると、いつのまにか灰色がかった夕暮れが始まっていた。足痕だらけの朝礼台に顔をうずめて嗚咽を殺した。でたらめにたたく木琴のようにばらばらに痛む全身に、どうせしばらくは動けそうになかった。
 このまま帰ることはできない。教室に荷物を取りにいかなくてはならない。何でだろう。もう嫌だ。ここで力尽きて死にたい。そうしたら、東浦もちょっとは心を入れ替えるかもしれないし──そんな取り留めのないことを思う自分を自分で嗤い、ぐらりと朝礼台を離れると酔ったような足取りで歩き出した。
 校庭を出て、すっかり葉の落ちた桜と駐車場のあいだを歩いていく。静まり返ったあたりは、どんどんと暗く寒くなっていく。職員室には明かりがついていた。十七時半に部活動が上がったあとに始めたから、かなり時刻は遅くなっているはずだ。なのにたどりついた昇降口では、まだのんびり階段に腰かけている生徒もいたりする。
 俺と同じ冬服の男子生徒で、脇に手提げを寝かせて膝に頬杖をついている。部活動もずいぶん前に終わったし、何をしているのだろう。足音を引きずって近づいてくる俺に、そいつはおろした前髪ごしに無表情な一瞥をくれた。
 その目で俺は自分のくたびれきったなりにようやく羞恥心を覚え、頬を染めながら彼のそばを抜けて校舎に入る。荷物を取って出てきたときにはそいつはいなくて、景色もすっかり濃い藍色に飲まれていた。
 今際のように白い月が、雲にすがたを奪われそうになりながら光っている。指先が枯れる冷気に息が白くたなびく中、ヘッドライトを延ばして行き交う車を横目に坂道をのぼっていった。騒がしいぶんだけ排気ガスも濃くて、胸の空洞に吐き気がこだまする。
 かあさんにどんな言い訳をするか、考えなくてはならない。けれどまるで頭が働こうとしない。何か感じたり考えたりすることに、まだ今は虫酸のように拒絶反応が走る。
 あいつらは狂っている。そう思うのは俺だけなのだろうか。この痛みはゲイではないと理解できない特殊なものなのか。
 分からない。でも、この傷口は本物だ。俺は傷つけられた。信じられない。本当に俺のほうが悪くて、あいつらのほうが正しいのか?

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