誰もいない
「柊? 眠った?」
部屋に明かりはついていなかった。電気ストーブのぼんやりした赤がたたずんでいるだけだ。雨もやみ、そういえば、隣の雪乃ねえちゃんの部屋も静かだ。その声はかあさんのもので、びくりとふとんの中で目を開いた俺は、答えを躊躇った。
そっと隙間を作って、触手のように腕を伸ばし、ベッドスタンドの時計にライトをつけると、二十二時半が近い。昼下がりにお粥を食べただけなので、そのことだろうか。なら、別に食欲はないし、むしろ吐き気もするし──まだ陽が出ているのを見取った吸血鬼みたいに、ふとんにもぐりなおしたとき、かちゃ、とドアが開く音がした。
「柊」
抑えた足音が踏みこんできて、俺はふとんの匂いに息を止めた。
「寝てるの? ──ストーブもつけっぱなしで」
ため息が混じった口調は、疲れを帯びて陰っていた。俺はふとんに包まれた闇に薄目をしている。かち、とストーブを消す音がした。
「柊──」
何か言葉が続きそうだったけど、死人の顔に白い布をかけるようにため息が声を隠して、何も続かなかった。足音がドアへと引き下がる。俺は少し身動きし、ふとんをかぶるまま痛む軆をわずかに起こした。
「何?」
足音が止まった。俺は湿った目をこすって、のっそり上体を起こし、ぼさぼさの頭をふとんから出した。ベッドの足先とドアは向かい合っているので、廊下の光はちょうど俺を通り抜けていて、思わず目を背ける。押しつぶしそうなまばたきを何度かして、光に目を慣らすと、俺は逆光で影になるかあさんに視線を向けた。
「何か用?」
こちらに向けられるかあさんの視線は、こわばっている。おとといからずっとそんな、本人には秘密で癌告知されたような、近寄りがたそうな目をしてくる。暖かい室内に廊下の冷気が忍びこみ、俺はふとんに包まれていたやや肩を震わせた。
「かあさん──」
「話が、あるのよ」
「え」
「柊に直接訊いて確かめたいの。おとうさんと一緒に」
喉がこわばった。ついで、全身の接触感が冷たく溶け、感覚だけが、頭や背中や臑の痛みだけが残り、ガラスみたいになった軆に鮮明に食いこんだ気がした。
話。
俺はうつむいて、弱い息遣いを封じた口の中を飲みこみ、疼いた腹の痣に眉を寄せた。
「柊、」
「……確かめるって」
「分かってるでしょう」
ふとんの皺の影を見据えた。この土日のこと、金曜日のこと、学校のことだろう。壁がぼろぼろとはげていく混乱の幻聴が耳障りなほど、息苦しくて苦い沈黙が立ちこめる。そして、それは両肩にずっしりのしかかり、高音の絃のように過敏にはりつめる。
隣で物音がした。雪乃ねえちゃんは起きているのか。「柊」というかあさんの声に、前髪の隙間に目を上げた。
「お願い。おかあさんは信じてるけど」
視界をふとんの皺に戻して、視覚を薄れさせた。校庭を十周させられたとき、瞳がすりきれそうになった感じに似ていた。信じている。どういう意味だろう。俺がイジメになど遭うわけはないと?
「おとうさんも柊を心配してるわ」
俺はなおも押し黙ってうつむいていたが、顔を上げて、明かりに目を傷めると首をかしげた。
「今?」
「え、ええ」
「……分かった。待って」
体温にほぐれたふとんと寝返りによれたシーツのあいだから、のろのろと軆を引き出す。そういえば、金曜日からパジャマにさえ着替えず、このトレーナーとジーンズだ。その手触りは、使い古したタオルみたいにくたくただ。
痛みと痺れにふらつきそうな脚を抑え、かあさんと暗い部屋を出て、明るい一階に降りた。
教室に入るときと同じ、みぞおちのもやが重苦しい陰気な気持ちだった。
とうさんとまともに話すなんて、そうあることではない。いつも食卓などで当たり障りなく口をきくぐらいで、いざ話し合うとなると空恐ろしさまであって、すごく緊張する。まあ、かあさんとだってそうだ。何気ない普段では父で母である人が、深刻に向き合うとなると、知らない大人に思えて居心地が悪い。
その上、話題がイジメだ。否定するつもりだった。登校拒否できるのなら肯定してもいいけれど、そうしたらゲイだということもばれるし、そもそも、うちの両親は不登校さえ間違った道だと考えている。
かあさんがリビングの扉を開けると、そこでは消されたテレビの静けさが嫌な緊迫を醸し出していた。暖房と電燈のなじんだ空気が、妙に浮いている。テーブルを挟んで向き合うソファのこちら側に、とうさんがどっしり腰かけていた。
普段は子供に弱いけど、重々しい場面ではやっぱり父親だ。こちらを一瞥したとうさんは、黙って正面のソファをしめし、俺はもやつく喉をこらえてそこに腰かけた。かあさんはとうさんの隣に座る。
「寝てるかもしれないとも思ったんだが」
そう言われて初めて、自分が軆の痣みたいな隈を染みつけ、蒼白な顔をしているだろうことに気づいた。髪は、階段を降りるとき、かあさんが撫でつけていた。
「……眠れなくて」
うなだれる俺の弱った声に、とうさんとかあさんは物言いたげに目を交わす。俺は失調ぎみに震えそうな手首を膝に押しつけた。
「でも、悩みがあるとかじゃないよ。風邪ひいたのかも」
明日学校行けるかな、なんて笑って続けたかったけど、頬が弛緩していて笑えそうになかったし、ふざけた飛躍に聞こえるかと黙っておいた。とうさんはこまねいて深い息をつき、渋そうな眉で俺を見つめる。
「悪い冗談なんだろう」
「えっ」
「どこからそんな冗談を思いついたのかは知らんが、お前が考えてるほど軽く済まされることじゃないんだ」
身に憶えのない切り口に、とまどって顔を上げた。
何。
何の話だ。
とうさんは苦々しく俺の目を見、変な宗教のおかしな儀式を見ていられないように、床に目を落とす。
「雪乃に聞いたんだ」
「え」
「この頃、柊の様子がどうもおかしいからな。ずいぶん帰りが遅かったり、部屋に閉じこもってばっかりだったり」
とうさんの思いつめた眉間を見つめ、ぼやが火災に広がっていくように徐々に大きく目を開いた。
違う。違う!
話題はイジメじゃない!
「本当なのか」
軆の中が、一挙にドライアイスに浸った。まっさかさまに蒼ざめ、でも、真っ白に脳髄が燃え上がる。
嘘だ。冗談じゃない。ここまで隠してきたのに、そんな、まさか──
「信じてるのよ」と俺の今にも痙攣しそうな硬直を、心外の態度と取ったのか、かあさんが泣きそうにつけたす。
「でも、柊本人に確かめておきたくて」
ばれた。ばれたのだ。ふたりは知ってしまった。声を出そうと喉を喘がせるけど、何をどう言えばいい? 頭が酸欠状態に錯乱し、何が何だか分からない。
どうしよう。どうしよう! それだけが消防車のサイレンみたいにくるくると眼前をまわる。
「柊──」
「………、どうした。まさか、本当だなんて言うんじゃないだろうな」
俺は、轢き殺されかかった動物のような目でとうさんを見た。やわらいで笑いかけていたとうさんは、俺のその瞳を瞳に受け、ふと信じがたいように狼狽をあらわにした。
「柊、お前──」
「ほんとだ、って言ったら……?」
蜉蝣のように、かぼそくもろい声で俺が言った瞬間、かあさんは目の前で俺を殺されたみたいに目を開いて口に手を当て、たっぷり真実に食いこまれたあと、わっとはちきれて泣きだした。そのかあさんを見たとうさんは、すぐさま俺を睨みつけ、座卓をこぶしで殴りつけた。
「冗談もほどほどにしろっ!」
テーブルの振動にびくりと畏縮しかけた俺は、その言葉にはっと肩をみなぎらせて、思わずとうさんを睨み返した。
「冗談なんてひと言で済まさないでくれよ!」
次の瞬間に起こったことが信じられなかった。今までそんなのは一度もなかった。十三年間、本当に、一度だって。しばらく何が起きたのか分からず、ただ、左頬にめいっぱい破裂した打撃の響きに目を開いていた。
「とうさんをこんなに怒らせて楽しいのか!?」
「………」
「お前はこんな、こんなに親を失望させる息子じゃなかったはずだがな!」
失、望……?
俺が……?
俺はとうさんを失望させてるのか? かあさんを失望させてるのか? そんな──
ひらひらと砕けるような感覚に脱力する俺に、「お願い」とかあさんが泣きじゃくる声ですがった。
「嘘だって言って。そうなんでしょう。おかあさんたちは、柊を大切に想ってるわ。何でもするわ。だから、そんなことにだけはならないで。お願いよ。ねえ、嘘なのよね」
かあさんの真っ赤に腫れる目を、本当に深くからやましく見つめた。まるで、過失で殺してしまった人の遺族の前にいるようだ。
「かあさんに謝るんだ」
とうさんの焦げついた低い声が、最後のチャンスを言い渡す。でも──謝ることは、できない。ゲイなんかじゃないよ。口先でそう言っておき、ここをしのぐのは簡単だけど。この内臓をそっくりえぐりとられたような壮絶な空白の痛みが、もう、嘘なんてつかせない。
だって、俺はゲイなのだ。これがあるがままの俺なのだ。それを受け入れてくれないのなら、たとえこの人たちが自分を生みだした人たちであっても、俺にはこうして黙って立ち上がることしかできない。
背後のキッチンに下がって廊下に出ると、かあさんがひと際泣き出すのが聞こえ、とうさんが俺の名前を怒鳴りつけるのが聞こえた。でも、俺は静かに引き戸を閉めた。
頬がじんじんと熱い。足元に暗い息をついて顔を上げ、はっと息をすくめた。廊下の壁には、雪乃ねえちゃんがもたれていた。雪乃ねえちゃんは俺の動揺した目に冷めたそっけない目をやると、脚に体重を戻してこちらに歩み寄ってきた。
「あたしは、聞かないほうがいいって前置きしたのよ」
すれちがいざまにそう言い、澄まして角を曲がって二階にのぼっていく。俺はそれを振り返り、しばらく止まっていたのち、気だるく床に視線を泥ませ、ねえちゃんだってどちらかといえば敵なんだろうな、と伏目になって自分も二階にのぼった。
二階にも、かあさんの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。殺されそうな動物の抵抗の悲鳴に似ていた。俺はかあさんを猛烈に傷つけたのだろう。とうさんの生きる支えを打ち砕いたのだろう。
後ろめたさを引きずりつつも暗い部屋に戻り、暖かさの蒸発しかけた部屋でベッドサイドに腰かける。ぞんざいに座ったせいで背中の痣に痛みが走り、それで軆のあちこちが青黒く変色しているのを思い出した。
本当は、俺のほうこそショックだった。頭のどこかは、粉々の喪心状態だ。ゲイだということが、あんなにふたりを傷つけてしまうなんて。そこまで俺は汚れた魂を宿しているのか。誰に拒絶されるより、そんなふうに感じさせる。自分が謝らなかったのが、汚れを認めたくない意固地だったのか、ふたりが間違っていると自分を信じてだったのかは、まだ分からない。
はっきりしているのは、俺は家族さえ敵にまわしたということだ。家族すら分かってくれなかった。
そのショックは、偽っていたほうがマシだったのかと、この指向に罪悪感も植えつける。けれど、嘘をつきつづけていても、また別の後悔が残っていただろう。どうしたらよかったのか、相変わらず分からない。でも、事実、こうなってしまった。まずそれを受け入れなくてはならない。
残らずみんなにゲイだと知られた。そんなみんなに、どう対応していくか。考えたくないほど暗澹としているけれど、考えなくてはならない。だって、これは俺の人生なのだ。
だけど、今はとりあえず休もう。逃げるみたいでも、明日はどうやら学校に行かなくてはならない。かあさんの泣き声をおぼろげにでも聞くのもつらかった。
冷たくなったベッドの匂いに身を丸め、目を閉じると、厳しく吹雪いていくだろう現実から束の間耳を塞いだ。
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