修学旅行【1】
二月の半ば、実力考査の直後に修学旅行があるのをすっかり忘れていた。
言うまでもなく、ちっとも楽しくなかった。班決めの時点で疎まれて、人数あわせの班に継ぎ足しのかたちで拾われた。行き先がテーマパークなどでなく、合宿じみたスキーだったのがゆいいつの救いだ。つまり、あんまり班行動とかは関係ない。くだらない記憶が増えただけで俺は帰ってきて、いま代休でこうしてベッドに伏せっている。
周囲に逆らうか、自分に逆らうか、俺にはどちらかしかなかった。自分に逆らうとは、女の子に走るということだ。自分を恥じ、偽り、否定する。
今、俺には手頃な女の子もいる。女の子とつきあってみせていれば、何も言われなくなるかもしれない。そして頃合いを見計らって言ってやる、ホモなんてお前らが勝手に言ってたことだろ。そしていつか結婚し、子供を作る。
高速道路でほうき星のように飛んでいく車を見おろし、そういうのを考えていたのを憶えている。行き帰りのバスでは、俺は榎本の隣にはじきだされていた。おかげできっちり背後の騒ぎにも参加させてもらえず、窓辺に頬杖をつき、流れる景色か運転手のハンドルさばきを眺めるぐらいしかやることはなかった。
修学旅行は、ログハウス仕立てのペンションに二泊三日だった。俺はスキーなんてしたことはなくて、特訓組だったから、実際ただの合宿だった。自由に滑れるほうも、中級以上には行ってはいけなかったらしい。凍てつく厚い雪にぼたっと何度も転んでいると、自分の人生を体現しているようでみじめだった。
部屋は男女別で、俺は騒ぎに加わらず窓辺で星を見ていた。どうせ、話題は好きな女のことだの隠し持ってきたグラビアについてだのだったから、俺は加われなかった。暖房に曇ったガラスをこすると、冷たく澄んだ空気に星が水飛沫のように散らばっている。思えば、三日間の中であれだけは本当に綺麗だった。
「塩沢くん」
二日目の朝、窓際のテーブルでセルフサービスの朝食を取っていると、声をかけられた。顔を上げるとトレイを持った結浜で、彼女は朝陽に負けない笑顔を向けてくる。あやふやに咲い返した。ちなみに私服が許されていたから、俺も彼女も互いにすがたが見慣れなかった。
「ここ、いいかな?」
「友達は」
「相席してこいって追い出されちゃった」
「……はあ。あ、じゃあ」
四人がけのテーブルで、結浜は正面に腰かける。ゲレンデが見渡せる食堂で、朝陽を受けた雪のきらめきがけっこうまぶしい。周りのみんなも自由に友人と食事を取っていた。結浜は銀のスプーンを手に取る。
「昨日は話す機会がなかったね。塩沢くんって初級組なの? 中級組?」
「初級だけど」
「経験ないんだ?」
「まあ」
「私は、家族と行ったりしてたんだよね。今日から友達に教わったりするのもありなんだよ」
「らしいね」
「私と一緒にやらない?」
さく、とバターを挟みこんだ香ばしいロールパンを口にしていた俺は、彼女を一瞥してちょっと咲った。その笑みは結浜には深長に見えたのか、湯気の立つスクランブルエッグをすくいかけていた手が止まる。
「何?」
「いや──。俺と行動一緒にしすぎると、あとで困るかもよ」
「あとで」
「俺たちは恋人同士ってわけじゃないんだし。いつかは他人に戻るんだ」
「………、」
「新しい好きな奴ができたときのためにも、俺に近づいてた事実は残しておかないほうがいいかもよ」
手を下ろした彼女は、光暈のような白い光の中、俺を見つめる。
俺はロールパンを小さく噛みちぎった。俺はこれとわずかなスクランブルエッグ、コーンポタージュスープしか持ってきていない。結浜はそれに焦げめのついたハムとレタスのサラダもつけている。
「私が迷惑なの?」
俺はロールパンを下ろして、もう少し咲った。
「男に告白されたことってないの?」
「えっ」と結浜は暖房が効いていても広さで肌寒いここで、頬を染める。
「な、ないよ。そんなの」
「でも、そういう奴いそうだ。そういう奴には、俺、嫉妬されてるのかな」
「いないってば」
「そういう奴に突っかかられてきたら、どう答えればいいか分かんないや。男のほうがいいくせに、何で結浜といるんだって。そいつは怒るよな」
結浜は所作を消え入らせ、俺の手の中のロールパンを胃におさめた。おっとりした匂いのコーンスープを舌を気にしてすする。結浜は大きなため息をつくと、スクランブルエッグを口にしてごくんと投げやりに飲みこんだ。
「私のほうが、男の子たちに嫉妬する」
俺は彼女に顔を上げる。
「塩沢くんに愛される権利があるんだもん」
結浜はハムを一気に口にいれた。俺の取り留めのない想像は、彼女をヤケ食いの気分にさせたらしい。
「どうしても、男の子にするようには、私にできないの?」
結浜を見つめた。言いながらも、彼女は俺の答えを待たずにスクランブルエッグを食べている。
どうしても──。俺はそっとカップを置くと、静かな口調で切り出した。
「今日の夜はレクリエイションだろ。抜け出すのは、たぶん簡単だよ」
結浜は口を止め、俺に目を向けてゆっくりと喉を飲みこんだ。その驚きの瞳を俺は冷静に見つめ返す。
「試したら納得するんだろ。俺も自分を試したいし」
「え、あ、あの──でも、今日」
「そう」
「あ、あっちに帰ってからでも」
「この修学旅行中にケリつけろとか、友達に言われてるんじゃないの?」
図星だったのか、結浜は口ごもってうつむいた。俺は家のよりぱさぱさしたスクランブルエッグをすくう。
そのあとは無口な食事だった。結浜がちらちらとこちらを盗み見てくる。これは彼女のためというより、自分のための賭けだ。卑しい賭けだった。
予定通り、その夜はみんなホールに集まり、くだらないレクリエイションをさせられた。俺と結浜は雑多なホールを抜け出し、冷気に真っ白な息がくっきり浮かぶ真っ暗な外に出る。部屋はどこも鍵をかけられているのは知っていた。俺たちはゲレンデに行き、リフトや両脇の林でライトアップされる中でナイトスキーを楽しむ酔狂を横目に、木の影に潜りこんだ。
「寒い?」
言葉のたび、息が白い。「少し」と結浜は答え、「少しか」と俺はちょっと咲う。土と木と雪の匂いが混ざっているのが、薄れゆく嗅覚でも分かる。
「塩沢くん、ほんとにいいの」
向こうの物音は聞こえても、遠くだから衣擦れの音も響く。俺はいつものスニーカーではない、スエードのブーツっぽい靴を見つめた。「うん」とうやむやに答え、頭上からもみの木越しに降ってくる橙色の光で結浜を向く。
「榎本にさんざんこれを治そうって言われて、俺はいつも思ってた。これは治るとかのものじゃないんだって」
結浜は俺の瞳を見つめてくる。俺が見ているのは彼女の睫毛だから、視線は重ならない。
「治せるんなら、一番治したいのは俺だって」
「塩沢くん……」
「でも、治療とか、そういうの試したんじゃないし」
そんなに狭いわけでもないのに、膝を抱えて視線を落とす。ベージュのスエードは、土と雪の染みに汚れている。
結浜が心持ち身を寄せてくる。さらりと髪の音が聞こえ、そちらを一瞥した。彼女もうつむいていて、頬に髪がかかっている。
沈黙が続くほど、軆が凍えてそれどころではなくなるのに、お互いそれ以上動けなかった。遭難したみたいに、木陰で雪の少ない地べたに座りこんでいる。
そのうち、頭が痛くなってきた。指先の感覚も狂ってくる。たまに吹く風は、冷たいより痛い。
凍死しにきたんじゃないんだよな、と俺は整理をつける息をつくと、手を持ちあげて彼女の髪に触れた。
結浜の肩が小さく揺れる。男。男にするみたいに。でも、男ともこうしたことはない。湿った瞳が、橙々の光で見取れた。たとえば、これが賢司だったら。いや、ダメだ。あの瞳は今でも覚えているけれど、だからどうということはなくなってしまった。とにかく、この相手を俺の好みの男であるようにあつかう。
「塩沢くん……」
だが、ふと女の子の甘い声が耳に震え、はたとまばたきした。すると、俺のぎこちない指は結浜の、女の子の髪を耳にかけていた。
女。そうだよな。いや、でも、俺は女を男みたいにあつかえるかやっているのだ。男相手だと想定していていいのだろう。たぶん。そう思わないとダメだ。女の子と見つめあっている現実のままでは、気分は白けている。
息を吐き、女にも男相手みたいにやれるんだ、と言い聞かせた。ちぐはぐな言葉に思えたが、そういうことだ。男相手にそうしたいと願っていることを、女相手にする。それだけだ。
抱きしめて口づける。何だったら、その先もやる。なぜ、何が、“できない”というのか。思いこみだ。できる。ここで証明してやる。
寒さに震える指で、柔らかな線の頬をたどった。線は柔らかいが、その弾力は凍りつきかけている。でも、俺に瞳をそそがれているとわずかに熱が回復し、その暖かみは俺の指先もかすかにほぐした。
俺は息を飲みこみ、もう一方の手で彼女を引き寄せて抱き寄せる。防寒にふくらんだ軆は、力をこめて抱きしめると、そのもろい細さを感じさせた。男とはぜんぜん違う軆つきだ。肩は腕におさまり、腰はまろやかに細く、何より胸のふくらみが胸板に伝わる。
彼女の吐息が、すぐ耳元にこもった。もうちょっと抱きしめてみて、不意に眉を寄せてぎゅっと目をつぶる。嵐の気配のように、焦りみたいなものがせりあげてきている。
だって、違うのだ。よく分からないが、何か違う。だから何なのだ。何も感じない。どうしてだろう。こんな軆、別に腕の中に取っておきたいとは思わない。できればくっつきたくもない。俺が欲しいのは、これでは──
でも、その泣きそうな焦りは抑えこみ、軆に隙間を作って結浜を覗きこんだ。彼女の潤んだ瞳が、橙色の電燈を水月のように揺らしている。俺はまた彼女の頬にかかってしまった髪を梳いてやった。
もう引けない。彼女の顔に顔をかぶせ、細い軆の硬直を腕に受け止めた。
その瞬間のびくんという硬直が、俺にはっと動きを止めさせた。それで、気がついた。彼女の心臓が激しく高鳴っている。ぶあつい服越しでも分かる。髪を梳いてやって、触れた頬も熱かった。
でも、俺の頬は、心臓は──
「……塩沢くん?」
睫毛を伏せかけていた結浜は、いつまでも来ない俺に目を開いた。俺は唐突にあふれかえった羞恥に視線を合わせられず、軆を離して自分の膝を抱えた。
「塩沢くん──」
「ごめん」
「えっ」
「ダメだ」
「………、」
「やっぱりダメなんだ」
俺の苦しく絞り出す声に、結浜の言葉は続かない。何とも言えない沈黙に、ゲレンデでスキー板が雪を切る音が抜けていく。初めから発熱していなかった軆は、もはや、半分神経を毒されていた。
「どきどきしないんだ」
「え」
「君は、すごくしてる。俺はしてない」
舌まで麻痺しかけていて、苦くすりつぶれた声は自分でも聞き取りにくい。
「君とキスできたら、俺は嬉しいかもしれない。女ともキスできたって。けど、それって、キスして感じる喜びじゃない」
結浜は何も言わない。彼女のほうは見ずに顔を上げると、零下とぶつかる白い息がだるく揺れた。
「ごめん。俺は男としかダメなんだ。そんな奴とは、君だってしたくないだろ」
「私は、」
「君が良くても、俺が嫌だ」
ここはきっぱり舌を使っていうと、結浜は言葉をつまらせた。俺は全身が仮死状態になる前に立ち上がった。
「もうやめよう。俺の気持ちは分かっただろ。今から俺には近づかないでくれ」
彼女の腕を取って、ごく事務的に立ち上がらせる。やはりこんなふうに女の子に触ることに、照れも何も感じない。
立ち上がらせて、結浜の頬が橙色の光を反射したのが見えた。何秒か押し黙ったあと、彼女の腕を引いて木陰を出る。
「ほんとにごめん。君のこと傷つけたくないとは思うけど、ダメなんだ」
「私は何をすればよかったの?」
「どうしようもないんだ。君が女なのは変えられない」
「軆が男だったらいいの?」
「………、心にも性別があるんだよ。君の心は女の子だ」
自分でも詭弁に聞こえたが、そうなのかもしれない。そうだと思いたい。でなければ、同性愛者は軆しか見ていないということになる。それは違うと思うから、軆とは切り離されて、心にも性別がある。
ホールでのレクリエイションは終わっていなかった。俺と結浜は、入口で別れた。正確には、俺が入口に彼女を置き去りにした。俺はぼってりした温度の暖房の元で、妙なゲーム大会が終わるまでうずくまっていた。誰も誘おうとはしないのがこのときはさいわいで、軆はどうにか解凍されていった。
冷酷なことをしたと思う。でもどのみち、あれは俺がいつかは取らなくてはならない態度だった。あれ以上期待させるのは、彼女にも良くない。
俺はゲイで、女は求めない。今度またこんなことがあったら、そのときはきちんとしよう。同性愛者である自分に曖昧だから、こんなことになったのだ。
もっと強くならなきゃ、と騒ぎ合う同級生たちを見つめて俺は吹っ切る息をついたものの、このことはこれでは済まされなかった。
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