明日も
そうして、結局俺は靴箱までそいつらと降りていった。
桐島の頓狂な発言に、長崎、そして野山という長髪の奴がしょっちゅう顔を合わせている。話題は俺のことなのだが、俺自身は桐島の隣で無言を保っている。会話に横目をしたり、前方や足元を見たりして、留まらない狼狽の中、どうにか思考回路をつないでいる。
この桐島というのは、何者なのだろう。みんなの前ではそうしておいて、影で殴るのか。弓倉みたいな偽善なのか。同情だろうか。同族、すなわちゲイである匂いはしない。まさか本気で俺を偏見していないとか──
いや、そう思って信じ、取り返しのつかない傷をこうむるのはごめんだ。
「本気でそいつと帰んの?」
昇降口には、花壇の香りが春陽に立ちこめていた。生徒はまばらで、たぶん全部三年五組の奴なのではないか。
「正気じゃねえよ」
胡乱そうに仏頂面をした長崎に、桐島は鼻で笑い返す。
「俺が正気だと思ってたのかよ」
「……お前までホモとかいうなよ」
「俺が修学旅行で光瀬に手え出して、武藤に生徒指導室で殺されかかったの知ってるくせに。あなたはまだ中学生なんですよっ。イルカと会話してりゃいい超音波声」
一人芝居的な桐島に、長崎はついていけない息をついた。こちらを一瞥したが、俺を毒づく気力もないらしい。
「まあいいけど。勝手にすれば。俺は関わりたくないから、取り持ったりすんなよ」
「俺がそんな厚意にあふれてるわけないじゃん」
「ったく」と長崎は観念した舌打ちをすると、野山と共に階段を降りていってしまった。
桜の花びらが、孵ったばかりで飛び慣れない蝶のようにひるがえる。俺は陽のあたる足元からぎこちなく顔を上げた。桐島はこちらを眇目で観察していて、目が合うとにやりとしてくる。
「俺がゲイじゃないのは分かるだろ」
「えっ」
「何かで聞いたことあるよ。ゲイってわりとそういうの分かるって」
桐島は一段階段を降りると、振り返ってきた。おろされた前髪がなごやかな風に揺れる。
「だから、相手がストレートなら押しつけない」
落ち着いたまじめな声に、口元と、肩紐が食いこむ肩がこわばる。揺らめきそうな瞳を、必死にこらえる。
嘘だ。信じちゃいけない。俺の心はこじあけようとしたドアみたいにずたずたなのだ。これ以上、血を流してどうなる?
陽射しがまばゆいふりで、俺は顔をそむけた。
「同情は、いらない」
俺の苦く押し殺した声に桐島は失笑した。
「うん。俺もそういうのはいらない」
「ぎ、偽善も鬱陶しい」
「あー、俺も」
「………、裏切られるのは嫌だ」
「俺は裏切らない。裏切られて苦労した人を知ってるから」
顔を上げた。桐島は屈託なく笑っていた。
「何で……」
「お前、ゲイってだけなんだろ。俺はみんなのほうが分かんねえな」
足元が瓦礫のように崩れ落ちそうになる。
ダメだ。落ち着け。俺はこいつを何も知らない。確かに誰かに言ってほしかった言葉だ。けれど、言ってもらいたい相手か、信じていい相手かなんて分からない。
俺は震えそうな膝をこらえて踏み出し、息遣いを装って桐島のそばを通り過ぎ、アスファルトに立つと振り向かずに言った。
「ほ、ほっといてくれよ。もういいんだ。誰とも関わりたくない。みんな俺を分かってない。ほんとのこと知ったら嫌いになるんだ。俺が、どんなに汚いか知ったら。普通の奴には分かんないんだよ」
心にもない自虐を並べて、足早に立ち去ろうとした。が、「ふうん」という冷めた声につい足を止め、「何だよ」とやはり振り向かずに突っかかる。とんとん、と階段を降りてくる足音がした。
「やっと分かったよ」
足音が近づいてくる。自分のスニーカーを睨む俺は、ほかの足音もあるのに、彼の足音をはっきりと聞き分ける。
「何でお前が、あんなに軽蔑されてるのか」
彼は俺を素通りする。こちらを見もしない。
「お前って最低だ。すっげえ友達になりたくない」
とっさに、かちんと顔を上げた。桐島の後ろすがたは無頓着に、俺を引っ張ってきた痕跡もなく校門へと遠のいていく。その黒い学生服の背中に憎悪を発火した俺は、考えなしに叫んでいた。
「好きでこんな奴になったんじゃないんだよっ」
桐島は足を止め、おもむろに首を捻じってきた。周りの何人かもこちらを見、俺は頬を染めて唇を噛む。花びらがうつろうアスファルトが、目頭の熱に滲む。
「じゃあ、好きなようにすれば」
はっとまぶたを押し上げた。桐島は鋭利に冷たかった瞳を、ふっとやわらげた。
「俺は、好きなようにやってる君が見てみたいんだけどな」
失明したような感覚に俺が立ち尽くすと、桐島は不謹慎に笑い出して駆け寄ってきて、俺を思いきりはたいた。
「安心しなっ。つまんねえ奴だと思ったら縁切るよ。俺、お前に興味あるんだよな。だって、強いじゃん」
「えっ……」
「俺なら、そんな状況になればとっとと登校拒否してるよ。腰抜けだからさー、逃げるの。親にはもっと我慢を覚えろと言われる始末」
桐島はちょっと照れたように咲い、同じように重そうな肩紐を肩にかけなおすと、足元に迷いかけた視線をすぐ俺に戻した。
「俺は自分の体質好きだけどね。ま、君のような影響もちっとは受けといたほうが、長生きできるかなと」
「俺の影響……」
「そう。君のためになろうなんて思ってないよ。そういうのは、これからつきあってみて決まることさ。俺は自分のために君にちょっかい出してんの」
さっきとは違う情感で、睫毛を伏せて唇を噛んだ。
嘘だ。信じられない。そう思っていてもいいということか。直感で相手を信じられる出逢いもある。だが、すべてがそうとは限らない。
そして、あっさりそう気づかせるこいつが別の意味で信じられない。こんな奴が、この学校にいたなんて──
「ごめん。俺……」
桐島は今度は軽く俺をたたき、校門へとあごをしゃくった。
「お話は帰りながら」
かくして俺は、桐島と校門をくぐった。誰かと校門をくぐるのは久しぶりだった。実際には二月頃に結浜とくぐったのだけど。同性とは久しくになる。
今年は寒さが長引いたから、桜たちはまだ淡い桃色を綿菓子みたいに抱えている。
「俺もごめん」
とはいえ、道路にも花びらは行き交いすぎた足痕のように落ちていて、それを踏みながら桐島は肩をすくめた。
「俺って仲良くなった奴にしか理解されなくて、新しく仲良くなるのって苦手で、下手なんだよな」
彼の横顔を見つめ、桐島もこちらを向くとちょっと決まり悪く咲う。
「桐島、っていうのか」
「うん。桐島智也。元二年一組」
「小学校も別、なのかな」
「俺東」
「俺は西小だ」
「一軒家かあ。俺は生まれも育ちもマンションでさ。何かいいな」
「そんな大したもんでもないよ」
「そうかな。何かそっち、姉貴がいるとか聞いたことあるけど」
「……ああ、まあ。今日高校生になった」
「ふうん。俺はひとりっこだよ。ぜひ金品を奪い取れるような弟が欲しかったんだけど。妹はダメ。かわいいだろうから」
「……はあ」
さっきの修学旅行で手を出したとかの話がよぎる。本当なのだろうか。
学校沿いを抜けると花びらも降ってこなくなる。午前中なら、この道はビルが日陰にならず暖かだ。通り過ぎる車もそう頻繁ではない。
「俺のこと、偏見しないんだな」
俺があたりに合わせて静かに言うと、桐島は噴き出し、その拍子にずれた肩紐を正す。
「いまどき、ゲイを偏見なんて時代遅れだろ」
「そうかな」
「いつかはそうなるんだからそうなんだよ」
俺はちょっとだけ咲い、はっと自分の口元を疑う。咲った。咲えた。俺にもまだ自然と咲える能力が残っていたのか。
「ま、親の受け売りだけど」
「親」
「俺は君でゲイ知ったんじゃなくて、小学校のときだったんだ。知ったときは、そりゃ、えーって思いましたよ。そしたら、親にはたかれましてね。そういうのもありなんだって教えてもらって、そっかー、と思うようになった」
桐島の前髪を見つめ、気だるく溶けたような胸の奥に目を伏せる。
「そんな大人もいるんだ」
「香野もそうじゃないかな」
「え」
「あの担任。あいつは悪くない先公だよ。偏見もしないと思う。小賢しいこともな」
ぎくりと瞳をこわばらせた俺に、桐島は無頓着に肩をすくめる。
「けっこう有名」
「………、初めから期待してなかったけど」
彼女についてはそんなひと言じゃなくて、治そうと言われたこと、別室登校のこと、陰口のこと、いろいろ吐き出したかった。しかし、まだそんなことを語っていいのか分からず、よどんだ疼きは喉元で気まずくとどこおる。だから、代わりの陰気じゃない言葉で呼吸を補った。
「あの学校に、君みたいな奴がいるとは思わなかったな」
「ん、みんなどうってことないと思ってんじゃない? ただ一部がいるのも確かで、一緒に偏見されるのが怖いのかな」
「君は怖くないのか」
「つうか、慣れてんの。このキャラだぜ。言いたいなら言わせておくさ。それしか楽しみがないなら、奪うのも不憫だし」
桐島はからからとし、俺は再びわずかに微笑む。皮肉っぽい奴のようだけど、嫌味っぽくはない。
「同じクラスになったら、話しかけようと思ってたんだ」
緑の公園にもさしかかって、T字路が覗けてきた頃、桐島は前方を見やってつぶやいた。
「ほかのクラスからはるばるって、胡散臭いじゃん。俺も面倒だし。偶然に任せてたら、こうなった」
「……偶然」
「話しかけようと思わせたのは塩沢だぜ。君が早いとこグレてたら、そんなん思わなかった。みんなは頭がよろしいみたいで君のこと直観するみたいだけど、俺はバカなんでまだ塩沢が汚い奴かなんて分かんないよ。だから、敬遠する理由もないんだ」
横断歩道に到着すると、ちょうど信号は青で、むこうに渡った。足止めされた車が唸る中、白と黒を横切るスニーカーを見つめて素直に言う。
「明日から、学校サボろうかと思ってた」
「え」
「どうせできなかったけど。でも、明日、学校行くよ」
桐島に顔を向け、すると彼はにっとしたので俺も咲い返した。
横断歩道を渡り終えると信号は点滅し、排気ガスをふかして車が動き出す。
「じゃあな」と桐島は軽く挙手をして身を返すと、行ってしまった。俺も彼に背を向けると、長いこと感じていなくて不思議に思える、なだらかな心で歩いていった。
【第七十四章へ】
