変なやつ
どうせ、やっても無駄どころか重荷になることなんか、やりたくない。
ちょうど二年前から、何があろうと頑張ってきたけど、つまるところ何の実りにもならなかった。むしろ虫に巣食われ、ぼろぼろに腐り、悪臭だけ残してあとは何もなくなっているみたいだ。俺は今日こそ意を決して日常を断ち、ひいては記憶から逃れるべきなのだと思う。
と、こんな決心を立てるだけなら、共同墓地の墓碑ぐらい立てまくってきた。そして、立てるだけでは行動は制御されないのは、これまででよく分かっている。
俺には決心以上の何かが必要なのだ。勇気だろうか。もっと別のものだろうか。
今日は始業式だ。空では、ミルフィーユみたいに青とたなびく白が織り重なって、縞々になっている。桜の花びらが暖まった風に舞い、楽しそうな生徒とだるそうな生徒の割合は例年通りだ。俺は無論後者に属し、何だかんだ思っても登校している。
新品の制服に身を包む一年生を見ると、言いようもなく胸を絞られた。彼らを見て、はたと自分を見おろすと、知らないあいだにこの制服もくたびれている。こんなになるまで、結局学校に来つづけたのだ。
二年間。信じられないぐらい重たい二年間だった。彼らのようにこの制服がききすぎた糊に堅苦しかった頃には、こんな致命傷を負っているとは思わなかった。
この制服を来年には着終わっているようには、人生にはそのうち終わるということはない。死を除けば。
死以外、何が俺の出血を止めるのだ? 眼前をひるがえった桜をはらい、辛気臭いため息をつく。俺は死ぬまでに何度、こういう無駄な息を吐き出すのだか──
始業式もクラス替えの段取りも去年と同じだった。校長の台詞で、今年は受験生だと気がついた。最悪だ。俺の頭は心気症で急低下したから、きっとかなり厳しいことになる。
低俗な男子校に行けば、日々リンチだ。ランクの高い男子校ならかえってゲイは住みやすかったりするかもしれないが、低俗は明らかにそうはいかない。
今のうちに道を外すか、さもなくば、勉強で現実逃避するかだ。どっちも趣味じゃないんだよな、と内心ぶつぶつしていると、第二棟三階の新しい教室に着いていた。
俺は三年五組の、男女別では出席番号七番だった。担任は、受け持たれたことのない国語教師だ。中年の男で、学校も義理でさえ俺を見放したということか。あんな年代の、しかも男が、ゲイなんか理解するはずがない。
女子の体育の夏里だったらなあ、と少し思っていたのだが、人生がそう都合よくいかないのはこの二年間で承知している。再び榎本か堀川ではなかったのは、いいことだ。だいたいの教師は本日はスーツ着用で、その新しい担任も例にもれず、背広で堅そうにしながら黒板に名前を書いた。
「香野延和だ。今年一年間、仲良くやっていこう」
口調にも顔つきにも堅物さはない。美形というより味が深い感じで、演技派俳優みたいだなとぼんやり思う。
「今年はみんな受験生だな。しかし、そちらばかりに肩肘を張らずに、中学最後の一年間を楽しんでほしい。無理せず、実力に合った道に進めばいいんだからな」
「はーい」と気のいい奴が返事する。とりあえず、口は立派だ。が、口に追いつけない教師がどんなに多いか。ケータイで陰口に走るのもいる。
ひと通り語った香野は、「よし」と教卓の大量の配布物と教科書に手をかけた。
「じゃあ、こいつをさっさと配って解散だ」
「え、自己紹介はー?」
カーテンのかからない窓際側の男子が声をあげ、「やりたいのか」と香野は束ねられた用紙をほどきながら、そちらににやりとする。
「いえ、ぜんぜん」
肩をすくめたそいつに何人かが笑っても、俺はつくえの木目を見つめている。
「三年生で知った顔も増えてきただろうしな。ただし、今日配るプリントに自己紹介カードがある。これに自分のことを書きこんで、今週中に提出するように」
「えーっ」と上がった声を香野は慣れた様子で鎮め、廊下側の列から用紙を配りはじめる。
「名前や誕生日ぐらい、考えなくても書けるだろ。それを今月のあいだは後ろに貼っておくからな」
「小学生みたい」
「どっちもやらせる先生よりいいだろ」
確かに、と笑いさざめく中で、相変わらず俺は笑わない。彼がこれまでの教師と違ったタイプなのは感じた。俺にはどうか怪しいけれど──生徒たちのツボを抑えた物言いで笑いをほぐしながら、香野は早めに終業を言い渡した。
みんな、担任を当たりと捕らえた様子で教室を流出していく。彼は俺の両親と歳は変わりそうにない。たたんだ用紙を重たい通学かばんに突っこみ、分かってくれるわけないよな、とまたため息をつく。
感触はよさそうな教師だが、ゲイとなれば話は別だ。だって、これは親の愛情さえ揺るがせる問題なのだ。やっぱ明日からサボろうかな、と周囲の談笑がいたたまれない滅入った視線を引きずり、席を立ち上がりかけたときだった。
「塩沢って、お前だよな」
突然、そんな声がかかって顔をあげた。そこには見慣れない男子生徒がいた。何だかにやにやとしていて、俺は当然眉間に警戒を表わす。
「……そうだけど」
「ひとり?」
「は?」
「誰かと帰る?」
「………、何で」
「ん、ひとりなら一緒にどうかなと」
やり手のセールスマンのような軽快な口調の笑みに、俺はますます渋い面持ちになった。何を言っているのだ。とりあえず、知り合いではない。眉の弧の具合や瞳の光が悪戯っぽい皮肉をはらんだ顔、骨と筋肉が調和した軆──席を立った俺と、目線は変わらない。その胸元に目をやると、名札はなかった。
「桐島!」
そんな声が飛んできて、彼は入口に顔を向けた。
「お前、何やってんだよ。そいつのこと、知らないわけないだろ」
長髪の奴と連れだった茶髪のその男子生徒にも、見憶えはない。桐島と呼ばれた彼はそいつを平坦に眺め、俺に向き直った。
「どう?」
「えっ」
「俺と帰らない?」
俺は次第に変な顔になってくる。どういうつもりなのだ。物好きなのか。
「桐島っ」
茶髪野郎は女子連中をかきわけ、仕方なく世話を焼くような吐息とこちらにやってくる。
「お前って、ほんとときどき変だよな。分かってねえの? こいつ塩沢柊だよ」
「知ってる」
「ホモなんだぜ」
頬をこわばらせた。桐島は彼を見つめ、「ふん」と楽しそうに笑った。
「だから?」
「え」
「だから何?」
彼より俺がぎょっと目を開く。
何? 何て?
「だいたい長崎くん、君は何を心配しているのですか」
「し、心配って」
「女でもお前の面に惚れるのは希少価値」
長崎のみならず、俺まで唖然とたたずむ。その手ごたえに桐島は愉しげに高笑いし、長崎をはたいたあと、俺に向かって自分を指さす。
「俺のほうがマシだろ」
「はっ?」
「顔」
頬をわずかに引き攣らせ、どう答えればいいのか、その場に突っ立つ。その無反応に、「あれ」と桐島は自分の頬を芝居ぶって気がかりそうにさすった。「ほらほら」というあきれた声で、泡がはじけるみたいに我に返る。
「話をするなら、帰りながらにしろ」
背広の糊の匂いどおり、香野だった。彼は俺たちをまとめて長髪が待つドアへとうながし、俺は流される前に通学かばんを取り上げる。苦笑する香野は、こちらをかえりみた。
「塩沢は桐島と初対面か」
「あ、まあ」
「こいつは一年のときにも受け持ったことがあるんだがな、まあ悪気はないんだ。分かってやってくれ」
「は、はあ……」
桐島は脚に当たりかけたつくえをよけ、首を捻ってきて笑う。
「先生も、おととしと較べると歳取りましたねえ」
「あー、悪かったな。教室に残るならついでに掃除でもしてもらうぞ」
「うわっ、やべえ。行こうぜ、塩沢」
その瞬間、桐島は本当にさりげなく俺の肩をとんとたたいてきた。俺はそれに心臓を突き裂かれたような衝撃を覚えて立ち止まる。桐島は不思議そうに振り返ってきた。
触った。触られた。俺に。何で。気持ち悪くないのか。
汚いと思わないのか。また軽く背中を押されて振り返ると、今度は香野だ。
「掃除したいなら、歓迎するぞ」
ぜんぜん悪意のない、気さくな親しみを持った瞳に動けない。何だ。嘘だ。信じられない。だって──「塩沢」と腕を引っ張られ、前のめりながら目を戻すと桐島だ。
「掃除は当番でもやらないもんなの。行きますよっ」
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