非常階段-68

何も感じたくない

 昨日、雪乃ねえちゃんに結浜のことを訊かれた。ただの友達だ、と言おうにもそんな一応は持続性のある関係として言っていいのか、答えに迷っていると、「せめてどっちかにしてよね」と俺の肩を押し退け、雪乃ねえちゃんは洗面所に入って鋭くドアを閉めた。
 ボディソープの匂いと迷彩柄のフリーツの上着に包まれた俺は、室内では白くない息をつくと、部屋に閉じこもって雪乃ねえちゃんの感電間近のいらだちについて考えていた。
 大きな要因は、受験だと思う。二月に入って、受験まで数週間を切っている。正直、俺には受験で切羽詰まる気持ちなんてぼんやりしたものなのだが、まあ神経症にもなりかねないものなのだ。休みが終わって、学校が始まるだけでいらつく雪乃ねえちゃんが、それに行くため努力なんかしなくてはならないことをお気に召さないのは、弟なので分かるというより知っている。
 そして、要因は受験だが、とどめは俺だ。あの人も、嫌だと思うならやめてしまえばいいのだが、何かに縛られて結局投げ出せないタチだ。ならばせめてほかのことにはわずらわされたくないのに、俺への中傷が幼児の食事みたいに自分にも飛び散ってくる。
 雪乃ねえちゃんが俺の姉というだけで、例えば女の子たちから疎まれるとか、たとえば好きな男に引かれるとか、そういうのをされているところを想像すると、死刑にあっても足りないぐらいの申し訳なさを感じる。そう、本当に、こういう罪悪感は恐怖や憎悪より、よっぽど俺にこの階段を降りたくさせる。
 今は六時間目の途中だ。空は青と淡い白の晴れ間で、風は強くなくも、空気は芯から冷え切っている。階段に脚を放って座りこんだ全身は、化石みたいになって凍りついていた。ひとりで非常階段で昼食を取ったあとから今まで、ずっとここでサボっている。
 今日こそここを降りてしまおうかと真剣に考えていた。真剣なわりに、二時間近くも悩んで潔くないかもしれないが、降りようかな、なんてぼうっと考えごとに迷いこんでいるうち、気持ちが胸腔に収まりきらないほど腫れ上がってきたのだ。たまに流れるきめ細かい風に前髪が揺れる。その奥で瞳がずきずきと膿んでくる。
 降りたって、家には帰れないのだけど、だからこそ降りてどこかに消えてしまいたいと思う。とうさんが受け入れてくれない。かあさんが分かってくれない。姉貴は俺を突き離そうとする。そういうのが、我慢できないというより、つらくて哀しかった。
 密室で酸素を抜かれていくような絶望に、めまいがする。これが俺なのに、誰も許そうとはしない。だから、自分が信じられなくなる。恥ずかしくなる。破壊的にどこかに逃げたほうが、自分の精神には建設的である気がした。
 根を張ってしまった木のように、どうしてもここにはりついておかなくてはならない理由はない。もちろん心的にはあの家庭に根づいている。だが、あくまで心的だ。犬みたいに紐でつながれてはいない。心をちぎって根なし草になり、再びどこかに落ち着けるか保証はない。それでも、何も恐れないことで、非常階段から日常生活を降りれないこともない。
 けれど、どうしてもそんなに強くなれない。行った先で何か光があるならいい。あてもなく突っ走って、これ以上の傷をこうむるのはごめんだ。
 自分が苦しみ足りないのか、傷つき過ぎているのかは分からない。とにかく俺は、切断された根から血があふれすぎるのが怖い。根をちぎって逃げても、行き先で傷口を癒やせなければ、出血多量で死ぬのは同じことだ。俺は、自分の血がどのぐらい持つのか自信がなかった。
 それでも万一、俺がどこかに逃げたとする。あるいは死ぬ。とりあえずここから消える。みんなどう反応するだろう。その逆睹が、爪で黒板をひっかいた音を聞いたような気分にさせる。
 何でこんなに望まれない存在なのだろう。誰が何と思おうが、生きていきたいから生きていく。逃げられないならそう思えばいいのに、やっぱり、他人の目を気にしないのと、誰にも必要とされないのは違うのだ。
 俺はいつも、自分は弱い奴だと言っている。でも、本当にそうだろうか。そう思うときもある。脆弱は脆弱だけど、ずうずうしさやふてぶてしさなら持っているのではないか。良くない強さだが、この際、そういうものでも引っ張り出したい。そして非常階段を降りる。
 降りるべきなのだ。自分のためにも、周りのためにも。自分を弱いことにして何かから逃げるのは、詐病のようなものだ。俺はそんなにずるい奴じゃない。せめてそう言い張るのなら、ここを降りてみせないといけない。
 寒さで麻痺しきっていた脚は、立ち上がろうとしても折れない棒のようで、よく力が入らなかった。それでも、手すりにつかまり、体重を預けながら腰を上げる。手すりは錆びているが、体重を預ければ崩れ落ちそうな代物ではない。静かな風に髪や服が揺れる。やっと自分の脚で立てた俺は、一応弁当箱を取り、滑り止めの模様が入った金属の下り階段をじっと見下ろした。
 無論、今日いきなりどこかに消えることはできない。まず、ここを平然と降りれるようになる。そしてだんだん学校なんかサボるようになって、帰宅もサボるようになって、いずれこの町を落ちこぼれていく。
 一歩踏み出せば簡単だ。のぼろうとしているのではない。降りようとしているのだ。
 特別な世界に行けば、それはそれで救われる。つまり、カミングアウトした芸能人とかだ。でも俺は、きっとそうなれない。だから転落する。そちらのほうがずっとたやすい。普通も日常もやめて、俺はどこかのドブで好き勝手に──
「ここなら誰もいないわ」
 いざ足を踏み下ろそうとした瞬間、突然そんな声がして、万引き現場で肩をたたかれたみたいにぎくっと呼吸をすくませた。
 何。何だ。幻聴?
「だって、誰かに聞かれるわけにはいかないわ、仮にも私は先生だもの。しかも、ここ学校よ」
 幻聴ではなさそうだ。下に聞こえる。当然、足どころか身ごと引き、地面にかがみこんだ俺は下を窺った。聞き憶えのある声だ。
「あっ、いいのよ。私も空き時間で、車でぼんやりしてるとこだったの」
 真下には誰もいない。左手の正門側にも人影はない。
「そりゃ、仕事あるわよ。でも今はストレスが多くて、息抜きがどうしても必要なの」
 右手を覗き、全身が痙攣しそうになって、どうにか冷たい地面に軆を抑えつけた。第二棟の陰でケータイを耳にあてているのは、榎本だった。陰、とはいっても俺からは丸見えだ。
「話したでしょ。非行の生徒も不登校の生徒もいるの。──ううん、今はそんな生徒がいないクラスのほうがめずらしいけどね」
 何だ。自分の生徒の陰口か。先公は生徒の前を離れればそんなことをしているのか。相手は誰だろう。友達だろうか。
「ほんと疲れるわ。──うん。そう。そうね。お互い様ね」
 しばらく相身互いのような話が続き、そっと体勢を楽に直して鉄臭い地べたに這いつくばった。音が立たないよう、呼吸にも身動きにも慎重になる。その話し声がよく聞こえる通り、授業中も手伝ってここは静かなのだ。
「え? ──ああ、いるわよ。ほんと困ってるわ」
 くたびれた話をわりあい楽しそうにやっていた榎本の声が、突如暗転する。波打った髪が風に吹かれるのが見えた。
「そうなのよ。ああいう生徒に限って頑固なのよねえ。こっちの迷惑も考えてほしいわ。生徒にはいい子もいるのよ。──ほんとに。でも、みんなかわいい天使とは言えないのが本音だわ」
 眉が寄って、何となく嫌な予感が鼓動が打つたび広がっていく。その黒い染みは吐き気のような拒絶感を催させ、聞かないほうがいいと第六感が激しく訴えてくる。
「こっちの都合を分かってくれないの。生徒ってそんなものだけど、あの子は特にだわ」
 やばい。聞かないほうがいい。聞いたらまた消えない傷がつく。
「きっとそんな子だから、そういうおかしな方向に走ったんだわ」
 真っ赤な警報がひるがえり、あの肌寒い雨の日の屋上前での陰口がよぎる。
 でも、どう動けばいい?
 静かに? 素早く?
「最悪よね。何で分かろうとしないのかしら。自分の生徒だとしても、ぞっとするわ。男なのに男なんて!」
 狼狽える隙に突き刺さった言葉に、視界が感電したように白と黒に止まった。手すりと、地面と、榎本のすがたが版画のような白と黒に平面化する。
 男、なのに、男──……
 鼓膜がミイラのように乾涸びる気がした。だって、虚しい風の音しか聞こえない。緊迫していた力が急に、憑き物がどろりと取れるように流れ出て、地面に突っ伏した。まさにあの日、屋上からここに駆けこんで崩れ落ちたときのように。
 弱く震えた熱い息遣いが、鉄の臭いをともなって頬に返ってくる。剥かれていた瞳が次第にだるく死んでいく。粉々な心でうずくまって、おののく以外は、壊れた機械みたいにただそこにあるだけになる。
 涙は流れなかった。それぐらいショックだったのか、流す涙もなかったのか──チャイムが鳴り、榎本は慌てて相手に断るとケータイを閉じ、奥へとまわって消えていった。その背中を、腕にうずめた顔から横目で見つめ、冷気に硬くなっていた唇を噛みしめた。
 あんな奴、望永や舞田以下だ。
 自分のために、涙ぐらい流したかった。だが、どうしても胸は苦しく詰まるより真っ白にぱさついていた。その、感覚を絶した空白感は、けして涙を絞り出そうとはしない。かろうじて顔を腕に埋め直すと、冷たい日陰の中、あとはもう長いこと動くことができなかった。
 図らずも榎本の陰口を盗み聞きした夜、俺は風呂を上がったあと、灰色っぽい電燈で鏡の中の自分を眺めていた。ドライヤーで水気を取った髪はふわついていて、ラグランの寝巻に迷彩柄のフリーツを羽織っている。
 いつもの匂いにほてった肌は、冬の乾燥で突っ張る上、早くも冷えこんできていた。時刻は二十時半頃だと思う。ほかに家の中にいるのは、かあさんと雪乃ねえちゃんだ。
 そう、ここは家だ。今日こそ非常階段を降りると思ったくせに、あれにすっかり意気ごみを挫かれて、結局何もしなかった。まあほんとに降りれてたかは分かんないけど、とも多少は思う。
 あのあと、どうにか歩行機能は取り戻すと、まだいくらかクラスメイトが残る放課後の教室に立ち寄って手提げを取り、そのまま帰宅した。下校中はあの榎本の言葉を反芻して傷をわざわざえぐっていたので、忌まわしい嫌悪感以外、何も記憶にはない。家に帰ってもベッドで昏睡していて、かあさんに呼ばれて夕食を取ったあと、入浴してこうしている。
 今日の榎本の言葉だけではなかった。いろんな刃物が俺の胸には突き刺さりっぱなしで、それらが速すぎる回転木馬に酔うようにくらくらと、俺の気分に吐きそうな色を塗りたくっていく。カセットテープを巻き戻すみたいに、脳裏に疼痛がさかのぼって、奔流している。
 ぞっとする。されて仕方がない。別室登校。カウンセラー。捨てられて飢えてる。問題児。頼まれた。あんなのイジメじゃない。まともな考えはできない。吐き気がする。失せろ。頭をぶつければ治る。否定するのが礼儀。治す。失望させる息子じゃなかった。謝れ。気色悪い趣味にかまけてるから。変態。死んじまえ。病気。日直だったから。オカマ。この席はホモ専用です。こういうのを同性に向けるのも──
 きつく目をつぶって、洗面台でこぶしを握った。目頭に熱が食いこんだかと思うと、目尻から雫があふれて頬を幾筋も流れていった。喉に伝って襟首に染みこみ、顎から落ちて手の甲に砕ける。まぶたの裏になおも飛び散る血痕に、首を垂らして肩も膝も小刻みに震わせた。喉の奥で、声にならない声が苦しくかすれる。
 無数の穴にこだましつづける痛みが、猛烈につらかった。せめて、紛れて忘れることができればいいのに、俺はどれがどれだかこんなに憶えている。それがいつ頃だったかははっきりしないのもある。でも、それを経験した事実は、絶対に薄れない。そのときの感情も鮮明によみがえり、耐えられないほどだ。どうして、嫌な記憶はこうも執拗なのだろう。
 つらい経験がいくつも積み重なるより、それを忘れられない重みのほうが死にたいと思わせる。どこかに消えてしまいたい。感情を感じるのがたまらない。こんなことは考えたくないのに、ささくれた神経に彷徨う心は、今、自分がこうなったことを怨みつづける。
 死にたい。自分の臆病さが嫌いだ。俺みたいな奴、軽蔑されて当然なのだろうか。俺がゲイでも、強くて幸せそうだったら、もしかして誰も何も言わなかった?
 死んでしまえ。でなければ非常階段を降りるのだ。自分のためにそうすべきだ。
 このままここで生きていても、幸せにはなれない。何も始まらない。終わって終わって、終わりつづける。どん底に来たと思ったら、いつだって、さらに思いがけない悪いハメに陥る。
 俺が生きていってもよさそうな場所が、世界にいくらかあるのは知っている。俺はそこに行き、みんなの中からは消えてしまったほうがいいのだろうか。
 じっ、と不意に電燈が低い音を立てて我に返った。鏡の中の俺は、いつしか頬をぼろぼろに汚して瞳を真っ赤に潤ませていた。口の中には塩味が忍びこんでいる。胸のあたりは、泣きじゃくる人の頭でも抱いてやったようだ。熱い涙が止まると、その濡れたところは冷たくなってきた。それでも俺は頬をぬぐわず、鏡の中のみじめな泣きっ面を眺めていた。
 自分は何かが、余計な気がした。何かを得るでなく、何かを捨てなくてはならない気がした。その何かは分からなくても、俺は何かに妨げられている。
 だって、昔はうまく記憶を処理して管理できていた。俺は失くしたのではない。背負ったのだ。それが俺の背骨には重すぎて、できるはずのこともできなくなっている。
 何を背負ったのだろう。傷だろうか。過敏性だろうか。やっぱり、この指向への罪悪感だろうか。

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