生徒指導室
「塩沢くん」
生徒たちが揃うと、教室はすぐ解散になった。心ではいろいろ思っても、やはりひとまず解放されるのはほっとする。このあと行くところが家なのを思い出すと、やっと片づけたにんじんのあとブロッコリーが出てきたように、すぐさま滅入ってくるけれど──
俺だけ免疫がないみたいに、空気の毒素が肌に刺さる教室を出ようとしたとき、そんな声がかかって足を止めた。
廊下で待つ友人へと流れるクラスメイトたちの中で振り返ると、教卓で休んだ生徒のぶんらしき用紙をまとめていた榎本が、教壇を降りてきていた。俺を見つめてくすくす笑っていく女子たちに、子供に棒で揶揄われる野良犬みたいな気分になりつつ、流れを降りてまだ何も貼られていない掲示板の前に立つ。
全科目の本の重みで、通学かばんのストラップが肩に食いこんでいた。俺の前に来た榎本は、練習してきたような白々しい笑顔を作る。
「塩沢くん、よね。確か」
「……はあ」
そういえば、俺は家族に拒絶された頃から表情が希薄になっている。低級なアンドロイド程度の表情しかない。
物を感じなくなったというわけではない。表しても表しても、誰も俺の怒りや苦痛を認めてくれないから、拒絶されるから、初めから表現されなくなったのだ。
「呼び止めてごめんね。今日の放課後、何か用事あるかしら」
「え、……いえ。別に」
「じゃあ、ちょっと残って、先生につきあってほしいの」
俺が眉をとまどわせると、「話がしたいのよ」と榎本はやや突飛に、誘拐しようとしている子供を怯えさせないようにするみたいな笑みを継ぎ足す。
「その──堀川先生にも聞いてることとかね」
雑談をひそめて、こちらに目を止めていくクラスメイトもいる。俺は熱が滲む頬にうつむいて、ベルトを握りしめる。堀川から──あいつが、俺の何を話せたというのだろう。
「話し合っておきたいのよ。そうしたほうがいいでしょう。中川先生もあなたと話したいって言ってるのよ。学年主任のね」
冷たい眼つきを媚でなめす榎本に上目をする。彼女のほうが、ちょっと背が高い。
「僕には話したいこととかはないですけど」
好奇の視線に居心地の悪さを覚えながら、ぼそりとする。口調も色合いが憔悴している。
「う、うん──でもね、先生は話しておきたいの。一年生のときみたいには過ごしたくないでしょう?」
ほんの一瞬、肩を揺らしそうになる。そこに触れてくるのは意外だった。一年生のとき──みたいには、過ごしたくない、けれど。「ダメかしら」と人に預かった子供にへりくだるような榎本に、「別に」とうつむいて息を吐く。
「いいですけど」
「ほんと? じゃあ、職員室に行っておいてくれる? 先生もすぐ行くから」
榎本と目を合わせずにうなずくと、こちらを見るクラスメイトを黙ってよけて、教室を出た。
午前の白い陽射しが射す廊下では、笑いさざめく生徒たちが、クラブみたいにごった返している。クラブなんて行ったことはないけれど。春休みに洗ったばかりの上履きを見据え、三、二、一組の教室の前を通って階段にたどりつく。
階段を降りる前に、一度、廊下をかえりみた。教室が並んでいる。賢司は──何組になったのだろう。そう思ったけど、知らないほうがいいだろうと再び逃亡者のように顔を伏せると、一階に降りた。
話、か。何の話だろう。
脳裏に烙印する、秋から冬にかけての光景たちが、外で散る桜の花びらのように眼前に思い返る。土の匂いにまみれた裏庭、砂ぼこりを引きずった校庭、墨にさされた白い花──そういうことを、撲滅していこうというのか。
それで、俺に話? みんなに偏見するなと言うほうが正確だろう。どうせ逆効果だから、そんなことはしないでほしいけれど。
同性愛者であることは譲れない。そんな俺が、何か努力しても同じだ。本当に、人に転嫁するわけじゃなく、問題はゲイの俺でなく、ゲイを犯罪視する周囲にあると思う。
たぶん、建前の話だ。俺の指向を尊重していこう、と言うだろうか。共に努力して、そんな“趣味”は打ち破っていこう、と言うだろうか。いや、家族さえ分かってくれなかったのに、学校が俺を許すはずがない。
「君の気持ちを考えて、担任の先生は女の人にしてみたんだよ」
靴箱の脇の職員室のドアのそばで、フルーツキャンディみたいに色とりどりに咲っていく生徒たちを眺めて、ぼんやりと傷口に浸かっていた。
少しして榎本がやってくると、中川という中年の国語教師も交えて、生徒指導室に行く。自分がこんなところに来る生徒になっているなんて、思ってもみなかった。
広くない室内は物置を兼ねているのか、重箱みたいに段ボールが積まれている。ふたつ並べたつくえを椅子が挟んでいて、俺と中川が向き合って、榎本は折りたたみの椅子に腰かける。荷物を床におろした肩をさする俺に、中川は自己紹介のあと、コーヒーのにおいがする息とそう言った。
「こういうことは、女性のほうが頭が柔らかいものだからね」
中川の白髪のまじった睫毛を見つめ、そうなのか、と三角定規みたいに直角にすわる榎本を一瞥する。
初耳だ。俺の母親は、俺が通り魔に殺されたぐらい大泣きしたのだけど。
「年齢にも気を使ったんだよ。年配の先生だと頭が堅いことがあるし、かといって若いだけだと実績がないからね。それは、一年生のときの堀川先生で分かっているだろう」
堀川は、教師になって二年か三年だったと思う。もう忘れたけど、とにかく確かに若かった。そういう面もあったのか、と思っても、無論、経験どうこうであのないがしろを大目に見るなんてできない。
「君をぜひ受け持ちたいと言った先生もいたんだが、その先生の意向は、君の将来のためにはよくなさそうだったからね。私たちは、君の将来を考えているんだ。大丈夫だよ、よくある一時的なものだ」
ふとそぐわない方向にずれた台詞に、中川にわずかに怪訝な目を向ける。わずかすぎて気づかなかったのか、親身に同情する彼は、その手に持つものが鈍器だとも気づかず俺に言葉を振り落とした。
「君は軽い病気なんだ。きっと治るからね」
大きく目を開いた。でも、中川には俺の表情は救世主に出逢った顔にしか見えなかったらしい。
「君には、一年生のときに受けていたような仕打ちを受ける義務はないんだよ」とひとりうなずき、ぱっくり瞳を引き裂く俺に、勇気づけるように笑いかけてくる。
「そのことを忘れないで、頑張って学校に来つづけてほしい。榎本先生は君の味方だからね。何でも相談して、みんなと同じようになるんだ。必ずなれるよ。そういう方向にしばらくそれる子は、君だけじゃないんだ。そして、みんな治ってる。治ったら、自然とみんなも君を受け入れてくれるさ」
砂嵐を見る俺はぎこちなく頭を垂らし、つくえの影で黒いスラックスを握りしめた。そうでもしないと、くらつく軸に肩が震え出しそうだった。
何を言っているのだ。それでなぐさめているつもりか。どうやら彼は、同性愛を頭ごなしに否定はしていないらしい。だが、それは同性愛は治るものだと信じているかららしい。おめでたいほど、残酷だ。
榎本に目を向けた。俺の萎縮した瞳に、彼女もまた親身に憐れむ微笑を向けてきた。でも、その顔立ちはやはり医療メスのように鋭く冷たい。あまり、同性愛とかに柔軟そうではない。だから、治すのに適任──ということか。
ざらめが綿飴になるみたいに、猜疑がふくれあがってくる。
嘘だ。絶対に嘘だ。こいつらは嘘をついている。本当は俺が気持ち悪いに違いない。だから改心させようとしている。俺の将来なんて建前だ。イジメられないようになんて口実だ。こいつらは学校の歴史にホモの生徒なんか残したくないだけだ。自分たちのために俺を治したいのだ。本音では俺みたいな生徒はいなければよかったと思っている。俺をはじきだしたいと思っている。
この女教師は配慮なんかじゃない。策略だ。
特別に気にかけてほしいなんて思っていない。俺を本当に思いやっていれば、簡単に分かるだろう。“普通じゃない生徒”としてあつかうなんて、もっと俺を圧迫するのだ。そして、みんなの偏見を増長させる。
もちろん、堀川みたいに露骨な見て見ぬふりはしないでほしい。嫌悪感だか無責任だかで、あいつは俺を血の海に放っておいた。あの態度はさすがに、さりげなくあつかわれている、というより、無視されている、時には加担しているとさえ感じさせた。
でも、必要以上の腫れ物あつかいも、綺麗ごとの差別だと感じさせる。
黒板に中傷が殴り書きされていたら、書いた生徒を注意するとか、そんな当たり前のことでいいのだ。むずかしい配慮ではない。でも、堀川はできなかった。あれは、注意すれば俺に逆効果の皺寄せが来るなんて気遣っているのでもなかった。何で俺は、資格がないように、普通の生徒として見てもらえないのだろう。
授業をサボるわけでもない。イジメもしていない。切れないし、不登校もしていない。煙草やシンナーは吸わないし、ませてもいないし、教師にも従順なほうだ。成績と交遊が不振なのは否めないけど、それは外因で、俺は本当に普通の生徒だと思う。
なぜ個人的な聖域でとやかく決めつけられ、こんなにみんなから遠巻きになって浮いてしまうのだろう。
誰も味方になってくれない、とは確かに怨んだりするけれど、“特別な子だから”かばうなんて、そもそも俺を分かっていない。取り除かなくてはならない、病巣がある子だから優しくしないといけないなんて、そんなふうに思われてもぜんぜん信頼できない。だから、みんな味方じゃない。
誰ひとり、俺を俺のままであっていいとは思ってくれない。
そんなふうに解釈できないのか? それとも、解釈したくないのか? 俺を理解するのは怖い? 俺を普通の生徒としてあつかうのは困難? 普通のクラスメイトとしてあつかうのは、そんなに面倒?
俺に何気なく接したら、何か問題でも起こるのか。同性愛者を認めたら秩序が乱れる、と言うかもしれないが、そちらがしきたりに捕らわれているだけではないのか。
ゲテモノあつかいも腫れ物あつかいも、どちらもつまるところ、俺が悪いと言っている。俺に除去すべき問題があると。同性愛者なのが悪いと。変わるべきなのは俺だと──
中川がごちゃごちゃ言っているけど、よりぶあつくなった被膜にもう聞こえなかった。
スラックスの黒い生地の上で、骨ばった手は冬の黎明のように蒼い。軆の中が得体のしれない静けさに冷たくなっていく。
彼の善意は、もしかすると本物なのかもしれない。けど、的外れだから俺には同じことだ。治せばいいなんて──もし俺を理解しようと掘り下げて考えていたら、生身を切り落とすほど残虐すぎると分かっていて、言えないはずだ。
「よろしくね、塩沢くん。できる限りのことはするから、乗り越えていきましょう」
最後にそう言った榎本に、かろうじて色褪せた笑みは返せた。その言葉が本気か口先かは分からなかった。ただ、彼女の努力は、むしろ俺を崖に追いつめるだけだろう。
床に置いたかばんのベルトに腕を通すと、ひと足先に生徒指導室を出た。後ろ手に閉めたドアを一度振り向き、焼却炉みたいに煙たい気持ちで擦りガラスを見つめると、肩の重みを背負い直して廊下を歩き出した。
一般教室がない第一棟の一階は、廊下の両側に教室が並んでいる。生徒の影はだいぶ減り、にぎやかだった靴箱もがらんと空いていた。新しい自分の靴箱を確認して上履きを突っこむと、どさっと落としたスニーカーを履く。始業式なのに、地面にはもう足痕がたくさんついていた。
俺がゲイであって、いつか男と愛し合って、いったい誰の日常生活が妨げられるのだろう。目が腐るとでもいうのか。だったら目を伏せてそっとしておけばいいのに、どうして毛糸玉をみつけた猫みたいに引っかきまわさないと気が済まないのだろう。
ゲイのまま普通に過ごしていきたい。みんなが偏見さえ捨てれば、その望みがどんな迷惑をかけるのか俺には分からない。
女の子の部屋の平面アイドルみたいに、貼られまくった部活動の勧誘ポスターを横目に昇降口を出ると、かたわらの花壇のチューリップやパンジーの匂いがした。頬に触れる風は朝より暖かく、外だとまだちらほらする生徒の合間に桜の花びらと揚羽蝶が舞っている。
ほろほろとこぼれる淡い桃色を見つめていると、ふと一年前の入学式を思い出して眉を顰めた。
あの日、髪についた桜の花びらを賢司に取ってもらい、本当に心臓がねじの飛んだ時計みたいに壊れたと思った。でも、今、俺のそばには誰もいない。すっかり変わってしまった。何もかも失くしてしまった。ここまでひどいことになるなんて、まだあの日には思ってもみなかった。
あの日に、絶対に取り返せないとてつもない遠さを感じる。友達も家族も日常生活も、確かにあのときは持っていた。できればあの頃に戻りたい。そう思う現在にいるのが、ものすごくつらい。もしかすると俺は、すでに道を外してしまっているのだろうか?
緩やかな陽射しの元、学校を出ると排気ガスと騒音の坂道をゆっくりのぼっていく。同じ制服すがたのみんなは、咲っている。俺は二度とあんなやりとりに混ざれないのだろうか。家庭内ですら。
そう、次は家だ。クラスメイトや教師どころか、家族さえ俺を認めてくれない。なぜ、それでもここをくだって、どこかに消えてしまわないのか。
花びらが模様を描くアスファルトを見つめてそう思いながらも、樹海のようにどんより暗い胸を抱えて、家へと足を引きずっていった。
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