非常階段-62

突然の告白

 あの脅しのせいかは分からないが、その日以来、弓倉は俺に声をかけなくなった。
 文化祭もどきも終わり、通学路を染めていた落ち葉も次第に木から涸れてきている。近頃は雨が過ぎ去って高い青空が続いているが、風が意外に鋭利に肌を傷つけた刃物のように冷たくなり、みんな制服にコートを着こんでやってきていた。その日も笑わない子供みたいにかわいげなく登校した俺は、窓際側のつくえにかばんを放り投げようとした。
 けれど、ぴくりと手をとめる。一瞬、犬の糞かとも思った。さすがにちがう。くすんだねずみ色からしても粘土で、バナナぐらいの大きさに細長くしてある。赤いチョークによって、矢印とともにこんな添書きがされていた。
『彼氏に裏切られて飢えている君に』
 俺はそいつをじっと見つめ、どうにか無表情をたもって手提げは脇のフックにかけた。かけるために腰をかがめた影で、それをどうしようか素早く考えた。
 床に叩きつけて踏みつぶしてやろうか。弓倉のところにあてつけで“返して”やる? あるいは、もちろん犯人の望永か坂巻に、弓倉のはこんなに大きくないとか嘲笑して弓倉に復讐してやろうか。
 俺は背を伸ばした。視線や嗤い声が、神経に触れる。心と同じぐらい軆も抑えつけているのだけど、どうしても震えが伝って紺のコートの裾が揺らいでいた。
 どれもする勇気がないのは分かっていた。でも、つくえか椅子を力いっぱい蹴りつけてやるぐらいの無神経さはたぎっている。だが足の裏をきつく床に躙りつけただけで、必死に我慢した。
 もう俺はこいつらを憎まない。軽蔑するのだ。怨んで、何かして、そのあといろいろ考えて染みを内出血のように濃くしたくない。無視する。気にしない。
 俺は油っぽい異臭のあるそれを握りつぶし、ゴミ箱にやり、トイレに行って、手を洗い、ハンカチを濡らし、つくえに移った油粘土の臭いをこする一連の作業を、召使いのように黙々とこなすと席に着いた。
 そのあいだ、相変わらず笑っているのもいた。ちょっとずつ臆していくのもいた。来週の十二月からしかストーブが入らない教室は寒い。俺は安い探偵みたいにコートの中に身をひそめ、ちょっと綺麗になったつくえを睨んでいた。
「塩沢くん」
 昼食時間、ひとりで弁当を連れて教室を出ようとしていた。荷物を置いてつくえを離れるのは気になるけれど、こう寒くなり、みんな教室で昼食を取るようになったから、よけい気まずい。入口のところで突然そんな声がかかり、足を止めて振り返った。
 女の声だったから、とっさに舞田かその取り巻きと思って顰め面をしていた。だが、どれでもない。
 もちろんセーラー服を着た彼女は、綺麗にとかした髪を頬にかかるぐらいの長さで切っている。内気そうだけど、いささかけばい舞田とは違った感じでかわいい。それでも怪訝が残って眉を寄せつつ、首をかたむけた。
「何」
 彼女は俺に少し微笑みかけると、隣にやってきて俺の腕を取って廊下に出た。どこの生徒も教室にこもり、廊下の行き来も夏場ほど多くない。
「ひとり?」
「え」
「誰とも約束ないよね」
「……まあ」
 教室を一瞥する。何事かとこちらを窺うクラスメイトたちと、俺も同じ気持ちだ。
「じゃあ私と一緒に食べない?」
「は?」
「ダメかな」
 舞田ほど甘ったるくない、なごやかな声の彼女はしゅんと上目になる。俺はそのふくらみかけた胸元を見た。結浜ゆいはま、というのか。そんな名前の女子もいた気がする。委員長ではない。保健委員だ。保健。保健、の先公に頼まれたのだろうか。飛躍しすぎの気もするが、なくもない気がする。
「何で俺と」
「嫌?」
「嫌、というか──同情はいらない」
「そんなのじゃないよ。教室にいたって、舞田さんたちがうるさいでしょ」
 声をひそめた彼女の目に、つい俺は目をすべらせる。
「舞田たちのこと──」
「あんなのと塩沢くんが違うのは分かってる」
 一瞬、期待が花開きそうになったが、即座に俺はそれに除草剤を吹きつける。
「でも、俺が男のほうなのは、」
「ね、お弁当食べながらでいいでしょ。塩沢くんっていつもどこ行ってるの?」
 非常階段にやりかけた目を抑えて、廊下にとまどわせたときだ。「ちょっと」とあの綿菓子みたいな声がぴしゃりとかかった。びくりと首を捻じると、無論舞田で、三人の取り巻きも揃っている。
「結浜さん、あなたどういうつもり?」
 ただでさえ印象の強い瞳を、舞田は結浜にじろりと押しつけがましく焚きつける。結浜はその眼つきにやや身をすくめ、俺の心の底には何だか共感のようなものが流れた。
「塩沢くんはねえ──」
「いいよ、結浜。行こう」
「え」と彼女は俺を見上げる。今度は俺のほうがその華奢な腕を取る。
「場所変えよう」
「塩沢くん、」
 舞田より、この子のほうがマシな気がした。「女は邪魔なんだから」という舞田のわけの分からない抗議の声がするけど、狼狽える結浜を引っ張ってさっさとその場を逃げ出していく。
 あの女に幻想を押しつけられるのはうんざりだった。昨日も、帰り道のあいだ、弓倉と死に別れたかのようにお悔やみを言われたし、その前には弓倉をさんざん罵倒して、そのまた前は事を知らなかったから、「お似合いだったのに別れたの」とか言ってきて──俺は舞田の着せ替え人形ではない。
 渡り廊下にそれると足を止め、結浜から手を離した。ちょっとはずんだ息を抑えて耳を澄ましても、舞田たちの追いかけてくる足音はない。ざわめきが低いおかげで、覗かなくてもそれは分かった。ほっとして結浜を向くと、彼女は俺につかまれていた右腕を左手の中にかばっている。
「あ、ごめん。痛かったかな」
 無理に引っ張ってきたかたちを気にすると、「ううんっ」と結浜はぱっと手を外して、ちょっと大袈裟に首を振った。その髪には、果物のような優しい匂いがした。慌てて乱れた髪を直す様子がやや気になっても、「そう」と俺は廊下をちらりと振り返る。何気ない往来に紛れて、舞田が登場する気配もない。
「舞田たちは来ないな」
「そ、そうだね」
「ごめん。俺に近づかなきゃあんなこと」
「いいのっ。自分で、塩沢くんに声かけたんだもん」
 意気ごんだあとうつむいた彼女を見つめ、物好き、と思ったが口にはしなかった。俺は左手に弁当を持っているし、彼女も右腕に弁当を提げている。何か巻きこんじゃったな、と舞田を逃げたいだけだった俺は、申し訳なく壁の非行防止のポスターを一瞥する。
 そちらがそうしたいのなら、昼食ぐらい共にするべきなのだろうか。しかし、ゲイの男とくだらないうわさが立っても気の毒だ。影響を思えば、俺か彼女がひとりで教室に戻るべきだろう。
「あ、あのさ」
 結浜は顔を上げた。そのなぜか泣きそうにも見えた目に面食らいつつ、あやふやな笑みを作る。
「舞田たち、うるさそうだし。俺が教室に帰ろうか」
「えっ」
「君が帰ったら、何か言ってくるよ」
「で、でも」
「俺なんかとうわさが立ったら、君が迷惑だろ」
「そんな、」
「クラスメイトじゃなくたって、知ってるだろ。俺はゲイなんだ」
 結浜は飲んだ息にわずかにまぶたを揺らし、小さく足元にうつむく。
「そう、なんだってね」
「俺といたら、君にわけの分かんないうわさが立つよ。……弓倉のときみたいにね」
 彼女ははっと俺に顔を上げなおす。俺は目をそらし、ぎこちなく一歩後退る。
「じゃあ、その、俺が教室に、」
「待って」
 結浜は踏み出して俺の腕をつかみ、俺は少しだけ眉間を寄せる。渡り廊下に人はおらず、彼女の背中の向こうの窓が緩く陽を射しているだけだ。
「構わない」
「え」
「どんなうわさが立ってもいい。塩沢くんと一緒にいたい」
「い、いたいって、」
「お願い」
 結浜の潤みかけたまじめな瞳と声に、どんな顔をすればいいのか当惑する。
 何。何で。俺といたい、ってそれは、自分に関する中傷が湧きたってほしいということか。まさか。だいたい、その熱っぽい目はいったい──
 そのとき、ふと自分の腕をつかむ白い指が目に入り、ぎくりと予想が走った。冷たさが伝った背筋に、ゆっくりと喉仏が上下する。
 まさか。まさかとは思うが、この女──。彼女はじわりと制服を握りしめ、俺は唸る犬をあやすような尻込みした笑みを浮かべた。
「あ、あの、俺、」
「塩沢くん」
 急に彼女の声が深い揺るぎなさを帯び、やば、と空を切った剣のように直感が走る。
「わ、私ね。私……」
 透明リップクリームを塗った唇が震えている。悪いが俺は、それに何とも感じない男なのだ。
「結浜、」
「私じゃダメ?」
 こちらの言葉を制するように声を重ねた結浜は、俺の瞳孔を捕らえてつめよった。
「私、春からずっと塩沢くんのことが好きだったの」
「え、あ──」
「塩沢くんが男の子を好きなのは分かってる。何度も言い聞かせたの、ダメだって。私は塩沢くんの対象じゃないんだって」
「まあ──」
「けど、ダメなの。好きなの。塩沢くんが男の子を好きだとしても、それでも私は塩沢くんが好きなの」
 生まれて初めての状況に、頭が混乱に酸欠してくる。好き。好きって、その、つまり、何というか──
「お、俺は、」
「ほんとにダメなの?」
「えっ」
「ほんとに、ぜんぜん、女はダメなの?」
 結浜の深みのある黒い瞳を見つめていて、次第に落ち着いてきた。冷静に、なってきた。心臓は初めから応じていなかった。それが答えだった。ストレートの男なら、女の子と見つめあえば、かえって意識はかきむしられるだろう。静まり返っていく心の中に、俺はそっと彼女の手から腕を取り戻し、視線をそらした。
「たぶん、」
「わ、私っ」
 結浜に哀しさも混ざった目を向ける。
「その、女の軆しか持ってないけど。やっぱり軆が男じゃないとダメ?」
 黙って、いつしか頬をくっきり染めあげている結浜を見つめる。
「気持ちだけじゃ、つまんない?」
 彼女はうつむきがちになると、頬になめらかそうな黒髪がかかる。俺は彼女は感じていないであろうここの肌寒さに身をすくめ、ため息をついた。
「それは君だろ」
「えっ」
「俺に対して、ほんとは男が欲しいんだって思いながらつきあうのは、君のほうがコンプレックスだと思うけど」
「そ、そんなっ。私は、塩沢くんに目を向けてもらえればいいの。ほんとなの。これまでずっと片想いしてて、そう思うようになった。もう私のこと見てくれるだけでもいいって。ほんとに、つらかったの。塩沢くんにとって、私は目にも入らない存在なんだって」
 俺は声を細らせる結浜の睫毛を見ていた。舞田に較べれば質素なものだが、それの震えに嫌悪はない。嫌悪はないけど──特に何かの反応も感じない。
 小学校の夏休みのグラビアへの無反応がよぎり、胸がちくりと痛んだ。
「つきあえば、次が欲しくなる」
「………、塩沢くんが嫌なら、そう言って」
「……え」
「私の気持ちは気にしなくていい。言って」
 息をついて、視線を脇にずらす。ポスターは相変わらずそこにある。渡り廊下にも依然として人はいない。
 言って、と言われても、俺はけして彼女を嫌いだと思っているわけではない。ただ、確かに、対象ではないのだ。この子をこの腕に包み、自分だけのものにしたいとは思わない。
「結浜」
 落ち着けた低い声に、頬を赤く濡らす結浜はかすかに視線を上げる。
「俺は、たぶん男しかダメだよ。バイとかあるのは知ってるけど」
 結浜は、首をもう少し胸に折りたたむ。
「それでも、女の子と試しにでもつきあったことがあるわけでもないし──」
 ぱっと髪を跳ねさせて頭を上げた彼女に、俺は急いでつけたす。
「つきあわないけど」
 そのひと言で、彼女の瞳に宿りかけた輝きはふっと暗がる。
「けど、まあ、弁当一緒に食うぐらいならいいよ」
 結浜は俺に目を開いた。陽射しを得た花びらみたいに。
「ほんと?」
「期待はしないでほしい」
 答えるより先に断ると、彼女は何度もうなずいた。その反応に胡散臭くなりつつも、俺はひたむきであるだけらしいこの子を傷つける勇気を、どうも持てなかった。
「その、弁当食うぐらいは友達でもやるし。ほんとに、いつか応えるかもとか思わないでくれよな」
「分かった。思わない」
「うん、じゃあ、どこ行こうか」
 結浜は心からの笑顔をほどき、非常階段のことははぐらかした俺を中庭に連れていった。渡り廊下を中央に通して左右に分かれるそこは、酔狂な奴でいくらかざわめいていた。
 地面にはしおれた芝生が引かれ、両側の校舎沿いには季節柄枯れかけの花壇がある。校舎にはさまれるここは風は遮断されるが、そのぶん日陰なのでやっぱり寒い。花壇に腰かけると、脚はひなびた匂いの芝生に放った。俺を隣に置いてはにかみ咲う結浜に、俺は引き攣った咲いを返しておく。
 膝に弁当を開きながら、残酷なことをしている気がした。彼女に言ったことは、臆病さからではない。事実なのだ。きっと、一生この子の気持ちに応えることはない。なのに──
 打算がないこともなかった。さっきの舞田や今朝の嫌がらせを思うと、いっそ女の子とつきあってみせれば、とやさぐれたくもなる。それに結浜にはああ言ったものの、もし俺にバイセクシュアルの素質があったら──。
 それでも結局、結浜の笑顔には罪悪感しか感じない。あーあ、と早くも後悔に憂鬱になりつつ、青く冷えた空を見上げて泣きたくなってきた。

第六十三章へ

error: