非常階段-46

解けない不信感

 疎外をさんざん怨んでいた俺が言うのも何だが、やはり弓倉の行動は不可解なものだった。
 この孤島生活はもちろんすごく苦痛だけど、ある意味、慣れてしまっていたらしい。いまさら救いの手をさしのべられても、そうあっさりとその手に飛びつけない。さまざまな角度から、陰気にその手を懐疑し、ひと思いに“信じる”ということができない。
 どう網をかければ逃げられないか悩むあいだに、花にとまる蝶が飛んでいくみたいに、そう悠長に疑っていたら本気かもしれない彼を逃してしまうだろうに──これ以上堕ちたくない切迫心が、手抜きは許さない。
 今のところ、弓倉に俺をあきらめる気配はなさそうだった。そういうところも、変な奴、と思わせる。俺はずいぶん取っつきにくく、押し黙って、つきあいにくい奴になっているのだ。ちょっと鈍感なのか、と思わなくもない。
 直感でいい奴だと感じる、ということは別段なかった。が、いい奴だと思っていた賢司がああだったので、俺の直感なんて、巻末の星座占いよりたかが知れている。
 弓倉という奴は、頭はいいけど優等生という印象はなく、本人も友達もけっこう陽気、といったところだ。ちなみにその友人たちは、野鳥みたいに俺には半径一メートル以上近づかない。
「あいつら、いいのか」
 雑談がくつろぐ昼食時の今もまた、俺のところに来た弓倉を置いて、彼の友人は教室を出ていっている。今日は雲も一掃された五月晴れで、中庭や屋上に出かける生徒が多い。俺のほうが眉を寄せて気にすると、「構わないよ」と弓倉は俺の前の席である奴の椅子に勝手に座った。
「ちょっとぐらい」
「でも、昨日も」
「その前の日曜日に一緒に遊んだんだ」
「……はあ」
 弓倉はさっさと俺のつくえに弁当を広げ、俺も気まずい手つきで弁当箱を開ける。今日は俺も彼も夏服だ。制服が窮屈に見える俺とは反対に、弓倉は白い開襟シャツと薄手の黒いスラックスをきっちり着こなしている。
 構わない。そう言われても、やっぱり気になった。俺のせいで彼が友人を失ったら申し訳ない。友人を失うどころか、共に軽蔑されるのだってありうるのだ。
 彼もそういう巻き添えを分かっていないことはないだろう。やっぱ偽善ではないのかなあ、とそよ風が触れた水面のように不信感を揺るがす俺の目に、弓倉は気取らない笑みを作る。
「塩沢は休日とか何してんの?」
「えっ。いや、別に。何も」
「どっか行ったりは?」
 首を振って、冷めた半月のハンバーグを口にする。昨日の残りだ。残り半月は雪乃ねえちゃんの弁当に入っているのだろう。ちょっと多かったケチャップが、甘いより酸っぱい。
「誰かと遊んだりは?」
 俺は下目であやふやに笑って、ハンバーグを飲みこむ。
「遊ぶ友達がいないよ」
「一年のときのとか」
「今のクラスと似たようなもんだったし」
「初めから」
「えっ。いや、そりゃ、ばれてなかった頃はいたよ」
「ばれたら裏返ったわけ」
「まあ、そうかな」
「ひどいね」
 俺は眉を顰める弓倉をちらりとし、ピエロの鼻みたいなプチトマトに箸を刺す。どろりとあふれる中身は、まるで膿だ。
「そうでもないよ。仲良くしてたら、俺に好かれるとか思ったんだろうし」
「そういうつもりは──」
「なかったけど。思うだろうってことは分かるよ」
 弓倉はポテトサラダを口にしながら、少し居心地悪そうな色をちらつかせた。君は俺に惹かれたらと心配しないのか。俺にそう続けられたら困るのだろう。俺はぬめぬめした舌触りのプチトマトを喉に下した。
「でも、誰も好きにならないよ。なれないんじゃないかな」
「え、あ──女の子のほうになるってこと」
「そうなれたら楽だけど」
 弓倉は俺を見つめたあと、おにぎりを箸でひと口にちぎって口にした。俺みたいに食欲がないということもないだろうに、そういうのが嫌味じゃないのは彼らしいと思った。
 弓倉はなかなか穿った意見をくれるときもあれ、言葉の選び方に上滑りを感じさせるときもあった。うまく言えなくても、何か違う。みんなは間違った偏見をしている。でも自分は君を信じている。彼は口だけでなく、実際俺に接してもいる。
 何を疑っているのか、自分でもよく分からない。爬虫類の退化した足のように、使わないうち誰かを信じる能力が失われたのだろうか。
 彼がなぜ俺に親しくするのか、分からないせいかもしれない。俺と友達になって、どんな利点があるのだろう。俺といると楽しいとか、思っているのだろうか。楽しくないけど可哀想だから──砂一粒でもそう思われていたら、つきあいたくない。
 弓倉に近づかれて気がついたのだけど、俺を可哀想だと思っている奴もいるのかもしれない。弓倉がそうなのかは分からないが。
 不憫視にはふた通りあると思う。イジメられて可哀想だ。もうひとつは、ゲイで可哀想だ。
 後者が敵なのは言うまでもない。強迫性の殺人鬼みたいに見ているわけだ。自分の中の邪悪なもうひとりに支配され、罪に走らされていると。確かに俺は、自分の意志でゲイなのではないけど、別に命令されてゲイなのでもない。
「誰か好きになったこととか、ある?」
「えっ」
「自分が男のほうって知ってるならさ、それって誰か好きになったとか?」
 電車の窓みたいに賢司の顔がよぎっても、俺はかぶりを振る。
「ただ、そう感じただけだよ」
「じゃあ、まだ分かんないんじゃない?」
「えっ」
「女にそうなれるかもしれないよ。ほら、どっちもいける奴とかもいるんだろ」
 俺はずきんと刺さった神経に箸を止める。俺の停止に彼も手をとめ、「あ」と俺の気に障った自分を感知してばつが悪そうになる。その反応を見て、力ない笑みをこぼすと、箸の先を水気に艶々したごはんにもぐりこませた。
「できたら楽とか言ったから?」
「ん、まあ」
「………、そうだね。期待はしてないけど」
 だって同性愛っていうのは、消せない俺の一部だから──そんなところまで語ろうとは思わない。でも、彼が再び俺を無視するようになったら怖い、という気持ちも滲みはじめている。また誰とも話さなくなって、失語症みたいにはなりたくないと。
 だから俺は、弓倉が友達と遊んだ日のことを訊いたりして、ひび割れかけた空気を一応溶接した。
 弓倉は住宅街に住んでいたから、一緒に帰ったりすることもあった。俺から誘ったことは一度もない。それは怖い。断られて完全に信じられなくなるより、待っていて期待を残しておけるほうがいい。すっかり受け身になってしまった。
 方向が同じだと聞いたとき、てことは東小、と卒業アルバムにはなかった顔に首をかしげると、小学校のときはマンション暮らしだったのだそうだ。
「ねえさんが自分の部屋借りたのと、じいちゃんが死んだのが重なってさ。ばあちゃんと同居することになったんだ。あ、父方のね」
 中間考査も近づく帰り道、毛虫も減ってきた車道沿いの坂道を弓倉とのぼっていく。その日も雲ひとつ見当たらない快晴だった。ひなたの心地よい風が流れていく。
 こんなふうに誰かとここを歩くのは本当に久しぶりで、何だか時間が巻き戻ったような変な感じだ。周りのみんなみたいに、誰かと話しながら歩いている。そんなことが、信じられないぐらい痛切に胸を絞る。
「ねえさんがいるんだ?」
 弓倉の手提げは軽そうでも、俺の手提げにはずっしり教科書がつまっている。教室に置いて帰ると、何をされるか分からない。
「大学三年のね。大学のそばの部屋に住んでるんだ」
「俺にも姉貴がいるよ。一個しか上じゃないけど」
「中三」
「うん。あつかいにくいんだ」
「ふうん。俺のねえさんはおっとりしてるよ。俺に甘いしさ。歳が離れてるからかな」
「兄弟はねえさんだけ?」
「うん。で、親は模範的。サラリーマンとパートしてる主婦」
 俺んちも普通で、だから困ってるよ──それぐらい愚痴れたらよくても、そんなことを言って煩わしく思われてもバカバカしい。
 けれど、尋ねるばかりで話さないのも詮索っぽいし、「俺のとこも普通だよ」とだけ言っておく。こういう冷淡に客観する細かい計算は、ゲイだとばれないよう浮かないのを心がけていた頃を思い出させる。
 弓倉が自分にとってどんな存在になるのかは、まだ分からなかった。さしあたり、心を許した気兼ねない友人とは言えない。ずっとこのまま気を遣い、ただ失わないようにしている相手かもしれない。もしかすると、いつか彼の厚意を信じられて、友達になるかもしれない。
 とりあえず弓倉はこんな俺を焦れったく思ったりしていないみたいだし、俺だって、それはできれば誰かにいてほしい。しばらくはこうして様子を見て、彼の真意がどんなものか触れていってみよう。

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