非常階段-49

不安定な孤島

「最近、友達がいるみたいね」
 両親に事がばれて以来、どのみち家にいても窮屈で、再び朝は雪乃ねえちゃんと出かけるのが多くなっている。体育祭本番二日前の金曜日、今日は午後から全校で予行練習だが、降り出さないか危うい天気だ。
 すずめや小学生は相変わらずでも、蒸しっぽい匂いが草木から立ちこめている。まあ今日はどうでもいいけれど、あさってが雨で延期になったら最悪だ。何で運が悪かったって中止にしないんだろ、と授業が手薄で手提げも軽い俺は、スラックスに手を突っ込みながらスニーカーを見ている。
 だから、突然そんな声をかけられたときは、どきりと大きく反応してしまった。
 もちろん、声の主はセーラー服の雪乃ねえちゃんだ。スタイリングした前髪越しに、俺に無機質な横目をくれている。いつのまにか俺は雪乃ねえちゃんより五センチは目線が高くなっていた。なのに、迫力は電池切れみたいに低下するばかりで、その目に何だか愛想咲いをしてしまう。
「え、あの──」
「友達がいるみたいねって言ったの」
「あ、ああ。え、何で知ってんの」
「有名だもの」
 足元に目を戻しかけていた俺は、とまどって雪乃ねえちゃんを見直す。雪乃ねえちゃんはすれちがいざまの車をよけ、排気ガスにいらついた眉を浮かべていた。
 去年もそうだったけど、雪乃ねえちゃんは体育祭が大嫌いで、その時期にはイガを着る。三年生は想い出作りにどんな行事にも燃えるといつか聞いたが、この人はそんな想い出なら、ないほうがマシらしい。
 そこはそれとして、ともかく雪乃ねえちゃんは不機嫌だから、今は余計にあつかいにくい。
「有名って」
「あんたのことは、すぐうわさになるわ」
 気まずく口ごもる。すぐうわさに。そうなのか。雪乃ねえちゃんに、こういうふうにトゲっぽく事に触れられたのは初めてだ。塩をかけられたなめくじみたいに縮みそうになっても、ひとつ気になるので喉を絞って尋ねておく。
「有名って、どんなふうに有名なんだよ」
「分かるでしょ」
「ただの友達だよ」
「誰もそう取ってないわ」
 俺はこわばった関節に立ち止まりそうになっても、慎重に息をついて雪乃ねえちゃんに並ぶ。ポケットの中の手が水分を握りしめる。
「何で、みんなそういうふうにしか取らないんだよ」
「仕方ないじゃない」
 とんでもない切り返しに鋭い言葉を発しそうになったが、ゴミぶくろを連れたおばさんが出てきて、口をつぐむ。夏が近づくほど、太っていくみたいにぬるく緩慢になる風が吹き、雪乃ねえちゃんは柳のように柔らかに反る長い指で髪を撫でつける。
「恋人じゃないのね」
「違うっ」
「じゃあ、そう言っておくわ」
「………、誰に」
「クラスメイトよ。誰に言うと思ったの。親? 言うわけないでしょ、もう余計なことは言わないって決めてるわ。あれ以上、空気悪くなったらたまんないわよ」
 雪乃ねえちゃんはこちらを見もせずいらいらとまくしたて、その早送りみたいな物言いに俺はしばし圧倒されたあと、「ごめん」とうなだれた。雪乃ねえちゃんは何も言わなかった。
 その態度を揶揄えないのは、俺が臆病になったせいだろうか。雪乃ねえちゃんの剣幕が本物だと、無意識に感受しているせいだろうか。自分が悪いような責任だけ垂れこめ、目を伏せる。
 でも雪乃ねえちゃんの態度はマシなほうなんだろうなあ、と内心ため息をつき、ポケットの中のこぶしを徐々に虚脱させていく。
 雪乃ねえちゃんは、学校でまともに余波を食らっていると思う。お前も遺伝でレズなんじゃないかとか、俺のことをとやかく訊かれたりもしているのだろう。人に贈られたものをプレゼントするみたいに、その鬱憤をことごとくこちらにぶちまけてこないだけ、俺は感謝すべきなのだ。
 家族は関係ない。無責任な流言にそれぐらい堤防は立てるべきなのだろうか。でも、断絶したいというわけでもないから、何だろう。うまく言えなくて、自分の周りにいくつもぱっくり開いていく、真っ赤な口を塞ぐことができない。
 開き直るわけではなくも、それはどのみち強すぎて刈れない雑草ではないだろうか。巻きこむ人たちに、無力な呵責はすごく感じる。でも、俺はたぶんそいつらが枯れるのを待つしかない。雪乃ねえちゃんが栗の殻を着るなら、俺はくるみの殻を着て。否定すればするほど、そいつらはかえって根づいてしまう気がする。
 学校に着いて授業が始まると、頬杖をついて考えていた。英語の授業で、体育は三、四時間目だ。そして体操服のまま昼食を取ったら、校庭に集まる予定になっている。
 今はみんな制服で、まじめに教科書とむきあう弓倉の背中を一瞥する。雪乃ねえちゃんの家族ゆえの立場を思ったりするほど、俺には彼が分からない。なぜ弓倉は、わざわざ俺に近づいて要らない煙にむせるのだろう。
 俺に近づきさえしなければ、彼はさまざまなうわさを逃れられるのだ。俺を見捨てれば、ちくちくするセーターみたいな煩わしい雑音には刺されない。
 幼なじみさえそうしたのに、何でただのクラスメイトが見捨てないのだろう。家族すら、できることなら俺を見捨てたいと思っている。縁を切って関係なくなりたいと思っている。でも血のつながりは逃げられない。しかし、弓倉は俺に何のしがらみもないのだ。
 恋人なんて、俺でも冗談ではないと思ううわさではないか。俺は彼にそんな気はいっさいない。自分でも不思議だけど、彼に友達以上を求めようとは思わない。
 なぜかはよく分からないが、まあ好みじゃないということなのか。俺は彼と深くなりたいとは思わないし、俺以上に彼はそうだろう。なのに、そんな火の粉さえ混じったうわさも立つ中、今朝彼は俺に挨拶したりもしてきた。
 義理とか偽善でそこまでやれるかなあ、とそよ風に触れたろうそくの火みたいに揺らいでしまう。同情の線は相変わらず濃くも、大袈裟でなく自分の将来も害しそうな毒に感染してまで、義理や偽善を働く奴はいないと思う。義理や偽善をうまく使う奴は、それと同じぐらい保身を持ち合わせている。もう保身でなく自衛と言ってもいい中傷が澱みだしているのに、弓倉は俺を捨てたりしない。
 とにかく、弓倉は指命手配書で見た顔に似ているみたいに、疑うような相手ではないのかもしれない。複雑に絡みあって先を閉ざしていた蔦が、枯れて道を開くように、俺は弓倉をそんなふうに思いはじめている。
 予行演習は案の定雨が降り出し、体育館で窮屈にやることになった。ひと晩降りつづけた雨は土曜日にはやみ、日曜日にも晴れ間が続いて体育祭は無事行われた。俺は委員の仕事が残っているという嘘で家族には先に帰ってもらい、頃合いを見てひとりで夕暮れの坂道をのぼった。
 そして、去年の体育祭を思い出したりした。賢司と家族ぐるみで帰ったものだった。橙色の棚雲や車に轢かれる長い影は同じでも、あのとき周りにいたみんなはいない。
 車入場は禁止で、周囲のみんなは家族に囲まれて咲っていた。そんな中を土がついた体操服でひとりとぼとぼと歩いていると、無性にいたたまれなかった。
 熱いコーヒーに溶ける砂糖みたいに消えてしまいたい。ぬるい風が汗を冷やし、不意に鮮明にあの頃の切実な焦りを思い出させる。
 同性に惹かれる。ゲイかもしれない。そんな自分がすごく不安で、怖くて、どうしたらいいのか分からなかった。でも、賢司はどんな結論があってもそばにいてくれると信じていた。ところが、あいつは俺を前日の新聞を捨てるぐらい簡単に裏切った。
 あんなにどうしようもなく惹かれていた人だけど、今は好きだとは感じない。燻っていたかぼそい煙も消え、彼への想いは完全に死灰になった。
 賢司の取った行動は残酷だけど、まったく理解できないというものでもない。理解なんてしたくなくても、しょせんそういう感覚が現実なのだ。だから憎まない。でも愛していたくもない。今、賢司の前に立っても、この蒼ざめた孤立感が先立って何とも感じないだろう。
 俺の中で賢司は終わった。何もかも──恋心はもちろん、友情だって。
 今、俺には弓倉がいる。できるかぎり彼を信じてみよう。失くしてしまった人たちはどうしようもない。ゲイであることは消せない。この指向を含めた俺を認めてくれる人を、これから見つけていく。
 非常階段を降りない支えが必要だ。みんなに裏切られた傷が、まだ治らず膿んではいるけれど、なるべく心は閉ざさず、この不安定な孤島を脱出していってみよう。

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