非常階段-66

恋人ごっこ

「塩沢くん、一緒にお昼食べよう」
 にっこりそう声をかけてきた結浜に顔を上げた俺は、何とも言えない笑みを返した。今日は髪にカチューシャを入れる彼女は、俺の瞳にはにかんだ瞳を映す。どう答えるべきなのか、手探りに教科書を手提げにしまうと弁当を取り出す。
「あ、あのさ」
「うん」
「今日ぐらい、友達と食べたら」
「え」とおじぎ草が刺激に葉をたたむように、結浜は俺の引き攣れた声に表情をすくませる。
「……あ、そう、だよね」
 緩く影が射した彼女の睫毛に、俺は男としてというより気弱な人間としてどうもぎくっとする。
「毎日、私とじゃ落ち着かないよね。塩沢くんに、私は邪魔なんだし」
「じゃ、邪魔というか」
「ごめんね。じゃあ今日は」
「いや、その、……俺は構わないけど」
 何を言ってるんだ、と自分でも思っても、視線も来ている中で冷酷にするのは、また変なうわさを広められそうだ。それに俺が迷惑そうにすると、舞田たちが起動する。
「き、君がさ、友達と気まずくなったらあれかな、とか」
 結浜は俺を見つめて笑顔をやわらげると、「それは大丈夫」と俺の腕を取る。
「みんな分かってくれてる」
「あ、そ、そう」
「塩沢くんがいいと思ってられるぶんだけでも、私は塩沢くんと過ごしたいの」
「はあ」と彼女に引っ張られるまま席を立つ。今月は中央列の前から三番目なんて、火災報知器の真下の席だから、よけい人目が気まずい。
 ひそひそ話が耳に障るほど、困惑に吐き気がする。どうすればいいんだよ、と秘かな泣き言と共にストーブを横切り、結浜の手を振りはらえずに教室をあとにした。
 三学期が始まって、二週間が経とうとしていた。冬休みをはさめば落ちつくかと思っていた結浜は、むしろ脈を見つけたように俺に接近するようになっていた。はっきりはねつける度胸も持てず、紐でつながれた犬みたいにずるずる来ている。
 彼女を拒まないのは、自分にストレートの見込みがあるからではない。その気はない。でも振ったら傷つけて怨まれそうで怖い。好みではない男に言い寄られているのと同じだ。言わなくても彼女が悟ってくれたら、と思っている。けれど、そんな都合のいいことはなく、俺の沈黙はいいように解釈されていた。
 根のない優しさの残酷性は分かっている。いざとなったら裏切る優しさなんて最低だ。賢司や家族、弓倉でその刃渡りの威力を知った。なのに、こんなふうに、俺は彼女と中庭で遠足ごっこなんかしている。
 天気はいいものの、芝生に吹きつける風は冷たい。吹き飛ばされる砂のように体温が奪われ、箸を持つ手がおかしくなりそうだ。しかし、教室で向かい合って食べようとは確かに俺も思わない。そうでなくても、俺は男も女も見境ない無節操野郎になりつつあるのだ。
「あ、今日は大丈夫だったんだ」
 結浜の声に、はたと右隣りを見る。彼女は俺の弁当を覗きこんでいる。風に揺れる髪に、あの香りがした。
「え」
「ほら、昨日は」
「あ、ああ」
 昨日は弁当に砂がまぶしてあり、いいと言ったのに結浜は弁当を半分よこした。女となんかどうせうまく食えないよ、とゲイというより小学生のような感じで思ったものだ。彼女は、寒さのせいか不器用な指先で、いつもより高さのある弁当を開く。
「何ならと思って、塩沢くんのぶん作ってきてみたんだけど」
 結浜に横目をして優柔に咲った。いつか機会を見てやられると思っていた。
「無駄になっちゃった。まあそれでいいんだよね。望永くんたち、ほんと許せない」
 結浜をちらりとした。中庭には人はいないこともないが、授業中に進んで手を上げる奴ぐらい少ない。
「そんなこともないんじゃない」
「えっ」
「君は君で、俺が男のほうなこと鬱陶しいだろ」
 結浜が目を開くのが、視界に端に映った。俺はからあげをはさむより突き刺して口に押しこむ。冷凍食品でべたべたしているけど、胡椒はちょうどいい。結浜は口をつぐんでうなだれ、俺はからあげを飲みこんだ。
「俺のこと、まだ──」
「ごめんなさい」
 さえぎられた言葉と一緒に、大根の煮つけを刺そうとしていた手を止める。
「私、迷惑だよね」
 結浜は開いてもない弁当に瞳を垂らしている。俺は腕自体を静かにおろす。彼女の頬にかかっていた髪が風になびく。
「分かってるの。当たり前だもん。雅美まさみたちには押しちゃえって言われてるから、そうしてみてるけど」
 何と言えばいいのか、持て余した視線を前方の無数の窓に向ける。
「ごめんね、好きになっちゃって」
 結浜の横顔に向き直った。彼女のかぼそい睫毛やこわばった頬に、嘘はなさそうだった。俺はまぶたを緩め、箸につらぬかれた大根を見つめる。
 好きになってごめん──そっか、と感慨深くなる。だから、彼女に残酷になれないのかもしれない。気持ちは伝えていなかったけれど、似たようなものだ。賢司は、俺を、受け入れる対象じゃないと見て、たやすく裏切った。
 それでも、彼の心理にも一理あるかもしれないと現実を認めた。今はあいつのことは何とも想っていない。本当に結浜を思いやるのなら、彼女の強さを信じて拒絶するべきなのだろう。
 俺のためでもある。ゲイであることをとやかく言われるのは、許せないけど、否定もできない。しかし、男も女も節操がないなんて、憶えのないことを言われるのはごめんだ。
「迷惑だって思ったら、ほんとにきちんと言ってね」
 右隣に視覚を取り戻すと、結浜は弁当箱のふたを取っていた。弁当を包んでいたナプキンや、彼女のプリーツスカートの裾もはためいている。
「言われたら私、ちゃんと近づかないから」
 足元に目を落とした。爪先に枯れた芝生がかかっている。
「怨んだりもしないし。ほんとに、早く言ってね。長引くほど、期待したくなっちゃう」
 枯れた芝生は、すぐ風に流れていった。
 ここで、きっぱり言ったほうがいいのだろうか。だったら、近づかないでくれ。でも、何だろう。迷惑。その言い方は違うのだ。押しつけられないなら、迷惑だとかは言えない──と、思う。気がする。
 ため息がうっすらと白い。
 うまく言えない。つらいな、と思う。いつか同性愛が認められたら、こういう問題が当たり前になるのか。異性愛者が同性愛者に恋をしたら。けれど、考えれば、同性愛者はその反対で、異性愛者に恋をして気持ちを傷つけられることを、どうしようもないと認めてしまっている。
 その痛みが、平等になればいいのに。まだまだ社会は、どちらせよ“被害者”は異性愛者で、“加害者”は同性愛者と捕らえるのだろう。俺が強気になれないことにも、そんな引け目がないとは言えない。
「君が満足するまでいていいよ」
「え」
 寒風が頬をたたいている。向こうの誰かにこちらの話し声を聞き取られることはないだろう。
「俺は君にそれぐらいしかできないし。嫌いってわけじゃないんだ。ただ、女の子だと、どうしてもダメなんだ」
 結浜はフォークでごはんをすくう。俺は銀杏切りの大根を口に運ぶ。冷蔵庫に入れておいたみたいに冷たい。
「女といると、気持ち悪くない?」
 いつもの味つけを飲みこもうとしていた俺は、咲いそうになり、口を抑えてそれを飲みこむ。
「別に、いるだけなら。押し倒されたら嫌だけど」
 結浜は俺を向いてわずかに咲う。
「応えられないのは、君が迷惑だからってわけじゃない。自分を責めることはしなくていいよ」
 結浜は俺を見つめ、こくりとするとごはんを口にした。
 悪い子ではない。彼女を名目上の恋人にすれば。そんなふうに思うときもある。だけどそれは利用だし、どうせそれでも問題は片づかない。俺が本当に両刀使いだということになるだけだ。
 今この状況は“恋人ごっこ”で、残酷なことに変わりはない。この子を抱きしめてもいい気持ちには、絶対になれない。
 いつだって、何もかもがそうだ。俺がもっと強ければ。
 ドブの底をさらってきたように澱む胃に、無理に弁当を押しこんでいく。
「じゃあ俺、このあと委員の仕事あるから」
 弁当が空になると、そう言い置いて花壇を立ち上がった。今日は水曜日だから、この言葉は本当だ。すっかり膝も指先も凍結している。シャーベットにされた果物の気分だ。
 一度教室に弁当箱を置きにいくと、忍者に背後を取られたように肩に影がかかった。何気なく振り返って、頬が引き攣る。
 舞田だ。
「何なの、あれ」
「は?」
 教室はストーブで暖かかった。ほぐれる指で手提げの口を開き、弁当箱を入れる。
「見てたの」
「あとで聞くよ。俺、」
「塩沢くんは男の子が好きなんでしょ。なのに、何であんな子と仲良くするの」
 首を捻った体勢のまま、ぽかんとする。ぱっちりした瞳を燃やすこの女の頭に、俺はどうも混乱を感じた。何なのだろう。どんな身分で、俺にそんな言いがかりをつけるのだ。
「私許せない、あんなの。塩沢くんは自分に嘘をついてるわ」
「舞田、俺──」
「あの子のこと、何とも想ってないんでしょ。ほっとけばいいじゃない」
 俺は焦れったく眉間をよせ、耳の遠い老人に何度も同じ言葉を言い聞かせるようないらだちに襲われてくる。悪気はない相手には、ぶつけるわけにはいかないと分かっている。けれど、どうしてもたぎってくる怒りだ。
 秒針が動いているのが見える。
「君は俺の恋人?」
「そんなっ、」
「じゃあ、俺が何しようとほっといてくれよ」
「ほっとけないわ。だって、弓倉くんに捨てられたからって女の子に走るなんて、」
 はっと息を硬直させた。その俺の顔に、舞田も口を止める。
 女の子に、走る──。
 俺は芯熱の発火に耐えられなくて、その場を離れようとした。けれど、舞田がフローラルの髪を乱して呼び止めてきて、振り返らずに喉を押し殺す。
「女になんか走らない」
 それでも、教室は俺の言葉にスポットライトみたいに注目している。上の空のざわめきに、苦い声は嫌でも目立ってしまう。
「君は何にも分かってない」
「分かってるわ、」
「じゃあ、何で俺をこんなに苦しめるんだ」
 舞田の睫毛が、大きく上下に分かれた。
 時間がない。教室に入ってきたとき、すでに塚谷のすがたがなかったのは見取っている。俺は彼女にも教室中の好奇にも目をつぶって廊下に出ると、図書室に直行した。
 言ってしまった。でも──もう、いい。彼女には嫌われたほうがいい。ゲイは女性蔑視をしている。そう思いこんだ女の子たちが、敵になっても構わない。すれちがう肩を勘でよけ、雑音を切りながら唇を噛んで涙をこらえる。
 あの憶測が、俺のプライドを両断した。失恋マークの引き裂かれたハートみたいに。弓倉に振られて女に走る。両刀といううわさは聞いていたが、そんな妄想までかきたてられているのは初めて知った。
 何でいつもこうなのだろう。どうして必ず悪くなるのだろう。運命はそんなに俺の心がずたずたになってほしいのか。
 静かな図書室に思わず慌ただしく駆けこみ、五分遅刻してやってきた俺に、塚谷は冷たい瞥視をくれただけだった。俺がそういう人間だとは承知している。そんな眼だ。
 スツールにどさっと腰を下ろすと、受けつけのノートに突っ伏した。が、そうするとまぶたの中がふくらんできて、慌てて身を起こす。図書室の暖房に、だんだん気分がみじめにほつれてくる。
 俺はいつも感情に流されている。もっと強い人間だったら、ゲイであることもうまくあつかえていた。誰も何も悪くない。悪いのは俺の弱さなのだ。
 死にたい。その勇気が欲しい。毎日嫌なことばかりで、ひたすらその忌まわしい記憶を怨んでいる。
 蒼く血管が通る手首を見た。今俺を生かしているのは、もはや恐怖のみだ。そんなものに支えられた命など、斬首したほうがいいのは俺が一番分かっている。

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