明るい昼食
「たまごもーらいっ」
新学期が始まって一週間、通常授業も始まって、その日は桐島と昼食を取っていた。外は朝の小雨で濡れているので、場所は教室の俺の席だ。俺は椅子に座り、彼は俺のつくえに座っている。
桐島は素早く俺の弁当箱のたまご焼きを奪うと、そのままひと口で頬張ってしまった。俺の弁当なんか汚くないのかとか相変わらず思っても、口には出さないよう努めている。
「んー、なかなかのお味」
もぐもぐとした彼は今日は弁当だけど、先週は購買にパンを買いにいっていた。母親が働いているので、いそがしい朝には弁当より金を渡されるのだそうだ。
「あんまり子供がいることに縛られてない人でさー、いそがしいっつうか、寝坊で作らないときもあるんだ」
パンを齧ってそう笑った桐島が、無性にうらやましいのが情けなかったものだ。俺のかあさんは──。
「今日は、弁当なんだな」
「うん。しかし、冷凍食品多し。俺のかあさんって料理下手なんだ」
「そうなのか」
「俺に作らせるときもある。何なんだよなー」
ふくれながらも桐島の口調や瞳には親しみがある。ずいぶん仲がほぐれた家庭なのだろう。彼にはそういう家庭で育った匂いもする。俺の家庭は、そう、まるで冷凍食品だ。
窓の向こうでは、雲が薄らいで細い切れめに陽が射しこみはじめていた。とはいえ、教室で昼食を取る生徒は多く、周りには雑談がとりどりに咲いている。窓の濡れたあとが緩い陽射しに煌めいていた。そういうのは、結浜と最後に話した日を思い出させる。
こめかみをつつかれて目を戻すともちろん桐島で、ばつが悪くあやふやに笑った。
「バカだよな」
「え」
「俺、何かで何かを思い出すってことがやたら多いんだ。連想っていうか」
俺は香ばしさを名残らせるウインナーを箸に刺し、口に入れると飲みこむ。
「結びついてるんだよ。窓のああいう光とか、桜で思い出すこともある。全部嫌なこと。それで連想が続いて、滅入ってくるんだ」
桐島は俺を見つめると、からあげを口に放ってよく噛まずに嚥下した。
「まつわる想い出があるってのは、悪いことじゃないよ。空っぽが一番怖い」
「そうかな」
「俺はそうだな。で、死ぬのとか怖いもん。消えるんだぜ。何かあっても抵抗できない。悪口言われても、忘れられても。自分のこと憶えててやれるのは、自分だけなんだ」
桐島の横顔を見上げ、「うん」と小さくうなずくと冷たいおにぎりを噛みちぎった。柔らかくなった海苔が剥げ、垂れ落ちそうになったので口の中に突っこむ。
そうだよな、と思った。俺の人生は俺のもので、俺が否定していたら存在しないのだ。俺はこの二年間をかたくなに否定してきた。だから、今こんなに何も変えられずにただ落ちぶれているのかもしれない。
「へへ」と桐島が照れ咲いをつけたしたので、咲い返したときだ。
「ちょっとお邪魔かな」
そんな声がかかり、俺と桐島は揃って声の主を向いた。そしてぱたぱたとまじろぐ。俺の席の右脇にいたのは、担任の香野だった。始業式と違い、ポロシャツにスラックスという軽装だ。
「何?」と桐島のほうが先ににやにやと箸を噛む。
「今はおデートの最中ですのよ」
「はいはい。今日は彼氏に用があるんだ」
「今じゃないといけませんの」
「そのときになって急に訊くのも何だろ」
「だ、そうですわよ」
桐島は剽軽にこちらを向き、俺は我に返ると気まずく香野を見た。そんな野良犬みたいな俺の警戒をやわらげるように、彼は苦笑混じりの笑みを作る。
「悪いな。今日の放課後が空いてるか訊きたくてな」
「え。あ、まあ」
「そうか。じゃあ少し時間をもらえないか。お前とは一度話しておきたいんだ」
話。
一瞬ぽかんとしたあと、瞳の奥にたっぷり猜疑や不信が湧きあがってくる。脳裏の暗がりには、どうしても榎本がよぎる。
「お、俺は別に、話したいことは」
「ああ。だが、俺のほうに話したいことがあるんだ」
俺は眉間を渋め、桐島の腰のそばの弁当に目を背ける。榎本もそんなことを言い、生徒指導室でありがた迷惑な名案を連射してきた。きっと治る。むさくるしい段ボールの臭いがよみがえって、吐き気になる。香野は難色に黙りこくる俺を見つめると、様子を観察する桐島を一瞥した。
「何なら、こいつを連れてきてもいいぞ」
「え」と意外な提案に顔を上げる。桐島は噛んでいた箸をはずして、眉を顰めた。
「連れてくるって、俺がわんころのような言い方ですね」
「お前となら、塩沢が気が楽かと思ったんだろ」
「ふん。まあいいけど。俺はヒマだよ」
気さくに言った桐島に目を向けても、俺の心は固まりきらないゼラチンみたいに、なおとまどう。何か食べて時間を稼ごうとしたものの、ゼラチンが喉につっかえて呼吸もよくできない。
突然、そばの女の子たちが何やら甲高い笑い声を上げた。それにややびくりと身じろげた拍子に、慎重なため息をついて箸を下ろした。
「え、榎本、……先生がしてきたような話は、もういいです」
「ああ」
「同じ話にならないように、一度榎本先生と──」
「塩沢」
強い、けれど静かな香野の声に前髪の隙間に目だけ上げる。桐島は弁当を食いながらただ眺めている。真剣な面持ちの香野の口ぶりは榎本と違ってはっきりしていて、落ちついた芯もあった。
「俺は、榎本先生の二の舞になる気はない。あの人と話もした。治そうとは言わない」
思わず肩が揺れる。香野は顔つきを常温に置いたバターのように微笑でやわらげた。
「塩沢と話したいんだ。個人的に、教師であることは抜きにしても。だから、塩沢も生徒だから話さなきゃいけないってことはない。ただ、それなら、いつか気が向いたときに一度俺と話をしてほしいんだ」
ほんのかすかに眉を迷わせても、言葉は喉からうまく出てこない。
どうしよう。話してもいいような気もする。しかし、治すとかではなかったら何なのだ。たとえ前向きにであっても、事を学級の話合いとかには持ちこんでほしくない。
俺が焦れったく舌を躊躇わせていると、何かおかずを飲みこんだ桐島が口を挟んだ。
「帰りがけに、ハンバーガーおごりながらとかならいいんじゃない?」
俺は彼のほうを向き、香野はあきれた息をつくとその額を小突いた。悪戯に笑った桐島を見ていると、何だか俺もちょっと咲えていた。そしてそれに乗じ、言うべき言葉も自然と取り返せた。
「分かりました」
香野は、はたとこちらを向く。彼に対してはあまりうまく咲えないが、それでもできる限りの笑顔を作った。
「放課後ですね」
俺の返答に香野は安堵を綯い混ぜた笑みを零すと、「ありがとう」と恐らくあえて確認は飛ばして言い、邪魔したのを詫びて行ってしまった。教室を出ていったその背中を見送り、俺と桐島は顔を合わせる。
「で?」
「え」
「俺も行く?」
「……あ。桐島は、どうしたほうがいいと思う?」
「んー、サシで話しても問題ないとは思うぜ」
「……そっか」
持ち直した箸でもうひとつのたまご焼きをつつく。桐島はしばらく天井を仰いでいたあと、「うん」と何やらひとりでうなずいた。
「じゃあ、俺、廊下で待ってるよ」
「え」
「もし、やな気分味わったら、帰りながらその愚痴を聞く。どう?」
にっとした桐島の瞳を見、俺は何となく笑みをこぼせていた。その自然な自分の反応で、返事もいつもより潔く決めることができた。
「ありがとう。そうするよ」
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