消えていた頭痛
ホームランになった野球のボールが足元に転がりこんできたみたいに、学校では思いがけない幸運に出逢ったのだけど、かといってすべてが薔薇色に塗り替わるわけでもない。
家が近づくほど、軽やかな気分を味わったぶん、憂鬱が重たくなってきた。全教科ぶんの荷物も肩をずきずき痛ませ、すれちがいざまの近所のおばさんの目に嫌悪を読み取ってドツボになる。庭の若やかになった芝生やはためく洗濯物を横目に階段をのぼり、鍵のかかっていなかったドアを黙って開けた。
玄関にはかあさんの靴しかなかった。これから、こういう日が増えるのだろう。雪乃ねえちゃんは今日から電車通学で、朝も俺より早かった。
もれそうになったため息を慌てて抑え、荷物をそっと肩にかけなおすと、音を殺して二階に上がる。
部屋に入って、ようやくため息も自由につける。自分の家なのに、ここ以外は敵の砦に忍びこんだ密偵みたいに窮屈だ。
なぜこうも気まずいのかというと、前々からの断絶以上に、実は雪乃ねえちゃんが滑り止めの女子校に行くハメになったせいなのだ。つまり、第一志望の共学校を落ちたということだが──すべて、俺のせいなのだそうだ。言われたわけではなくも、家族にしてみれば。たまんないよな、と言えた義理なのか自分でも分からず、俺はただ家族の迫害的な視線に畏縮している。
とりわけ雪乃ねえちゃんは友達と別れ、女子校なんて謂れのない偏見を深める方向に進まされ、そうとう俺を怨んでいる。はっきり言って、俺はあの眼が怖かった。
悪化するものはしつづけるのだ。俺は荷物をどさっと下ろすと、骨までゆがませそうだった肩を揉み、制服のままベッドサイドに腰かける。明るい部屋の空中を眺めていると、振り切れないあの虚しさが雨漏りに広がるカビのように襲ってくる。
たった今、俺を偏見しない奴に出会ったのに、嫌なことを思い出せば即座にこうだ。激しく切り裂かれては、べたべたした感触を味わいつづけ、俺の心はずいぶん抵抗力を失ったようだ。弱った心はたやすく振りまわされる。いいことがあっても、その効力は長持ちせず、すぐ悪い菌に軸を奪われる。そういう虚弱さはみじめでくだらないけど、この家庭内状況は深刻だ。
もともと息子より娘がかわいいとうさんは、だいぶ俺を疎ましく感じている。俺なんか作らなければよかったと思っているかもしれない。口もきかない。目も合わせない。
かあさんもさすがに疲れてきたみたいだ。とまどって、悩んで、結局、俺をもう自分が愛していた俺じゃないと思いこもうとしている気がする。
みんな、俺との血のつながりが耐えられないらしい。俺は家族に、憎しみのようなものだけ名残らせ、見捨てられようとしている。
ぐったりベッドに横たわると、前髪が額を流れ落ちて、視界がブラインドのように縞模様に陰る。陽の射すまくらには、いつもの匂いがする。考えるほど、遺棄された死体みたいに虚ろになってくる。どこかの臆病な犬の声が頭痛の癇に響く。
今年は受験生だ。俺は高校に行くのだろうか。中学を卒業したら、早いところ働いて家出したほうがいいのではないか。それが今の俺にできる、ゆいいつの孝行だ。あるいは死ぬ。俺は消え去るぐらいしかできない息子なのだ。せっかく桐島のような奴に出逢っても、悠長に学校なんか行っていられなくなるかもしれない。
桐島は、親に諭されて同性愛を見直したと言っていた。俺の親も、そんな親だったらよかったのに。それとも、自分の子供がそうであったら、桐島の親の態度も違っていたのか。彼の親の性格なんてぜんぜん知らないけれど、とりあえず、桐島のような人間は存在する。彼のような人が家族にひとりでもいたら、どんなに救われていたか──
しばらく思考が無音になって、シーツの皺を見つめ、ふと腫れぼったい面持ちになると身を起こした。
こんなのはいくら考えてもしようがない。桐島と家族になるのは無理だ。ただし、友達にはなれるかもしれない。彼がどういう人間かも、冷静になればまったく知らない。今日の感触だけで相手を測る必要はない。彼が俺を成心しないみたいに、俺も桐島を、友達になれるか、なっていいのか、これから知っていく。
学校に行こう。行きつづけよう。逃げたくない。投げ出したくない。つねづねそう思っていたのだし、そういうふうに思えるのは好都合だ。
賢司。弓倉。俺は友情に関してかなり傷ついてきた。けれど、賭けてみよう。この家の中がどうなっていくかは分からないが、桐島で学校生活にはもう一度賭けてみる。
「おはようっ」
始業式の翌日、変わらない不眠症で痛む頭と厚ぼったいまぶたを持て余して登校していたら、ざわめきの中、そんな声がした。朝から元気な奴もいるよな、と引きずる足を見つめつづけていたら、いきなり肩をはたかれてびくっと振り返る。
そして、まばたきと共に立ち止まった。朝の澄んだ空気を切り開く朝陽の中、そこで悪戯好きの猫みたいににっとしていたのは桐島だった。
「あ……、ああ。おはよう」
ぽかんとするまま答えると、桐島は俺の隣に来て黒いナイロンのデイパックを持ち上げる。
「これが電気ショックだったような驚き方」
銀色の金具が陽射しを反射するデイパックを見つめ、自分のくたくたの手提げを見おろす。今日も授業はなく、中身はペンケースや提出物ぐらいで軽い。
「これは、持ってないのか」
「ん。ああ、それ嫌いだから使わないんだ」
「え、そういうのっていいのか」
「さあ。別に悪かろうが、使いたくないから使わないんだ」
桐島はデイパックを肩に引っかけ、俺は煮え切らない顔でそのさまを眺める。気違いとまで言われる俺にも、彼の思考回路は突飛だ。
「学校行くんだろ」
「えっ」
にやりとした桐島にしばたいたあと、「まあ」と俺は生徒たちの流れに決まり悪く脇目をした。昨日の横断歩道での言葉だろう。桐島がうながしたので、俺たちはビル沿いの道を並行しはじめた。
「昨日は、学校のかばんだったけど」
「はは。あんな滅多と使わないのにも趣味徹底させてくれるほど、うちの親は寛大じゃないよ。これも安物」
桐島はデイパックを振りまわし、それがそばを通った一年生らしき男子生徒に当たりかけた。「お」と腕を引いた桐島は、短くながらもその子に謝る。気弱だからというふうでもないその様子に、いい加減なようだけど、やっぱり芯の通った奴なのだろうと思った。
昨日眠れなかったのは、教科書に全部名前を書きこんだあと、学級通信の名簿を見返したせいでもある。半分は知った名前で、半分は知らなかった。桐島の名前を妄想の産物ではないと知るため確認したあと、嫌な名前を探した。賢司。いない。久米。いない。望永。坂巻。いない。弓倉。いない。舞田。いない。しかし彼女の取りまきのひとりがいた。矢崎、室月はいないが、塚谷がいる。それに一年生のとき、ばれる前にわりとつるんでいた笹原もいた。結浜はいない。ついでに浦部も。全体的にはいいほうなのだろうが、ここからまた嫌な奴が発生してくるのだろうとか考え、夕べは塞ぎつづけていた。
「いいのか」
坂道をくだりながら、俺は地面の無数の影に睫毛を伏せてぽつりと訊いた。
「ん」
「俺、まだあのクラスがどうなっていくか分からないけど、一緒に教室行ったら変なこと言う奴がどうせいるよ」
「言わせときゃいいって言ったじゃん」
「……ほ、ホモってことになるんだぜ」
「人が何と言おうが、俺がストレートなのは変わんないんだよ」
彼の横顔に首を巡らせ、すくった水のようにすぐ足元に視線を滑り落とす。
「でも、女の子に近づかれなくなったり」
「こっちが押し倒す」
「………、それって、犯──」
「犯罪とか言うなよ。ユーモアがないなー」
ユーモア。確かに俺にそんなものはない。すっかり失くしてしまった。
彼を見ると、飄々とした歩行に合わせて、髪やデイパックが軽く跳ねている。これ以上言うと、卑屈で彼を遠ざけようとしているみたいだけど──
「怖く、ないのか」
「え」
「もし俺に好かれたら、って」
桐島の視線が瞳に当たり、数秒間、あたりのさざめきが沈黙に置き換わった。そして続いての彼の反応が失笑だったので、とまどって眉を寄せる。
「何──」
「あ、いや。ごめん。そんなん、好きになったら『好き』って言えよ」
ぎょっと目を剥く俺に、桐島は大人をからかった子供のように、まだおかしそうに笑う。
「振ってやるから。お友達でいましょうって」
思いがけない言葉に、茫然と瞳を途切れさせる。歩行中でなければ、きっとへたりこんでいた。
「友達……」
「女はこの台詞嫌がるけど。塩沢に告られた場合は、たぶんほんとだろ」
「と、友達でいて、気持ち悪くないのか」
「お前、あきらめようとしないで、むしろレイプとかストーカーとかしてくるわけ」
「す、するわけないだろっ」
「じゃあいいじゃん」
簡潔なひと言に、何とも返せない。
桐島がようやく笑いをおさめた頃、学校沿いにさしかかって、桜の花びらが柔らかに降りそそいできた。その桃色を瞳孔に溶かしていると、不意にまぶたが虚脱し、手提げを握りしめる手も緩めていた。
「みんな……」
「ん」
「みんな、そんなふうには思ってくれないんだ。俺もそんなふうに考えたことある。押しつけないなら、俺がそうなのは俺ひとりの勝手じゃないかって。でも、ダメなんだ。みんな、俺が存在してるだけで我慢できないんだよ」
周りはにぎやかに挨拶を交わして咲っている。その中でも桐島が軽く咲ったのは聞こえて、彼はデイパックをいったん下ろすと、肩紐を腕に通した。
「気にするなよ」
「……え」
「そういう奴が言うんだろ、お前と仲良くするならそいつもホモだって。でも、俺はそんな奴らの言うこと気にしないんだよ」
どこか開き直った、しかし投げやりでもない桐島を見る。彼もこちらを向くと、さっぱりした動作で肩をすくめた。
「塩沢が自分についてのうわさを気にするのは自由だけど、俺を気遣うことはないさ。俺は気にしないから。な。分かりましたか」
「う、……うん」
「よし。となれば、一緒にお教室行きましょうね」
見ると、教師がいくらか立つ校門に到着していた。生徒がひしめくそこを桐島とくぐり、桜に染まりかけたアスファルトを踏んで昇降口にたどりつく。
つくづく変わった奴だと思うが、本当に桐島は変わっているのだろうか。俺はずっと、彼がしてくれるような“ごく普通”の態度を求めていた。
混雑する靴箱を吐き出され、上履きになると渡り廊下を通って三階までのぼっていく。踊り場を通りかかるたび、談笑がたむろしていて、窓に射す朝陽がまばゆい。
「昨日、俺のこと強いって言ったよな」
「ん。ああ」
「俺は、桐島のほうが強いと思うな」
「そ、そうか? へらへらしてるとは言われるけど」
「そうとも言うかも」
桐島は顰め面になると俺を肘で小突き、俺は心から笑った。そうだ。俺はこういう感じに本当に乾涸びていた。しかし、自分が潤うために彼を醜聞で傷つける権利はないと思った。
でも、彼が気にしなくていいと承知してくれているのなら、そうさせてもらおう。何となく、俺はこいつに欲望は持たない気もする。だったら、彼の言う通り、俺は誰が何と言おうと、思おうと、こいつの友達でいればいい。
そういえば、あんなに重たく滅入っていた頭痛は、いつのまにか引いていた。
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