ここを降りたい
異端者あつかいの毎日に辟易しつつ、六月といえば体育祭の練習が始まる。たった二週間と少しとはいえ、自意識過剰に人の目を案じてしまうことはいくつもある。着替え、体操服、組み体操の練習。
そういえば一年生のとき、現三年生の練習を見かけて、男に惹かれるのなんか揉み消さなくてはと決心したものだ。投げ捨てた煙草がちり紙に当たって大火事になったように、まさか揉み消すどころかばれてしまうなんて。
「塩沢って、いつも隅っこで着替えてるよな」
体操服すがたの生徒たちが下流していく廊下、赤いはちまきをしめる弓倉は教室をちらりと振り返っていった。白いはちまきの俺は肩をすくめ、「今日は真ん中だったけど」と白々しい弁解を返す。
「席がそうだからだろ。更衣室ではいつも窓際じゃん」
弓倉を一瞥し、情けないため息をつく。体育祭の練習に行こうとしているところだ。体育祭の練習は学年全体、あるいは全校でやるので生徒が更衣室に収まりきらない。かくて、この期間のみ着替えは教室でおこなわれ、始業前は女子男子、終業後は男子女子の順にやることになっているのだった。
「隅にいたんじゃ、友達できないままだよ。たまには、更衣室でも真ん中で着替えたら」
「みんなが嫌がるよ」
「暗くうなだれてたりしたら、そうかもしれないけど」
「俺に着替えなんか見られたくないだろ」
弓倉は息をつき、そのため息の意味を測りかねた俺は、「ごめん」と胸元のファスナーをいじるふりで不安を混ぜて弱く言う。弓倉は仕方なさそうに咲うと、到着した階段へと俺の肩を軽くたたいた。
「塩沢がいいんならいいけどさ。みんなに理解してほしいなら、塩沢もみんなのほうに踏み出すべきじゃないかな」
俺は弓倉の微笑に首を捻じり、一理を感じたのでうなずくと彼と階段を降りていった。
今日は問題の組み体操の練習だった。グループ分けは前回の授業で済ましている。背の順のおかげで俺と同じ班だと知った奴らの顔は、ファーストフードのメニューがライバル店でも見かけた商品ばかり並べているのと同じように変わり映えがなかった。頬が引き攣る困惑の面持ち、唾を吐くように背けられる顔、眉間を渋める顰め面──
体育教師曰く、はちまきの色がそろわないと統一性が出ない。というわけで、弓倉は違うグループなのだが、そもそも彼は俺より背が高いのだった。
梅雨をはみだして夏が始まったみたいに、もう日中の日射しは直視できないときがある。今日はまさにそんな日で、のんびり浮かぶ白雲を押しのけて、太陽が校庭の乾いた土を焼いている。蒸された地面の匂いが立ちのぼる中、水筒に氷入れてくるべきだった、とたゆんだ思考に走る今は、体育教師が並べさせた生徒たちに組み体操の危険を語っている。
あの体育教師だ。俺にわけの分からない体罰と中傷を課した。気色悪い趣味にかまけてるから──いまだに、思い出すと捻挫した腕を捻じり上げられるように痛くて腹が立って悔しい。
あのひと言は、絶対に必要以上の罰だった。できることなら、あいつを見返してやりたい。でも、無理だろう。ただ言えるのは、あんな教師はどこも欲しがらないから離任せず、卒業までつきあうハメになるだろうということだ。
汗ばむ額や腕を風が慰撫してくれるのが、ゆいいつまだ夏ではない証拠だ。しかし、生徒たちは体操座りをさせられているため、強い風は砂を起こして目や喉の粘膜にトゲを刺す。だらける生徒たちに銃声のような凶暴な喝を入れつつ、講義を終えた体育教師は、前回決めたそれぞれの位置に生徒たちをつかせた。
小学校のときにもさせられた見世物だが、できない奴はできないもので逆立ちぐらいで手こずる。俺は壁があればできるから、人の手が支えてくれればもっと簡単だ。
でも、俺とペアになった奴への申し訳なさに、のんきに楽勝を喜ぶこともできない。ごめん、と謝るのも何だか変だし、改めて彼に事実を認識させそうだし、俺の意に反するし──
青空の元、曇り空みたいにもやもや考えていたらペアものは終わり、扇やピラミッドといったグループものになっていた。
俺に触れたあと、何気なく服で手をぬぐう。そんな仕種に限って目にしたりしつつ、二時間も続いた練習は昼食前にようやく終わった。砂ぼこりに霞む影は、南中で短い。弓倉は友達と帰るみたいだったから、汗だくを手の甲ではらいながら、ひとりで教室に向かった。
次の授業が迫っているわけでもないし、みんな体育祭を友人と愚痴りながらのろのろ歩いていたので、教室には人はまばらだった。
さっさと着替えて、非常階段に行こう。
そうはちまきをほどきながら思い、タオルでこめかみの汗をふいて体操服を脱ごうしていたら、輪状のはちまきを手首でフラフープのようにまわしながら後ろの席の奴がかったるそうに帰ってきた。彼は俺を冷淡に一目すると、何だかヤケになったような口調で、すれちがいざまに言った。
「あんたは嬉しくてたまんなかったんだろうな」
ずきりと心臓をつかまれて動作を止めたが、彼はそれ以上の言葉には興味もなさそうに、後ろの席でぞんざいな衣擦れをさせはじめた。特に小声でもなかったその台詞はざわめきも薄い教室に響き、いくらかのクラスメイトたちを振り返らせる。
俺はその目にあの日射しでも感じなかったほてりを頬から全身に覚え、肩に窮屈な圧縮をかけられる錯覚に陥った。
嬉しくてたまらない。どうしてだろ、と体操服の裾をつかむ手が震えそうになる。どうして、みんなそういう解釈しか──。目をつぶり、心の奥に傷がめりこんでいくのに耐えながら制服に着替えると、弁当と水筒をつかんでとっとと教室を出た。
廊下には女子たちがたむろしかけ、非常階段に紛れこめる人の行き来はなかった。甲高く咲き乱れる甘い声、さまざまに飾りつけられた髪、ソフトキャンディのように白くなめらかな腕や脚、焼きあがっていくパンみたいにふくらみかけた胸──
一階からまわっていこうと、スラックスにしまうヒマもなかったシャツの裾をひるがえして階段へと突っ切りながら、そういうものが視界の端をかすっていく。
これがそんなに悪いことなのか。そういうものにちっともたかぶらないのが、ここまでされて正当な罪だというのか。それだけであんな、やつあたりの対象にされなければならないのか。
そう、あいつにとっては、くだらない練習に疲れた深い意味もない皮肉だったのだろう。だが、なぜ俺が気軽にそのはけ口にならなくてはならないのだ。俺はゴミ箱じゃない。殴っても何も言わないぬいぐるみでもない。何で、みんなそんなに、俺には傷つく心はないかのようにあつかうのだろう。
バケモノだから? 宇宙人みたいに思えるから? あいつらには俺は、何をされても平気そうな無神経な妖怪なのか。人間じゃないのか。
そうだ、そうなのだろう。あいつらには俺は人間ではないのだ。同じ人間だなんて思いたくないのだ。
弓倉の言葉にも、一理はあると思う。理解してほしければ、俺もみんなに近づかないといけない。今のところ、多少は努力しないと分かってもらえないのは否めないだろう。分かってもらおうと俺が近づく。
でも、そうしたらみんな俺が近づいたぶん後退るのではないか。みんな、分からないんじゃない。分かりたくないのだ。歩いても歩いても、そのぶん相手が後退して、結局進まない。蜃気楼を追いかけるのに似ている。
だったら、やっぱり俺は、物好きがやってくるのをここでおとなしく待っているほうがいい。俺のほうが近づいたら、みんな侵害だの強要だのと喚いてむしろ遠ざかる。それが現実である気がする。
一階の廊下には教師がうろうろしているので、いったん靴箱を出て、外をまわって非常階段をのぼった。暑くなってくると、ここは日射しを切り取られたような日陰でけっこう涼しい。座りこんで錆びた柵にもたれると、弁当を開いて風を眺めながらぼんやりおかずを箸でつついた。
静かで、心臓から血が流れていく音がする。ほんと何でここ降りて逃げ出さないんだろ、と澄んだ空に目を細め、汗ばんだ額が涼しい風に冷やされていくのだけをしばらく感じていた。
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