ずっと眠りたい
「じゃあ、行ってくるからね」
十二月二十九日の夕方、エンジンをふかしながら荷物をトランクに詰めこみ、車内も暖まったであろう頃、出発となった。俺は部屋にこもってそれをずっと聞いていて、階段をのぼってくる足音に続いてノックがすると、ドアを開けにいった。隙間に顔を覗かせたのは軽く化粧をしたかあさんで、曖昧な笑みと共にそう言われる。
「火の元と戸締まりには気をつけるのよ」
俺はこくんとして、合わせられない目を足元に落とす。ストーブの前にしゃがんでいたから、爪先に絡みつく廊下の冷気がくっきり分かる。
外では車の音が待機している。早く行ってしまって、聞こえなくなってほしい。
「柊──」
憂鬱なため息混じりのかあさんの声に、少し目をあげる。俺の瞳に、かあさんはつらそうにうつむく。
「ほんとに行かなくていいの」
視線を落とす。車の音がひどい雑音となって背筋を焦らせる。
「……何回も言ったじゃん」
「おばあちゃんたち、がっかりするわよ」
「俺のこと知ったら、……そっちのががっかりするよ」
ぽっくりいくよ、と言いそうになったが、不謹慎なのでやめておいた。かあさんだって分かっているはずだ。俺が行かないほうが、道中気まずくない。
車の音がまるで俺をなじっているようだ。逃げるのか、やはりホモであることがやましいのか、と。かあさんはもうひとつ息をつくと、ストッキングの足を一歩引いた。
「向こうに着いたら電話するから。お話ぐらい、何ならしてあげてちょうだいね」
「……うん。分かった」
かあさんは俺の肩に手を乗せると、一階に降りていった。その縹色のスーツの背中を見送り、一階に着いた足音を聞いたあと、部屋に身を引いた。部屋の真ん中のストーブの前にうずくまりなおす。ずいぶん治ったこの頬が腫れあがっていたときみたいに、電気に染まった手足がじんとほてりを帯びていく。
膝に顔を埋めて目を閉じていた。聞き取れない話し声がする。車のドアを閉める音、エンジンが唸って、しばしその音が続いた。そののち、ようやく車は発進して道路に出、駐車場の門を閉める音がする。そして最後の車のドアを閉める音がすると、すぐにエンジン音はこの家を遠ざかっていった。
途端、俺は危険な任務でも終えたかのように、大きく肺を空にした。畏縮しきっていた全身がふっとやわらぎ、顔を上げてその場に力も抜ける。
行った。行ってしまった。これで、一月二日までこの家にひとりだ。どうなることかと思っていた冬休みだけど、久々に事がうまく行ったように感じる。そう、俺は帰省をひとりはずれることを許されたのだ。
これはそのぶん、家族の本音が、俺について親戚に知られたくないところに強く根づいていることでもある。喜べる後援ではないが、祖父母たちに嘘咲いをせずに済んだのにはほっとする。俺もみんなに知られたくはない。敵を増やしたくないというより、全世界が敵になっているように感じているからだ。分かってくれるわけがない。
それでも、盆の帰省をしらばくれ、今回は家族全員が避けるわけにもいかなかった。俺が来なかったことについて、みんなには風邪を引いたという言い訳を通すことになっている。近所のおばさんに看病を頼んでいると。
祖父母や親戚をひとりずつ思い浮かべた。そんな浅はかな弁解なら疑うかもしれない人はいるけれど、俺がゲイだということを隠すためだと考える人はいないだろう。それは飛躍しすぎだ。たぶん。家族の演技力にもよるか。上の叔母さんあたりが言ったりするかもしれない。
どうしたの、そんな柊ちゃんが男の恋人でも作ってきたみたいな顔して。
ここで家族が食ったものがまずかったようにぎくりとしたら、一巻の終わりだ。いや、もしかすると雪乃ねえちゃんがぴりぴりした陰気に神経を切らし、かえって大きな声でばらしたりする可能性もある。
柊がゲイだっておかげで、あたしはさんざんだわ!
ストーブのぼやついた赤を見つめ、脊髄にじわじわと集まる冷や汗に生唾を飲みこむ。
ついていったほうがよかったのだろうか。早くもそんな後悔がよぎる。ついていったら、そんな雪乃ねえちゃんの無鉄砲は抑えられる。叔母さんが何を言っても、俺が素早く笑い飛ばせる。気をつけてさえいれば、かえって感づかれるということはなかったかもしれない。
どうしよう。今からなら、誰かのケータイに連絡を入れて引き返してもらえるだろうか。でも──ダメだ。やっぱりいい。自分がこうして頭で考えるほど、行動をともなわせられないことは学校でたっぷり味わっている。あれこれ気をはらうより、いっそ何もしないほうがうまくいくのだ。少なくとも、俺の場合は。
なるべく考えごとはよそう。せっかくひとりなのだ。何やかや妄想もしない。心配もしない。テレビゲームをやるなり、音楽を聴くなり、集中できそうな好きなことだけしておこう。どうせ一月二日には元に戻るんだし──いや、そんなやる気のなくなることも、できる限り頭から追い出すのだ。
部屋が暗くなってきたのに気づくと、明かりをつけてカーテンを閉めた。胃には緊張感の名残がまだ溜まっていて、ベッドに仰向けになると目を閉じる。
一月二日まで眠っておくのが一番である気がした。無駄にするも同然かもしれないが、思考は停止する。
やはり俺には、死がちょうどいいのだ。みんながいないあいだに自殺してみせてたらどうかな、なんて笑っても、その笑いは非現実に乾涸びていた。
何もかもやめたい。非常階段を降りたい。死んでしまいたい。よく飽きずに考えるよな、と自分でも嫌気を感じる。
拷問が加速する学校とは反対に、家庭内は単調な監禁に低迷しつづけていた。とうさんは俺をあきらめ、かあさんはまごつき、変わっていくことといえば雪乃ねえちゃんのいらいらした態度だ。期末試験中に一度、夕食を呼びにいったらすごい敵意を向けられた。
受験生ということで、よけい殺気立っているのだ。実際、雪乃ねえちゃんにとっても、学校も家庭も気が休まらないというのはあると思う。
本来は、俺でなく雪乃ねえちゃんが家に残るべきでもあった。けれど、俺が残るのなら集中できないと、雪乃ねえちゃんは参考書を帰省に連れていった。
これで志望校に落ちたりすれば、俺はいよいよ子供を殺した犯人のように怨まれるだろう。そして雪乃ねえちゃんがグレたら、両親の非難は俺に向かう。
やっぱ消えてなくなったほうがいいのかな、と白い天井にぼんやり瞳をうつろわせる。静かだ。誰の気配もない。緊張感の代わりに、虚脱感が俺を根元から支配していく。
みんな俺なんかいなくなったほうがいいと思っている。俺の顔を見たくもないと思っている。俺の存在は犯罪だと思っている。誰もがそう思っていて、それでも生きている意味はあるのだろうか。自分が何のために頑張っているのか、よく分からない。
同性と愛し合いたい。ここまでの犠牲をはらってでもつらぬくべき、大事な望みなのだろうか。誰かを愛するのは必要なことだろうが、そのためにはすべてを失わなくてはならないのか。
十一歳の夏休みの夢がまばたきに映る。触れあって、口づけて──あれを得るには、家族を失い、友人を失い、日常生活を失わなくてはならないのか。
どうしてだろう。それぐらいならいらない、ともきっぱり思えない代わりに、疑問がさしせまる。なぜ、俺の恋愛には、そんな過酷な条件がつきまとうのだろう。
一月二日まで、そんな陰鬱な物思いと、思考の自制を繰り返していた。家事は自分でしなくてはならなかったから、冷凍食品で汚れた食器を、ライムが香る泡に押しこみながら考えている。脱いだ服を洗濯機の渦巻きに放りこみながら思っている。かじかんだ指を握りしめ、そのたびもうやめよう、気にしないでおこうと決心する。
けれど、そんな意思は感情に押し流されて長続きしない。嫌なものは、やっぱり嫌だ。我慢できない、俺にはこの家もあの学校もすごく理不尽だ。何でこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
自分で自分の痣をこすって、醜い青紫を濃くしているようだ。気にしなければ薄れていくものに、しぶとく悩む。消えない記憶が恐怖になる。
死にたいという気持ちを休むことも、あんまりできなかった。逃げられない自分で、じゅうぶん疲れる。
家族が帰ってきての数日も、家事をしないぐらいでひとりのあいだと変わりなく、それでも一応、あっという間に三学期が始まった。
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