非常階段-5

自然なふり

 昨日一日は強い雨が降っていて、今朝も点滴程度の雨粒がちらついていた。このまま上がって昼前には晴れるということなので、傘は持たずに家を出る。
 雪乃ねえちゃんは、前髪が崩れたら嫌だからと、すずめだってのんきに鳴いているこんな雨でも、無地の黄緑の傘をさす。今日は始業式なので、雪乃ねえちゃんもセーラー服で登校するのだ。
「じゃあ、いってらっしゃい」
 かあさんに見送られ、俺たちはまとめて湿った道路に出た。雪乃ねえちゃんは、俺なんか構わずつかつかと歩き出し、俺は慌てて追いかける。今日は手提げなので両手は軽い。雪乃ねえちゃんの手に下がるのも手提げだけど、収穫期の木の実のようなキーホルダーのせいで、大して軽くなさそうだ。
「初日くらい、弟に道案内してくれたっていいじゃん」
「駅前に行くために、中学校の前は通ってるでしょ」
「そうだけど」
「言っておくわ、あたしは今、ぜんっぜんおもしろくない気分なの」
 変わらない背丈の雪乃ねえちゃんに横目をする。ぱんぱんの風船みたいだ。細い針のほんのかすかな刺激で、破裂する。
「学校始まるから?」
「クラス替えと嫌な教師が担任にならないかに決まってるでしょ。草刈くさかりが担任になったら最悪だわ」
「草刈って誰?」
「カマキリみたいな数学教師。靴下の色だけで生徒指導室に呼び出しよ」
「……はあ」
「あんなのが担任になったら登校拒否ね」
 登校拒否か、と雨の匂いが立ちこめる涼しい家並みを見やる。あたりは壁も植木もしっとり濡れ、すれちがう小学生は曇り空の元でもにぎやかだ。自分のやばい本能に焦りまくる俺は、もうきっとあんなふうに学校を楽しめない。本来なら学校なんてひかえたほうがいい気がする。でも、登校拒否なんてどんな神経になれば実行できるのか分からない。
「家で奥さんの尻に敷かれてるんで、学校では生徒に威張りたいのかもしれないじゃん」
 黄緑の影から雪乃ねえちゃんは俺を見、「やつあたりじゃないの」とつんと正面に向き直る。
「それに、問題は教師だけじゃないわ。賢司が同じクラスにいるあんたには分からないでしょうけど」
 俺はどきりと心臓を縮め、「そんなことも」と静かな雨音に口ごもる。雪乃ねえちゃんは俺を見る。
「どういう意味よ」
「ど、どうって」
「いまさら賢司に逢えても迷惑とか?」
「そ、そんなことはないけどっ。何つうか、その……何の話だっけ」
「もういいわよ」
「あ、クラス替えね。ほら、仲いい子とはクラス変わっても──いや、女の友情はそうなるには浅いか」
 まじめにつぶやく俺を雪乃ねえちゃんはしっぽを踏まれた猫のようにぎっと睨んだ。そして歩調を早める。俺は急いで、ひるがえった紺の大きな襟の背中を追いかけた。
 傘をさすのは半々の生徒たちがざわめく下り坂で、雪乃ねえちゃんとは別れた。雪乃ねえちゃんの友達数人が出現し、にやにやと興味深そうにいじりたおしてきたのだ。何て名前だの、何月生まれだの、挙句、好きな女の子の有無まで──この姉貴がかばってくれないのは、言うまでもない。かくして俺は、見分けのつかないセーラー服集団は逃げ出して、ひと足先に校門をくぐった。
 雪乃ねえちゃんは友人には愛想がいいけれど、それは二面性があるというより、正直なのだと思う。家族と違って、友人といるときは楽しいわけだ。家族としては、嬉しい正直さではない気がする。
 わずかに湿った肩や髪を昇降口ではらうと、校舎に踏みこむ。三学年全員の靴箱が、図書館の本棚みたいにずらりと並んでけっこう広い。一年一組は一番右端で、同じクラスらしい奴がいたけど、会話は発生しなかった。賢司はもう来てんのかな、とボロを取り繕う気兼ねに鬱した息をつきつつ、渡り廊下で奥の第二棟に移り、二階の教室に到着する。
 時刻は八時二十分で、予鈴まで五分ゆとりがある。明かりのついた教室は制服を着馴れないクラスメイトで半分以上埋まっていて、つくえに溜まったり、教卓に集まったり、窓や奥の壁にもたれたり、ひとりでつくえに気詰まりそうにしているのもいる。賢司は確か隣の列の一番前の席だと言っていた。目を向けるとすぐ視線が合い、軽く挙手されてやっぱり胸のあたりがとまどう。
「おはよ」
 つくえに手提げを置いたところで賢司がやってきて、「おはよ」と俺はぎこちなくならないように笑みを返す。昨日の夜、本気で笑顔を造る練習なんかしてしまったが、しょせん練習と実践は違う。練習ではこんなに心臓が速くなったり、頬が熱くなったりはしなかった。結局窓際を向き、森本が来ていないのを確認するふりなんかしてしまう。
「あいつは来てないな」
「あいつ」
「森本。小学校のときから遅刻魔だったもんな」
「ふうん。ところで、昔も言ってやったけど、人と話すときは顔合わせろよ」
 う、と気まずく肩をこわばらせ、食べずに捨てたピーマンを言い当てられた子供みたいに、そろそろと賢司に向き直る。
「言われたっ、け」
「言った。お前、下向いてばっかだったもん」
「あれは、姉貴にイジメられてたせいだって、かあさんが」
「雪乃ね。俺のこと憶えてた?」
「まあ。途中まで一緒に来たけど、ねえちゃんの友達が出てきてさ」
「同じ中学なんだ」
「うちには私立行く金も見栄もないよ」
「はは。そういや、俺んちの住所と電話番号持ってきたぜ。朝、かあさんに持たされて」
「あ、俺ないや。今書こうか」
 うなずいた賢司に、俺は引いた椅子に腰かけ、かばんをあさってノートの端を破る。女子みたいに、かわいいメモ帳なんて持ってきていない。
 シャーペンを取り出しながら、賢司の視線に指が震えそうになる。おまけに、いざ書こうとするといきなり何年も住んできた住所が真っ白になる。時計の針が迫る中で最後の問題に引っかかっているような焦りが、炭酸みたいに沸き立ってくる。
「郵便番号は、いる?」
 そんな質問で白光の混乱を紛らし、「まあ一応」とうなずいた賢司にシャーペンを持ち直す。何なんだよ、と泣きそうになりながら、どうにか郵便番号から住所、電話番号を走り書きする。電話番号の最後の数字がゆがんだけど、さっさとさしだすと、賢司は普通に受け取って気にもしなかった。
 気抜けに息をついていると、「あれ森本じゃないか?」と賢司が言って顔を上げる。確かにあくびを噛む森本で、こちらに気づき、「よお」と片手を上げた彼には、異常な緊張などせず応えられる。
 予鈴が鳴り、本鈴の八時半まで三人で雑談していた。サシでなければまだマシだ。つっても森本ばっか向いてるのも怪しいな、といそがしく計算しながら、当たり障りない話をする。けっこう疲れて神経がもつれて、チャイムと共に堀川が登場したときには、ずっしりと安堵してしまった。
 始業式、大量のプリント配布、自己紹介──堀川は慌ただしく本日の予定を述べると、廊下に出て、生徒たちを大雑把に背の順に並べた。俺は真ん中ぐらいで、賢司はわりと後ろのようだ。
 始業式開始の校内放送がかかると、三年生から担任の引率で体育館に向かう。退場は反対に一年生からで、それは、二、三年はこれから新しいクラスに振り分けられるかららしい。一年生は少し早くプリント配布を始めたわけだけど、自己紹介があったので、終業は上級生と変わらなかった。
「柊、あの公園のとこまで一緒だろ。帰ろうぜ」
 大量だったけど、紙なので手提げはやっぱり軽い。やっと終わった、とまだ三時間も学校にいないくせにげっそり思い、とっとと帰ろうと席を立った。が、雨上がってるな、と雲の切れめに青空を映す窓を向いた隙に、肩をたたかれて賢司の声がした。
 ぎくりと一時停止し、俺は引き攣りそうな笑みをやわらげて振り返る。屈託なくにっこりとした賢司に、弱った気持ちを持て余す。子供に子供の感覚で、悪気なく親切をされている気分だ。何でこんな仲良くしてくるかな、と思っても、俺が意識過剰なだけで、“こんなに”というほど賢司はべたべたしてきていないのかもしれない。
「何か用事ある?」と首をかたむけた賢司に、「いや」と曖昧に答えたあと、「帰ろうか」とどうしようもなく体温と搏動の狼狽はないがしろにした。
「この学校で、やっていけそう?」
 混雑する靴箱を出ると、雨の名残で肌寒さはあれど、花壇や桜の樹が雫をこぼしているだけだった。湿った地面には桜の花びらが淡雪みたいに積もっている。傘を連れる賢司と校門をくぐりながら、なるべく沈黙にならないよう頭の中をうろついて話題を探す。
「んー。ま、わりと」
 賢司は、手提げも傘も肩に引っかける。
「俺が要領いいのは、知ってるだろ。今日、後ろの席の奴とけっこう話せたし」
「……そっか」
 賢司の席のほうは、わざと見なかったので知らない。俺もあのクラスになじんでおかなくてはならないのに、賢司に対するこの変なののおかげで、調子が狂っている。
「俺たちは幼なじみなんだしさ」
 自分で言いながら、“幼なじみ”という語に毒があるように、みぞおちにトゲが刺さる。
「俺のことはちょっとぐらいほっといて、しばらくは友達増やすのに専念してもいいぜ」
 賢司は噴き出し、「そんな気い遣わなくていいよ」と、水中でもないのにのろのろ歩く女子のかたまりをよけて追い越す。
「柊こそ友達作れよ。今日、ずっとつくえに伏せってたじゃん」
 賢司を見ると、「そだな」と力なく笑って足元を向いた。天井裏を駆けまわるねずみみたいにそわつく、全細胞がつらい。手提げを握りしめようにも、うまく力の入らない、甘ったるい痺れが気持ち悪い。
 なぜ、賢司なのだろう。せめて、まったく接点のない奴にこうなっていればよかった。友達にこんなふうになったって、友情さえ失うだけではないか。自然な気遣いにわざわざ反応して、期待までしそうになってしまう。友達みたいにしないでほしい、とか噛み合わないことを思ってしまう。冷たく距離を置かれたら置かれたで、誰にそうされるよりショックなくせに。
 賢司を裏切っているようなこの気持ちがすごく重荷だ。だんだん自分勝手な胸のあたりが忌ま忌ましくなる。賢司は悪くない。賢司は俺を友達として想ってくれているだけだ。悪いのは全部俺だ。だから、少し気がかりそうな賢司に無理にでも咲わなくてはならないのは、俺のほうなのだ。
「そういえば、おととい俺にこのへん案内させるって言ってたけど、どうする?」
 賢司といるのに慣れたら、彼とは友達だと再確認したら、こんなのは意外と消えるかもしれない。そんな浅はかな言い訳を言い聞かせ、俺は賢司にかすかにちらつきかける影に言う。賢司は俺を見つめ、手提げも傘もおろした肩をすくめる。
「柊が嫌ならいいよ」
「そんなん言ってないじゃん」
「顔に出てる」
「季節の変わりめで、体調悪いんだよ。悪かったな」
 賢司は俺に向き直り、「女みたい」とにやついて、俺はできるだけ自然に賢司を肘で突く。賢司の素早い反撃にやっぱりどきりとしつつ、女みたいか、と彼がそういうのをさしたわけではないと分かっていても、複雑になる。
「うん、じゃあ案内してもらおうかな」
「このへんはおばさんとかとまわったかな」
「いや、まだ家、ダンボールにおさまってるのとかあるしさ」
「じゃ、まずそのお手伝いとか」
「はは、それもいいかも。ま、コンビニとか」
「この駅までの通りに、だいたいあるよ。つっても、似たようなのばっかでなんの店かは分かりにくいよな。いつ行く?」
「俺は今日でもいいぜ」
「え、片づけは」
「暮らしてるうちに片づくさ。柊が困る?」
「いや、俺は──」
「あ、体調悪いのか」
「……まあ。ま、気分転換になるかな」
 気持ちと裏腹の口ばかりの言葉は、自分では下手な芝居の台詞より白々しく聞こえる。けれど、賢司に特に引っかかる様子はなく、「じゃあ十三時頃にあそこで待ち合わせな」と賢司はいつしか前方に覗けている公園が面したT字路を指した。同じく帰宅する同年代がそこで分流する中、俺と賢司も横断歩道を渡ると、そこで別れた。
 十三時か、と完全に予想できる狼狽と緊張の混乱に、水のりでも絡みついたような足取りを引きずる。もっと、自意識を調整できるようにならなければならない。きっとひとりで焦って疑って気にしているだけなのだろう。はたから見れば、きちんと賢司に友達っぽくできているのかもしれない。気にして口ごもったりするほうが猜疑させ、最悪、感づかれる。それはまずい。賢司にも誰にも気づかれないように、俺はもっと客観的になる必要がある。
 自分を監視し、自然なようにかたちづくる。それは、役者みたいに他人になりきって、自分の気持ちを外に出さなくなるということなのだろう。虚しさを感じても、仕方がない。
 素直な気持ちなんか、吐き出してどうなる。そんなのは、“素直な気持ち”とやらが、まともな場合にのみ言えるのだ。こんなのを臆面もなくさらせばどうなるかぐらい、俺も世の中の感覚は知っている。

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