かけられた声
「ひとり?」
生き埋めのようなゴールデンウィークが過ぎ去った、五月のなかばのある日だった。
桃色も散って緑色が茂る桜の樹に、静かな小雨が降りそそいでいる。いつも通りのざわめきで、いつも通り俺を疎外するクラスメイトたちは、図書室での国語の授業にそなえて、次々と教室をあとにしていた。
こんなところにいて何してるんだか──廊下側の席でおなじみの疑問をうろつく俺も、そろそろ立ち上がらなくてはならない。この授業って自由席だから嫌いなんだよな、とペンケースと下敷きと国語の教科書を重ねていると、頭にそんな声がかかって顔を上げた。
そこにはすらりと背の高い、前髪をさっぱりとあげた男子生徒がいた。見憶えがある気がしても、名前は浮かばない。
雨の肌寒さに俺は今日は冬服なのだが、そいつは夏服だった。教室の制服の割合も半々だ。
彼の胸元のバッジで見憶えがある理由が分かった。学級委員だ。そのとなりに、弓倉、という名前もあった。
彼は顔をあげた俺ににっこりとした。俺にはその行動は、宇宙人なりの奇妙な挨拶のように不気味に思えた。わりと美形だけど、目の感じが一瞬神経質だ。けれど、よく見るとそんなこともない気がしてきて、礼儀正しそうな笑みが残る。
「……え」
やっと俺がそう声をもらすと、彼はもう少し咲って、右脇に抱える荷物を持ち直した。
「図書室、誰かと行く?」
一時停止のように止まっていた俺は、その質問を飲みこめてくると、じわじわと眉を訝らせた。
「何で」
相変わらず愛想も起伏も希薄な口調で、ペンケースに乗せていた手を引く。
「もうチャイム鳴るのに。誰か待ってるとか」
「……別に」
「そう。じゃあ一緒に行かない?」
ぎょっとそいつを見た。ドッペルゲンガーを見たぐらい、そいつの笑顔が信じられなかった。いったい何を──。
俺がゲイだと知らないのか。転校生か。いや、転校生が投票で決められる学級委員になるのも……
あ、とそこで思い当たり、溝にハマった足元を見るようにみじめに目を落とした。
「ほっといていいよ」
「えっ」
糠喜びなんかしたくない。押し殺した動作で立ち上がり、無垢な動物のようにきょとんとする彼を一瞥した。
「気なんか遣わなくていいよ」
「え、気って──」
「俺がひとりなのは、君のせいじゃないから、学級委員でも気にしなくていい」
彼はわずかに目を開き、俺は椅子を直してその脇をすりぬけようとした。お節介も偽善もお断りだ。憐れまれるのは、イジメられるより冗談じゃない。
「待って。学級委員だからとかじゃ、」
「友達失くすよ」
「個人的に、自分のクラスで仲間外れとかあってるのやだし」
「俺は仕方ない」
「そんなことないよ。君にも友達はいていいんだ」
俺は彼を、まだ色を塗られていない塗り絵の人物のような目で見た。本気かは分からないが、学級委員向きなのは確かだ。
「ほっといたほうがいいよ」
「でも」
「俺に近づけば、君も病人だと思われる」
自分から人を寄せつけないで、最悪かもしれないのは分かっていても、裏切りだけは受けたくない。賢司で充分だ。
醜聞を詮索するマイクを避ける芸能人みたいに、顔をうつむけて騒がしい廊下に出ると、弓倉は追いかけてきて隣に並んだ。
「一緒に行くぐらい、いいだろ」
めげない彼をちらりとする。俺より背が高いが、骨ばったりはせず紳士という感じだ。歩くのに合わせて、後頭部ではくせっぽい髪が揺れていた。
「友達は?」
言いながら、わざと窓の灰色の雨に顔をむける。一年生のときのクラスメイトが、俺をよけてすれちがっていく。
「日誌書いてるあいだに先に行かれちゃって。俺、今日、日直だから」
「俺といるとみんな失くすよ」
「失くして困るような友達でもないし」
意外と冷淡な返答に、弓倉に向き直った。彼はちょっとばつが悪そうに咲い、俺は視線を足元にやる。細い隙間なのに猫がするりと入りこんでくるような感じを覚えた。俺が再度顔を上げると、彼は気さくに笑顔を作ってくる。
「俺、弓倉基明っていうんだ。学級委員って知ってたんだ? 君、興味なさそうだけど」
「バッジで」
「そっか。君は塩沢──」
「柊」
「一年のとき何組だった?」
「一組」
「そっか。俺は五組だった。同じクラスになるまで顔知らなかったはずだね」
一年生のとき、五、六組の教室は並びを離れていた。学級委員のくせに、普通にしゃべる奴だ。俺が突慳貪なだけだろうか。俺は荷物を持ち直し、彼にまだ気を許しきれない目を向ける。
「俺のことは、知ってるんだろ」
「ん、まあね。それは一年のときから」
「気持ち悪くないのか」
彼はまばたきしたあと、「それは」と灯る電燈を仰ぐ。この天気になぜか開いている窓を通り過ぎると、パンに染みこむミルクみたいに耳に染みこむ雨音の匂いがした。
「初めて聞いたときは、驚いたよ。ただ、うわさを全部丸飲みするほど、頭が悪いつもりはないし。だいたい嘘なんだろ」
「……全部、身に憶えはないよ」
「そっか。うん、俺もそうだろうなと思ったし。うわさってそんなもんだよ。そしたら、君って別に俺たちと変わりないのかなって」
俺はちょっとだけ弓倉に目を開く。変わりない──
「矢崎とかのがよっぽどまずいのかもって。俺、四月は彼の後ろの席だったんだけど」
矢崎は俺も知っている。金髪でピアスの、俺とは違ったふうに教室になじんでいない不良だ。
「それに、そんなのってプライベートなことじゃん。多少軽蔑する奴もいるのは仕方ないかもしれないけど、みんなであそこまでハブにするのは不当だよ」
弓倉の前髪がかからず明るい瞳を見た。かするだけで痛む傷のように、俺は人の目に過敏になっているけれど、それは敵の眼つきにで、そんなふうに優しくされるとぜんぜん読めなくてとまどってしまう。
本当にそう思っているのだろうか。学級委員の義理ではないのか。だって、突然こんなのは都合がよすぎる。騙されたくない。
「胡散臭いかな」
ふと笑みを気弱にした弓倉に、ぎくりと肩をこわばらせる。「だったら信じなくてもいいけど」と彼は階段へと左に曲がる。図書室は第一棟の三階だ。
「俺はみんなと同じように、君を敵にまわす気はないよ。ほんと。だからときどき、こんなふうに話すしさ。いいだろ?」
階段には学年の違う生徒も行き交い、踊り場では立ち話が笑いさざめていた。俺は上履きに睫毛を下げる。階段をのぼりながら沈黙が揺蕩い、弓倉は不安そうに首をかたむけた。
「迷惑かな」
彼に目を上げ、何秒か迷った末、かすかに肩をすくめた。どう答えればいいのか分からなかった。三階に着き、結局俺たちは、違う匂いの三年生の教室を並んで横切っていく。
すべて、彼の真意による。偽善や義理や同情は欲しくない。でも、本当に周囲に疑問を感じ、俺に味方しようとしてくれているのなら──
「はっきり言われない限り、俺は話しかけるよ。友達になれると思うんだ」
弓倉はにっこり微笑んで、けれど俺はついに咲い返せなかった。長いこと咲っていなくて、笑顔なんて錆びついているせいもあるのだが──素直に喜べない自分が何だか嫌いだ。物好きな奴、とか思ってしまうことに、知らないうちに心が折れ釘みたいに捻くれていることに気がつく。
ホモに親しくして怖くないのだろうか。もちろん俺にそんな気はなくも、ストレートはみんなそういうふうに怯えて、ゲイに近づかないのだと思っていた。とりあえず、嫌悪や軽蔑はしていないのか。でも、大学出たての教師みたいに、よっぽど委員長としての使命に燃えていたら、友達ぶっているというのもありうるし──
猜疑なら砂漠の砂のようにいくらでも思いつく。しばらくつきあってみないと分からない。勝手に話しかけてくるだけなら、彼はともかく、俺に害はないだろう。その整った横顔を流し見しつつ、まあこいつがしたいなら俺が制限することでもないかな、とそういうことにして、たどりついた図書室に彼と一緒に入っていった。
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