非常階段-60

問題児

 その日は薄暗い小雨が降っていた。道端のあちこちの水溜まりに、落ちた雨粒が何度も何度も波紋を広げる。いつのまにか雨の日は蒸し暑いより肌寒いようになり、生徒たちは冬服に染まっていた。カレンダーは十一月に入り、校内では文化祭もどきの準備が始まっていた。
 二年四組は、班ごとに作って仕上げに全部つなげるちぎり絵で、つくえを退けた床に生徒が五、六人ずつかたまって談笑混じりに作業する。班の仲間に入れてもらえないことに既視感があると思ったら、去年のこの頃にはすべてばれていたのだった。割り算のあまりみたいに輪をはずれながら、もう一年以上にもなるのかと考える。
 あっという間だった。けれど、賢司と教室に踏みこんだ日は遠くも感じられる。鮮明だけど、遠い。一年よりもっと長く苦しんできた気がする。つらい気持ちばかり味わって、毎日痛みを痺れさせて、何も楽しいことは残さなかったから、日々に重みを感じないのだろう。
 あの日以来、俺は人を好きになっていない。例外は弓倉くらいだ。ほかはみんな嫌いになった。親しかった人も、知り合った人も。まあ、嫌いというか、敵になったのだ。嫌いな奴もいる。憎みきれない人もいる。
 いずれにしろ、誰かを敵にまわすのがこうも疲れるとは知らなかった。顔も見たくない。その名前も耳にしたくない。その人に関する感情を思い出し、吐きそうな気分になるのをできるだけ減らすため、しつこく避けまくる。これが、予想以上に負担なのだ。
 軽蔑のほうが時間も労力もかからない、とはよく言ったものだ。俺もそうしたい。嫌いになるぐらいなら軽蔑し、その存在を無視したい。顔を見ようが名前を聞こうが、受け流せる強さが欲しい。もう、誰かを嫌いだと思うのには疲れてきた。
 ホモはサボり魔だとかまた言われるのは分かっていても、外されるのだから仕方ない。俺はみんなを手伝わず、灯された明かりを見つめたり、窓の陰鬱な雨を眺めたりしていた。今は四時間目で、三時間目からの美術の時間を使っている。美術教師は一年のときと同じ相沢だから、俺のことは放っている。
 チャイムが鳴る五分前に、生徒たちを見まわっていた彼女は中断を言い渡し、折り紙をちぎる音や糊のにおいがやんだ。チャイムが鳴る頃にはだいたい片づいていて、つくえを戻すと昼食時間になる。
「塩沢」
 今月の窓際一番めの席で息をついていると、入り混じる雑談の中、いつもの声がかかる。弓倉だ。女子のかたまりを避けてこちらに来た彼は、手に弁当を持っている。
「今日はここで食べるんだろ。雨だし」
「ん、うん」
 先月殺虫剤なんかかけられ、俺はさっさと非常階段に逃げ出すのが多くなっていた。弓倉には悪いかと思っても、まあ彼には自分の友情を保ってほしいところもある。ちなみに、弓倉はそういうとき俺がどこに逃げこんでいるかは知らない、と思う。
「でもごめん」
 弓倉はもう約束があるから断るように申し訳なさそうに、ドアのところに待つふたりの友人をしめした。
「今日、風紀委員で集まんなきゃいけなくてさ。昼飯食いながら」
「あ、そっか。いいよ、別に」
「一応言っとこうかと」
 俺はあやふやに咲って、手提げから弁当を取り出す。
「そんな気い遣わなくていいよ。平気」
「……そっか。もし何かされたらごめん」
「弓倉のせいじゃないよ」
 弓倉も明るい瞳をちょっとだけ笑ませると、「じゃあ」と急ぎ足で教壇を横切って友人たちに合流していった。それを見送って弁当箱を取り出し、そっとふたを開ける。
 今日は──何もされていない。泥のあとにも、ぐちゃぐちゃにされたり虫が入れられたりしていたことがあるのだ。元から食欲なんかないけど、と箸箱から箸を取り出そうとしていると、右頬に影がかかった。
「今日のランチデートは、浮気されたみたいだな」
 斜めに上目を使うと、言うまでもなく望永と坂巻だった。ぱっと目をそらし、おかずのウインナーやマカロニサラダを見つめ、今開けたふたをかぶせる。
「何だよ。食べれば?」
「嫌いなもんでもあるのか。ホモは好みにうるさいらしいもんな」
 そう、だからお前に惚れたりもしねえよ。言ってやりたいけど、臆病さが喉につっかえさせる。そう言えば間違いなく殴られる。一年生のときの裏庭でのリンチが素早くよぎる。
 軽蔑。無視。憎悪を抑えつけて頭に言い聞かせ、俺は弁当箱をふくろに突っこむと椅子を立ちあがった。
「な、何だよ」
「やるのか」
 ほかで食べればいいんだろ、ぐらい言ってもいい気がしたが、黙りこくってにぎやかな教室をあとにした。追いかけてはこないことに、やっぱりちょっとほっとする。しかし、これでどうしよう。ほかで食べるといっても、別のクラスに友人がいるわけでもない。
 非常階段はさすがに行く気がしない。三階からの屋根はあっても、雨が降りこんでまともに座れないだろう。この天気に生徒は校内に溜まっている。階段、廊下、どこもゆっくり座れるところがなく、まさかトイレ、と蒼ざめているうち、みんな昼食を取り終えて動きはじめた。それなら屋上のひさしにでも行ってみるか、とほの暗いそこに足を延ばしたけど、何だか話し声がするので覗きもせずに首を垂らして引き返す。
「お前もよくやるよな」
 が、背中に聞こえたその声に憶えがある気がして、ひたと足をとめた。屋上が近いから、雨音がよく響いている。むこうはそれで俺の気配に気づいていないようだ。
「もうそろそろ、いいんじゃねえの。これ以上やってるとやばいぜ」
「つってもなあ」
 俺はその声に首を絞められたみたいに息を止める。弓倉だ。
「いまさら、どうやって引けばいいのか分かんないよ」
「いきなり無視すりゃいいじゃん」
「残酷じゃないか」
「いいって」
「そうそう。残酷にして絶望させたほうが後腐れないぜ」
 眉を寄せ、無意識にとかげみたいに冷たい壁にぴったり背中をあてる。残りのふたりの声は、例の風紀委員を共にする弓倉の友人だ。
「望永たちにもイジメられてんのに」
「おいおい、情できてきてんのかあ」
「あんなんイジメじゃないって。されて当然じゃん」
 強く絞めあげられた心臓に、指先が震えてくる。そして、動悸が暗雲の中で激しくうごめきだす。何。何の話だ。弁当を取り落とさないよう、きつく右手に力をこめる。
「榎本がせこいんだよな。自分が嫌だからってあいつの世話をお前に押しつけるなんて」
「まあ、そうしたいのは分からなくもないけど」
 笑い声にはたく音が重なる。冷気のせいだけでなく、足元が次第に冷たく侵蝕されていく。
「榎本に頼まれたとはいえ」
 ため息混じりの弓倉の声に、俺は猛毒を静脈に突き刺されたように目を剥いた。
「やっぱ気持ち悪いよな。懐かれるほど怖くてさ」
「だから適当にほっときゃいいって言っといたじゃん。ホモは男なら何でもいいんだ」
「惚れられるぜー」
「うえっ。ったく、問題児がクラスにいるとき、委員長なんかやるもんじゃないよな」
 瞬間、俺は視界が真っ暗に感覚を絶した気がした。鼓膜も障子みたいに破れた気がした。ただ全身をこわばらせていく冷たさが喉元までせまってくる。
 嘘だ。信じられない。そんな──
 問題児? 俺が? それより何?
 榎本に、頼まれた……?
 頭の中が真っ白に崩れていく。自分の心臓の音も聞こえなくなる。壊死したように指先も冷たくて、けれどかろうじて底に残った理性で、その場をばたばたと激しい音を立てて駆け降りはしなかった。
 バカげた理性だったかもしれない。せめてそうして抗議すべきだったろうか。
 壊れそうな足元でよろよろと階段を降り、スピーカーのボリュームを上げるように、徐々に聴覚を取り返していった。笑い声がする。雨音がする。顔をあげると、セーラー服を着た女の子や、学生服を着た男がいつもの廊下を行き交っていた。
 そんな光景の中で、はっきり浮いている自分を不意に感じると、急激に耐えがたさが弾けて、生徒たちのあいだを駆け抜けて非常階段に閉じこもった。
 案の定、金属の地面は水に艶めいていた。だが、今のところは雨は垂直で降りこみはしていない。身動きすると足元が濡れた足音を零した。雨と、土と、錆の匂いが深く綯い混ざっている。肌が鳥肌にざらついていく。目の前の空中を雨がしきりに伝い、茫然とたたずんでそれを見ていると、いつのまにか俺の瞳もそんなふうに頬に涙をあふれさせていた。
 信じられない。何で。何で? ちきしょう、俺は騙されていたのだ! あいつにハメられていた。あいつは味方なんかじゃなかった。先公に頼まれて、俺の世話をしていただけだった!
 友達だと思っていたのに。信じたのに。あいつだけはゲイであることも含めた俺を分かってくれていると──
 自分がバカみたいだ。何で信じたのだろう。見抜けなかったのだろう。ムカつく、あいつらの言うとおりではないか。ちょっと優しくされて懐いた野良犬みたいに、俺は飢えに絆されて弓倉に心を許した。面倒な義務の中、内心俺を軽蔑するあいつに、本当にいろいろ語ってしまった。あの上っ面に完全に騙されてしまった──
 がしゃんっと強い音を立てて、弁当が足元に落ちる。すると、雨なんかどうでもよくなってきて、俺は引き裂かれた心のまま手すりに顔を伏せてその場にうずくまっていた。喉がひりひりと膿み上がって、息ができない。目をつぶっても、冷たい雨の中、やけに熱い涙が喉までどくどくと伝っていく。心臓をつかんで身をかがめ、地面に額を押し当てた。冷たく湿った金属の匂いは、血の匂いに似ていた。
 少し風が吹くたび、髪や肩に雨が染みこんでいく。雨音に紛れて、こらえきれないしゃくり声が上がる。嗚咽が凍え、どんどん俺の軆は震駭を抑えきれなくなっていく。
 どうしてこうなんだろう。何で俺はいつもこうなってしまうのだろう。俺はただ男に惹かれるというだけなのに。神様はここまで俺を痛めつけて、何が楽しいというのだろうか?

【第六十一章へ】

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