非常階段-64

息が苦しい

 左頬の神経が強くトゲを立てている。響く痛みはこめかみにまで伝い、吐き気まじりの頭痛を誘った。口の中が生温い血の味に濁っている。非常階段で手すりにもたれる俺は、ずいぶん冷たい風に前髪を奪われながら、ひなたに丸まる猫みたいに腕を丸めて首をすくめた。手先や足元が痺れていく中、頬だけが鮮明なほてりに疼いている。
 十二月もなかばにさしかかり、世間は神の誕生日に浮かれていた。弓倉に裏切られて転落していた俺の成績は、今月の頭の期末考査でとどめを刺された。あんなに成績がガタ落ちしたのは、一年生の中間考査以来だと思う。点数そのものは、当時より低かった。俺には神も仏もない。
 一番最後に返ってきて、最も悲惨だった数学の答案用紙を折りたたみながら、親にはただの学級通信も渡しづらくなってるのに、と気分も動作も重たく滅入らせた。
 成績だけが悩みならまだしも、家庭も交遊も問題だらけだ。悪ガキの軆に絶えない傷痕みたいに、憂鬱な事柄がいくつも毎日を追いかけてくる。そして、その傷痕を思い出すたび、いっそ死にたいと思う。この頬もそうだ。今日は本気で非常階段を降りたい。まあ、そう考えるときは、いつだって本気だけど──腕に顔を埋めると、頬に服がすれて痛みが走る。
 この頬は矢崎にやられたものだが、元をたぐれば犯人はいつも通り望永と坂巻だ。三時間目が終わり、偶然先月と同じ席に当たった俺は、窓際の前から一番目の席で国語の教科書やノートを引き出しに片づけていた。すると突然裁判の槌のようにこぶしがつくえをたたきつけ、びくっと顔を跳ね上げると、矢崎がこちらにくっきり険悪をたぎらせていた。
「返せ」
 唐突なしゃがれ声には、相変わらず煙草の臭いがした。
「……は?」
「『は?』じゃねえよ。とっと返せ」
 ぽかんと矢崎を見つめた。本気でわけが分からなかったのだが、矢崎の癇癪には猿芝居にしか見えなかったらしい。
「俺の服だよ」
「は?」
「お前、盗ったんだろ」
「な、何で、」
「あいつらが、お前が取るとこ見たって言ってんだよ」
 矢崎が気短に顎をしゃくった先に、俺は目を剥いて血管を蒼ざめさせた。望永と坂巻だ。とっさに二時間目が体育であったことが思い返る。つまり、俺はこのつくえを離れた──
 俺が脳裏に流れる悪寒に気を取られているあいだに、矢崎は勝手に俺の手提げを取りあげて腕を突っ込んだ。すぐ思わしくない目見がこちらを突き裂く。
 国語は毎日あるから教科書は引き出しの中で、俺は一時間目のあとは手提げに触れてもいない。矢崎は俺の手提げから黒と赤のフェイクレイヤードのシャツを引っ張り出すと、怒りや嫌悪を目やこめかみにきりきりと練りあげて、こちらを睨みつけた。
「このオカマ野郎っ」
 素早く胸倉をつかみあげられたかと思うと、歯を食い縛る間もなく頬ががつっと鈍い音を砕いた。栄養不良で骨ばった矢崎の拳は、それでも力はあって顎まで突き抜けた気がした。
「俺の服をどうする気だったんだ。これで千摺りでもかこうってのか、ふざけんなっ。こっちの気分も考えろ!」
 めいっぱいに押しのけられ、椅子ごと床に体勢を壊した。矢崎は俺に鞭のように手提げを投げつけ、しんとした教室を無視して突っ切って、自分の席の手提げをつかむと、それに服を突っこみながら廊下に出ていった。俺は崩れた体勢のまま、茫然とその背中を見送る。
 口の中に生臭いぬめりが広がっていく。
 ストーブが焚きつける音を立てている。
 ずきりと頬に痛みがとがって、我に返った。頬のふくらみに下目をし、そのトゲに言いようのない気だるさを覚える。軆の上で手提げが折れ曲がっている。
 何か考えるよりまずそれを手に取り、ゆっくり立ち上がった。ぎこちない視線がちらほら来る中、顔つきも手つきもなるべく淡白に装い、椅子をつくえに片づけて手提げもフックにかける。
 時計を一瞥すると、チャイムが近かった。できれば、平然としたふりで授業を受けておきたかったけど、神経を絞る頬がぼってりきているのは見なくても分かる。俺は無言で教室を出ると、廊下にざわめきがあるうちに非常階段に紛れこんだ。
 そして、こうしている。手すりの錆びた臭いは口の中の味と同じだ。冷えきった空気が首筋にのしかかり、授業中の静けさがひしひしと鼓膜に刺さってくる。
 安っぽい手品より、種明かしは明白だ。望永たちが矢崎の服を盗み、俺の手提げに押しこみ、矢崎に俺が盗っていたと告げ口した。千摺り。ホモに服を盗まれたら、やっぱりそんな連想が走るのだろうか。
 矢崎が私服を持ってきているのは不思議ではない。いつも早退する彼は、その私服に着替えて遊びにいくのだろう。三時間目の前に手提げを確認くらいしておけばよかった。なぜ俺はもっと気をつけて、事前に事を防ぐことができないのだろう。
 いろんな嫌がらせをされる中で、自分が気をつけていればなかったかもしれないことはけっこうある。弁当に細工されるとか、教科書に落書きされるとか──
 そういうとき、本当に自分が嫌になる。何でこんなに間抜けなのだろう。朝来てみたら上履きがなかったとか、そういう仕方のないことにも、冷淡さを繕う裏でうじうじ悩むのに、自分でどうかできたかもしれないことなんて自殺的な気分に閉じこめられる。
 なぜ俺は、こんなに初めから決まっていたような道にしか進めないのだろう。
「塩沢くんが良ければなんだけどね」
 翌日、居直って継ぎ当て布みたいに頬には白い湿布をべったり貼りつけた俺は、久しぶりに放課後に榎本に呼び出された。昨日のことは知っていると思う。生徒指導室に向かいながら、どうはぐらかそうか頭をあれこれ彷徨っていたら、椅子に腰かけた彼女が切り出したことは、むしろいよいよ俺の世話を投げ出す話だった。
「火曜日と木曜日に、カウンセラーの先生が来てるのは知ってるでしょう。行ってみないかしら」
 カウンセラー。まばたきがこわばった俺の瞳に、榎本はそっけない目つきをなるべく心苦しそうにゆがめて床にそらす。
「塩沢くんのために、先生もこれまで努力してきたつもりよ。それは分かってね。でもやっぱり、先生ひとりじゃ力不足なんじゃないかと思うの」
 たとえ口先でも、彼女の澄ました声がそう言えたのは進歩だ。だが、カウンセラー。一年生のときの、堀川の無神経なひと言が睫毛をかすめる。
「先生もいろいろいそがしくて、ごめんなさいね。気にしてるのよ、塩沢くんの相談とかにもろくに乗ってあげられないこと」
 無論、ヒマそうでもこの女には頼らない。俺は腫れぼったい頬を穿つ痛みの中にうつむく。前髪が視界と湿布の臭いをかする。
「カウンセラーの先生なら、塩沢くんのこときっとよく分かってくださるわ。具体的に、どうすれば治るかも教えてくださるでしょうし」
 またか、と一週間立て続けの献立を出されるよりうんざりと顔を背ける。だからこの女は担任になっても、何も俺の助けにならなかったのだ。榎本のおなじみの一面観のあいだ、俺は暖房機具はない室内にただ冷気を爪先や指先に染みつけていった。
「だから、どうかしら。カウンセラーの先生のところに行ってみない?」
 榎本の毒々しい口紅をちらりとし、「そうですね」と空箱を贈るように期待だけ渡しておいた。
「考えておきます」
 当然、行く気はなかった。彼女に勧められなくても、みずから行ってみようかと検討したこともある。カウンセラーまでも同性愛を否定はしない気がした。何せテレビや新聞によると、同性愛には理解を持っていきましょうということになっているのだ。
 誰かの前で咲いたかった。でなければ泣きたかった。しかし、相談室の前まで来て、ドアの擦りガラスを見つめて十秒あまり突っ立ったあと、思い直してそのまま帰宅した。
 仕事で自分に接する奴に心底を打ち明けても、孤独を痛感するだけで虚しそうだった。“治す”ものがあるならまだ、風邪をひいたら医者にかかるみたいに事務的に通えそうでも、むしろ俺は自分に治すものなどないと思っているのだ。病人扱いはされたくない。こんなところしかないほど孤立しているとも思いたくない。
 だいたい、恥ずかしいではないか。友達なんか持てるか分からないけど、俺はこんな話は友達にしかしたくない。
 湿布には触れなかった榎本と別れた帰り道、アスファルトの落ち葉は何枚かが力つきた蝶のように風にひるがえるだけになっていた。桜の樹はすっかりささめかせるものを失ってその場で硬直している。
 髪や裾、白い吐息と踊る風は冷たくても天気はよかった。温くなった湿布の下で疼痛が暴れているけれど、俺はにぎやかな生徒たちの間を押し殺した無表情で縫っていく。
 みんなが楽しそうなのは、もうじき冬休みだからだろう。この頃学校のほうに息切れしがちだったが、家は家で息が詰まっている。そう、こんな気持ちが肺を燻し、カウンセラーに頼ってみようかと一度想ったのだ。
 俺には誰もいない。居場所がない。息が苦しい……。
 でもやっぱり、そんなところには行きたくない。まだ俺は自分が、給料と引き換えの奴に無理やり心を開くほど、落ちぶれているとは思いたくない。

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