毎日を忘れてしまえば
一日はすごく長いけど、時間は子供にとっての大人の早足のようにすぐ過ぎていく。今日は何が起こるかという警戒に気を取られ、そして何か起きた途端、それを呪う考えごとに走り続け、毎日が何の痕跡も残さず流れていく。
そして今日は、来週には十月に入るという金曜日で、ひとりで音楽室から帰ってきた俺は、教室の入口で男子生徒と肩がぶつかった。
「あ、」
ごめん──ですまない自分は知っていても、とっさにそう言おうとして、ぎくりと口をすくませる。
そこにいたのは、この学校有数の不良の矢崎烈だった。俺とぶつかった肩を鋭く一瞥した彼は、素早く手提げを持つ手で俺の胸倉をつかんでくる。
「何様だよ、オカマ野郎っ。きたねえだろっ」
しゃがれ声の息には煙たい臭いがした。釣りあがった眉と冷めた眼つきが顔全体をとがらせ、荒っぽい茶髪も野生の雑草のようにばらついている。俺がビビるヒマもなく、矢崎は粗野な手で俺を廊下へと押しのけると、舌打ち混じりに肩をはらって生徒たちに紛れていった。
今は二時間目が終わったところなのだが──いつものことなので、ただため息をつき、普段より余計に気まずく教室に踏みこむ。みんなが俺を見つめている。俺は恋人みたいに常に見つめ合う上履きしか見ていないけど、作られたざわめきの静けさで分かる。まるで、俺にだけ見えない俺の背中に取りつく死神を見ているようだ。
教壇を横切って、窓際三番目の席に着くと、音楽の一式を手提げにしまって椅子に体重をおろす。そして、開襟シャツの襟元を正し、居心地の悪いため息をつくと、みんなのほうを見そうな視線を手元にじっと据えつけた。
昨日眠れずに聴いていた雨音の名残か、今日の空には、灰色がかった雲がスプレーの脈絡ない落書きのように引かれている。でも、肌が息詰まる蒸し暑さはあまり変わらず、来週からさっそく冬服を着てくる生徒は少なそうだ。
この夏服の生地は、皺がつくとアイロンをかけない限りくっきりと残り続ける。矢崎につかまれたあとは、弾痕か落雷したあとみたいになっていた。手ではらっても大して変わらない。あいつに何か言われたのは初めてだな、とあきらめてつくえの木目を向くと、自分に閉じこもるため、そっとまぶたを陰らせた。
矢崎は学年では一番の不良で、いつも授業をサボったり煙草を没収されたりしている。彼の細身だけど骨格は取れた軆とすれちがうと、だいたい、煙か酒の臭いがした。
一匹狼でなく、似たような奴とつるみ、学校の外ではきっとそいつらとゲーセンどころではない場所に入り浸っているのだろう。そして、ナイフで恐喝したり窃盗したり、因縁でリンチしたりしている。頬や腕に傷や痣があるときがあるのは、喧嘩ということになっていた。
矢崎が俺に好感がないのは、何となく知っていた。俺も彼も落ちこぼれだけど、方向が違う。俺はこもり、彼は切れる。同じ種子植物でも、被子植物と裸子植物に分かれるのと同じだ。彼の嫌悪が望永などとは異なり、公衆でぶん殴ってくるようなものなのも感じていた。だから、さりげなく関わらないようにしていたのに、何で今日はぼんやりしていたのか──
何かあるときに限って、気が抜けている。何でこんなにバカなんだろ、と燻る自己嫌悪に、羽の中に雛をかばう母鳥のように腕に頭をかばってつくえに伏せる。
「ああいう男って、ゲイとか許せないって聞いたことあるよ」
その日の昼食時間、望永の椅子に座って弁当をつつく弓倉はそう言った。ちなみに、音楽室からの帰りが別々だったのは、彼がほかの友人と帰ったのでなく、学級委員として担任に呼び出されたからだ。
弓倉はもともとの友達より俺といるほうが多くなっていて、俺は内心それを気にしている。彼がこのまま友人を失くしたらどうしようとか、友人たちにまで嫌悪されはじめたのではないかとか。ウインナーを食べる弓倉の横顔にそんな影はないとはいえ、俺がそのへんを気にするのは彼も知っているので、見せていないだけかもしれない。
「ああいう男」
水筒のふたに冷たい麦茶をそそぐ。からん、と銀色の細身の中で氷が響く。
「不良というか。女も軽蔑してるんじゃないかな。ストレートの男しか許さないんだよ。よく分かんないけどさ」
確かに、学級委員があんな奴の心理をよく分かっているのも不気味だ。うつむいて香ばしい麦茶をすする。
「何かさ」と口の中を飲みこんだ弓倉は、矢崎の空席を一瞥する。廊下側の一番後ろだ。
「それが男らしさなんじゃない? ゲイとか女を軽蔑するのが」
矢崎の空席を見やる。天気が悪くて、今日は教室はにぎやかだ。麦茶を置くと弁当に目を落とし、箸を持ちなおしてちょっと焦げたたまご焼きの腹を刺した。
グレたらいいのかも、と俺も思うときがあった。学校をサボって煙草を吸って、要するに矢崎みたいに振る舞う。社会が俺を落とすなら、こちらから社会を落ちてやるのだ。死刑にされるぐらいなら、自殺してやるみたいに。
でも、俺にそんな度胸はなかった。臆病者の言い訳で思ったりした、グレるのはストレートの特権だと。いい線をいった言い訳だったらしい。ゲイは不良の世界では許されないのだ。
「担任からの呼び出しって何だったんだ」
弓倉の前で沈殿するのも余計な心配をかけそうなので、たまご焼きを飲みこむと、話を変えた。「ああ」とごはんをすくっていた弓倉は手をとめる。
「もうすぐ十月で、学級委員の任期終わるだろ。で、いろいろ」
なるほど、と納得したあと、ふと影に気づいて不安になる。学級委員でなくなる。それでも弓倉は、俺に今まで通り接してくれるだろうか。ほとんど考えなくなっていた。だが、もし彼の友好が学級委員である義理だったら、十月から俺は──
「塩沢のこと、気にしてたよ」
「えっ」
「榎本。こないだの、ほら、目に砂入れられたときのこととか」
「……ああ。あ、あのときは、その、ほんとに──」
「いいよ、もう。気にしてない」
あの日は、放課後も塾が待つ優等生みたいに、そそくさと帰ったものだ。翌日はいつも以上に学校が怖かった。今度こそ弓倉は、俺に関わっているせいでつきまとう憶測に切れたかもしれない。
でも、彼は俺に普段通り「おはよう」と声をかけてきて、それから俺はしつこく謝った。何なら放っておいてもいいとも言ったけど、弓倉はこうして俺と時間を割いてくれている。来月からも、そう不安がらなくもいいのだろうか。
「塩沢が注意してほしければするって言ってた」
「………、誰かは知ってるんだ」
「舞田たちに教えられたって」
そういや何か話しかけてたな、と思い出す。彼女たちは望永たち本人に文句をつけることはないが、しょっちゅう榎本に事をチクっている。俺のためを想っているのだろうが、あの日の望永のつぶやきの通り、まったく逆効果だ。
同性間のイジメで、異性を味方につけると、副作用が大きい。第一、舞田たちのかばい方は俺でも最悪だと思う。先公に密告なんて、みずから的を左胸に合わせるようなものだ。
「舞田たちに言ってみれば? 迷惑だって」
「そしたら『何で』って訊いてくるだろ。うまく言えないよ。言えたとしても、納得するか分からないし」
「俺から言おうか」
神妙になる弓倉に俺は首を振り、「揶揄われるだけだよ」と温くなりかけた麦茶を飲みほす。
「じゃ、榎本からとか」
「一学期の終わりに言われたんだ、自分に舞田たちの趣味を制限する権利はないって」
「……そう。あ、もしかして終業式のとき?」
俺はうなずいて、ふたを水筒にかぶせる。
「それに、密告してくるなとも教師が言えないだろうし」
「あ、そっか。むずかしいな、けっこう」
弓倉は明るい瞳を気重そうに上方に投げやり、俺は白身魚の煮つけのかけらをごはんと口につめこむ。弓倉も弁当箱の中身を胃に片づけ、昼休みには女子の学級委員と委員会に出かけていった。
降り出しそうな肌寒い気配はないものの、五時間目まで教室でつくえに頬杖をついていた。心を損なうカミソリに気づかないよう、教室の雑音は聞かないようにする。
けれど、気づかないようにしているから、かえって鼓膜が過敏になって幻聴さえ感じさせる。前髪に隠した目を伏せ、自分の内部に集中しようとした。
目に砂を投げこまれた日、サイボーグみたいにならなければならないと思った。なれるものならなりたいと思う。でも、どうしても心は傷を受けると鮮血を流し、頭はこびりついた血痕を嫌悪する。
それに、思うのだ。生きるために無感覚になりたいといっても、そうなれば俺は間違いなく首をくくる。無感情なら、夏休みにあれこれ思った死に対する抵抗や恐怖も感じないだろう。生きていくには無感覚にならなくてはならないけど、無感覚になればきっと俺は早いところ死ぬ。無感覚になったって、俺自身が弱ければ同じなのだ。
もっと、本質的に強くならなければならない。望永、坂巻、矢崎に舞田──これからもいろんな敵が現れてくる。俺は柔軟に耐え、気にしないようにならなければならない。
水拭きで消える水性インクみたいになって、悪い記憶にしがみついて余計染みつける真似はやめるのだ。予鈴が鳴って、生徒たちが億劫そうに教室に集まってくる。どうすればそうなれるのかは分からない。だけど、とにかくそうなっていかないと、そろそろ神経も精神も持ちそうにない。
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