行き違う理解
教師が特定の生徒をひいきするのはどうかだが、特定の生徒を嫌悪するのもどうなのだろう。
墓場が似合いそうな暗くて陰鬱な雨に濡れる景色に、今日の体育の授業は保健の授業に裏返った。体育館もほかのクラスが使っているのだそうだ。男子は三組、女子は四組の教室に別れて、軆や男女の仕組みを講義される。
男子を受け持つのは東浦で、彼のだみ声は軆をしごく怒声は得意でもこういうのは不得手そうだ。ヴァギナなんていう言葉は言えたものではない。が、こんな野次が飛べば、スイッチが切り替わった二重人格者のように突如として牙を剥く。
「男同士の場合は、どこで受精するんですか?」
東浦はすかさず声の主の室月を睨みつけ、つかつかと窓際の彼のところに行くと、丸めた用紙の束でその頭をはたいた。笑い出しそうになっていた教室はそれでたまらなくなり、風船に針を刺したように爆笑を弾けさせる。
そう強くもなかったのか、室月も頭をさすりつつ楽しそうに笑い、だが、廊下側の後方にいる俺は、鼓膜をつんざかれて震えそうな軆をこわばらせた。自由席で隣にいる弓倉だけが、眉を寄せて俺を窺ってくる。
「塩沢──」
けれど、彼が真っ白に蒼ざめる俺をなぐさめるヒマもなく、「静かにしろっ」と東浦が調教師が振るう鞭のように一喝し、ぴしゃりと笑い声は止まった。「まったく」と東浦は不愉快そうに教壇へと戻る。
「お前は──室月だったな」
「はーい」
「返事を伸ばすな」
「はい」
「そんなくだらん冗談は慎め。下品すぎる」
俺は喉の貫通に目を開いたが、当然何か言うことも、顔を上げることもできなかった。つくえのイニシアルの落書きを見ていて、視界の片隅に東浦がこちらを瞥視するのが映る。
苦々しく教卓についた彼は、室月に目を戻すと、撃ち殺した人間をさらに切り刻むように追い討ちを吐き捨てた。
「どうしても知りたければ、塩沢にでも訊くんだな」
本気で胸にかまいたちが走った。
何……? あいつ、何て言った?
抑えた忍び笑いがささめき、理解より早くかまいたちの血飛沫が猛烈に全身を発火させる。息ができない。公開死刑を見物するような好奇の視線がちかちかと触れ、頭の中の白光もどろどろと恥辱と化して、より軆を燃えあがらせる。
耐えられない。いっそトラックが踏みつぶした空き缶のようにぺちゃんこになってゴミ箱に消えてしまいたい。どうしてこいつらはこんな──
「塩沢」と低い声がしてかろうじて左を見ると、おぼつかない視界に入ったのは弓倉だった。
「その、気にするなよ。みんな君のことよく知らないから」
弓倉の案じる瞳を見つめ、本気で泣き出しそうになった。でも、犬歯で舌を噛んでこらえる──涙を見せたら、わずらわしく思われそうで。
「本当の君に言ったわけじゃない」
励ますようにわずかに咲った彼に、しばらくどう反応すべきか迷ったが、とりあえず小さくうなずいた。弓倉がほのかに笑んで黒板に向き直ると、俺は口を閉ざしてつくえに向き直る。
本当の俺。そうだろうか。本当の俺には、ゲイであることがふくまれる。やはり俺は丸裸でいるところを笑われたようなものではないのか。弓倉がゲイとかは関係ない、俺の性格とかを指したのは分かる。みんな俺がどんな奴かなんて知らない。ただのホモ野郎としか思っていない。じゃあやっぱうわべを笑われたのか、とメビウスの輪のような感じに混乱しそうになっても、まあいい。とにかく今はどうだろうと、この身動きもできない熱で水蒸気になってしまいたい。
自殺したほうがマシな最悪の授業だった。今は二年四組に帰ってきて、中央列の自分の席にいる。昼食時間なのだが、弁当なんて食べる気分ではない。さっき来た弓倉は、俺がひとりにしておいてほしいと言うと、察して友達のところに行った。
気だるい雨が色目を使う女みたいに窓にしなだれ、今日は生徒はほとんど教室にいるから話し声がにぎやかだ。俺は自分の底になるべく集中し、感電の名残が鎮まるのを待っている。
でも、うまくいかない。一年生のときの堀川の侮辱が思い返り、悔しさはむしろ倍増しになっている。教師とはそういうものなのか。教師ほど型通りな人種もないだろうが、あいつらの俺への軽蔑は、ある意味型破りで身勝手だ。俺が気持ち悪いという私情に走り、教師の立場はさしおいている。
しかし、そう訴えれば奴らは、常識にのっとっただけだと返すのだろう。実際、常識的だ。常識的すぎて、あいつらは考える頭どころか感じる心も空っぽなのだ。
無理にでもそう言い聞かせ、非常階段からどこかに消えたい衝動に毛羽立つ心を何とかなだめる。そうやって恥ずかしさも怒りもぐちゃぐちゃになった熱が落ち着くと、今度は言いようのない虚脱感が停滞してきた。
椅子にぐったり体重を預け、死にかけの魚の泳ぎのようにぼんやりつくえに視線をうつろわす。何か考えたら、感情が目を覚ます。だから何も考えない。そうしているとふとつくえに影がかかり、上目を使うとふたつの影が俺を見下ろしていた。
「弁当忘れたのか」
口をきいたこともない、男子のクラスメイトふたりだった。このクラスになって三ヵ月が近いのに名前さえとっさに出ない。いつしか昼食時間は過ぎて昼休みに入っている様子だった。
「……何で」
背の高い茶髪の笠井という名札と、体格がよく四角ばった顎の根上という名札を確認しながら、俺は寝ぼけたような目と口で言う。弓倉以外の男子生徒に声を出したのは、六月下旬にして初めてだ。
「いや、昼飯食ってなかったからさ」
「購買行けば」
男子ならあの授業で分かっているだろうに、何なのだ。嫌味か。いや、もしや──
「食欲ないんだ」
何で、と無神経に返されるのも覚悟しながら言うと、ふたりは顔を合わせた。名前を把握してみると、そういえばこいつらは確かによくつるんでいるふたり組だ。茶髪の笠井が先に俺に目を戻して、肩をすくめた。
「お前って、何でいつも反論しないんだ?」
「……え」
「室月とか、さっきの東浦とかにさ」
「ホモだなんて言われるの嫌だろ」
「否定すりゃいいじゃん」
彼らを、ぼけた老人のようなぼうっとした目で見つめた。
何を、言っているのだろう。あのときは俺を笑ったくせに。たぶん。弓倉以外はみんな笑っていた気がする。
しかし、彼らはどうも、イジメを見かねた厚意を働いているつもりらしい。俺は無表情に椅子に座り直すと、やや捨て鉢な息をついた。
「嘘をつけってこと?」
ふたりはぎくりと頬を引き攣らせ、じわじわと顔を合わせた。この期に及んで白々しく見えるが、彼らは本気ででたらめだと信じていたようだ。かちりと目が重なった途端、渋面を浮かべ、根上は路面につぶれた蛙の死骸でも見つけたように後退る。笠井もそうして、距離を置いて俺をじろじろとしたあと、虫酸が涌いた顔つきになった。
「否定するのが礼儀だろ」
俺は鋭利に彼を見たが、すぐに陰る足元を向いた。走った痛みには何も動じない、せめて動じないふりをしようとした。しかし、そうする神経をかき集める前に、割って入った声があった。
「ひどーい、何でそんなこと言えるの」
綿菓子のような甘く柔らかな声で、ふたりはもとより、俺も顔を上げた。そして怪訝そうに眉をゆがめたふたりに反し、俺ははっと口もとを引き攣れさせる。
こちらにずんずんと近づいてきているのは、あの意味不明の女子連中だった。俺の席を垣根のように囲んだ彼女たちのひとりは、遠慮なく笠井の肩を強気に押し退ける。
「な、何すんだよっ」
「塩沢くんの代わりよ」
「こんな奴の言うこと気にしちゃダメよ、ねっ」
覗きこまれてにっこりとされても、肩を引いて引き攣った笑いしか返せない。俺はいまだに彼女たちが何者なのか知らなかった。分かっているのは名前ぐらいだ。
おっとりした感じでセミロングなのが星宮、ショートボブで勝ち気なのが内場、いつも髪をあれこれ縛って口がまわるのが折原、そして、このストレートを背中までのばしてぱっちりした目を長い睫毛が縁取る、断トツの美少女は舞田だ。
「何だよ、お前らそいつをかばうわけ?」
「そうよ」と舞田はなめらかに伸びる髪で空をきって、ふたりに向き直る。シャンプーらしきフローラルっぽい匂いがした。
「悪い?」
「お前らがどんなに言ったってなびかないんだぜ」
「お前らなんか、オカマじゃなくてもお断りだけど」
「るさいっ」
内場は根上を持っていた本ですばやくはたく。さっきの授業の室月とは違い、根上は本気で痛そうに頭を抑えた。
「やめて、穂波。あのね、私たち笠井くんたちは間違ってると思ったの。それだけよ。男の子同士でも、愛は愛なの」
王子様にプロポースでもされているようにうっとり言う舞田に、「はあ?」とふたりは綺麗に声を重ねる。ゲイの分際で何だが、俺もそんな気持ちだった。いや、よく考えればありがたい台詞でも、何だかしっくり感動できない。
「それにね、愛情はつらぬくものよ。笠井くんたちが何を言っても、塩沢くんの気持ちは変わらないわ」
俺の気持ち。何のどんな気持ちだ。今、俺に好きな奴はいないのだが。
笠井と根上は、カルト宗教の講演でも聞かされているように不気味そうに顔を合わせ、周囲もちらほら振り返ってきている。それに気づくと、俺は唖然とするよりやたら恥ずかしくなり、そんな口論はよそでやってほしくなった。
「あ、あの──」
「いいの、塩沢くんは黙ってて。ひなこは本気よ」
ひなこ、というのはたしか舞田の名前だ。この星宮は梨恵とかいって、折原は春菜といった気がする。
「男同士なんて気色悪いじゃん」
「どうして。常識に縛られてなくて、すごく綺麗だわ」
「綺麗!?」
頓狂なふたりのハモりに、教室がもっと振り返る。俺は蟻みたいに小さくなって、この場を逃れたかった。味方ぶるのは勝手だけど、俺の気持ちを考えてほしい。ぱっと見聞きしたら、俺が喧嘩させているようではないか。
「何言ってんだよ、お前。塩沢に買収でもされてんの」
「失礼ねっ。愛し合うのに性別は関係ないの。美しいと思うものに範囲はないのよ。どの本でもそう言ってるわ」
「本?」
「これよ、こういうの」
横から内場がさしだした本を、笠井と根上を初め、立ち上がってきたクラスメイトたちがわらわらと覗きこむ。俺はまだ何が何だか分からなかったが、影から影に移るゴキブリみたいに悪い予感を走らせた。
「塩沢くん」という綿菓子の声に顔をあげると、舞田がアーモンドチョコレートのような瞳を俺に向けている。
「これでもうみんな分かって──」
ところが舞田が言い終わらないうちに、人だかりがすごい爆発を起こした。笑い声、叫び声、罵り声──糸をひいたクラッカーがさまざまな色の紙テープを混ざらせるようにそれらが交錯し、やっぱり、と俺はいたたまれない絶望感に頭を垂れて目を伏せる。
「何? 何で笑うのっ」
舞田は髪をひるがえして振り返り、またフローラルが柔らかく香った。
「何だよこれ、ひっでーっ」
「こんなん真に受けんなよなあ」
「お前ら笑うなよっ。こんなん男をバカにしてる!」
「そうだよ、こんなん冗談じゃねえよ」
「まともな男の気持ちも考えろよなっ」
げらげらと引っかくような笑い声と癇を逆撫でられた怒鳴り声がまざりあい、女の子たちの媚が混じった声もぶつかりあい、「おい」と笠井が笑いを噛み殺しながら、俺のつくえにその本を放り投げた。
「これって、お前にはたまんないんだろ」
首から下は冷たく硬直する俺は、まぶたをゆっくりあげて本に目をやった。取りまく笑い声が激しく打ちつける頭痛になっている。表紙には、俺と変わらないぐらいの男と男が妙にべたつく絵があった。油をさしてもらっていないロボットみたいな、ぎこちない手つきで表紙をめくり、目に入った冒頭カラーに目を開く。そこでは、表紙にいたふたりが、みだらな顔を垂らして全裸で絡み合っていた。
まずい部屋の扉をあけてしまったみたいに、ばたんと本を閉じる。みんなまだ笑っている。頬が血走っているのが分かった。息もつまりそうなきしめく動作で顔をあげ、舞田の屈託のない笑みに出遭う。
「ね。塩沢くんだけじゃないのよ。もうそれぐらい普通なんだから気にしなくていいんだよ。時代は男同士っていってもいいわ」
違う、と思った。違う。違う。こんなの違う! でも、どう言ったらいいのか分からず、結局何も言えなかった。
いつのまにか予鈴は鳴っていたらしく、聞こえたチャイムと同時に担任の榎本が現れた。みんな慌てて席に散り、舞田たちも本を回収して去っていく。取り残された俺は、服をずたずたにされて辱められたような気分で、脳髄に沁みる真っ白な熱に呼吸をしている感覚も薄れさせていた。
起立、礼をして着席し、どうにか理科の教科書やノートを取り出すと、あとは耐えられなくてつくえにばったり伏せった。
あれは善意だったのか。俺には嫌がらせとしか思えない。でなければ、陵辱だ。軆がくらくらするほど蒸されている。
だいたい、あの本は何なのだ。ゲイを擁護している本なのか。あんなのが? 偏見を増長させ、理解できない奴をよけい遠ざけるだけではないか。中身を読めば違うのか。あのいやらしい挿し絵が、くっきりまぶたにこびりついてしまった。何でだろう。ゲイなのに。あんな絵──吐き気がする。
ストレートのそういうところが嫌いだ。ゲイはやることしか考えていないとか、そういう根拠もない偏見だ。なんで同性愛と聞けば、すぐセックスに結びつけるのだろう。
けれども、六年生の夏に見た夢を思い出すと怒りが失速してみじめになる。そう、俺はあの絵みたいな夢を見た。あれが現実なのか。どうこう思っても、俺が求めているのはしょせんあんなこと? だったら軽蔑されて当然な気がする。男を慰み物にすることしか頭にないのなら。
だが、違う。俺は男とやりたいのではない。男と恋愛したいのだ。それに性愛が含まれるのは否定しないけど、それひとつが目的じゃ──
何でだろう、と頬の熱が伝う剥き出しの腕に強く顔面を押しつける。胸の奥がぐちゃぐちゃにうずまき、何だかわっと泣き出してしまいたい。
どうして、みんな俺を正確に分かってくれないのだろう。そんなにむずかしいのか。的外れな理解や勝手な偏見しかよこさない。
男と男が恋をする。深く考えず、そっとしておいてくれたらいいのに。ストレートの奴らにはそれは、そうも困難な対応なのだろうか。
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