非常階段-76

消せない記憶

「グッドラック」と言った桐島といったん別れると、香野と生徒指導室に入った。
 言うまでもなく、放課後だ。何だかんだで見慣れた生徒指導室で、つくえを挟んで香野と向き合う。明かりをつけなくても、彼の向こうの窓が明るかった。雲がゆっくりと退いていっているので、帰り道も思うより暖かそうだ。
「本当に、桐島は同席しなくていいのか」
 香野はドアを見やり、教科書が重たい手提げを床に置いた俺もそちらをちらりとした。
「先生はいたほうがいいですか」
「いや、俺はできればふたりがいいがな。まあ、塩沢がいいなら甘えさせてもらおう。あんまり格好のいい話でもないしな」
 さほど目立つ白髪はない香野を見つめ、折れ落ちそうな枝みたいに膝に垂れさがる手首に目を落とした。
「……そうですね」
 俺の虚ろな声に、香野は慌てて言葉を継ぎ足す。
「悪い。塩沢のことじゃないんだ。お前のことをどうこう言う気はないし、話す気もない」
 あとのほうの言い方に顔を上げた。話す気もない。癇に障ったのでなく、意外だった。香野は俺のまごついた目を受けると、わずかにつらいような感じで咲う。
「俺のことを話しておきたいんだ」
「先生の……」
「俺は一応大学は現役で受かって、落第もせず赴任先もすぐに決まったから、教師になって今年で十七年目になるんだ」
「……はあ」
「お前が生まれる前からやってるんだよな。いろんなことがあったよ。ほんとに。後悔も数え切れないし、教師をやめようかと思ったこともある」
 香野の感慨深そうな顔を見ていたが、不意に、だからどうしたと思ってうなだれた。人の苦労なんか考えられない。自分で手いっぱいなのだ。人が俺よりはるかに苦しんでいても、そんな事実は俺の苦痛を少しも軽減はしない。
 そんな俺の殻を感じたのか、香野は笑みを作って口調を切り替えた。
「お前と同じように、俺も苦労してるっていいたいんじゃないんだ。何と言うかな──とにかく、そんなに長く教師をやってると、出逢わないわけがないんだ」
 俺は笠を目深にかぶるように陰らせていた目を再び上げた。
「出逢う……って、」
「お前みたいな生徒だ」
 目を開き、筋肉が伸び切ったように喉も肩もこわばらせた。
 俺、みたいな、生徒。
 香野の紛れない直視は真剣だ。
「げ、ゲイの」
「そうだ。女の子もいたな。まあ俺が知らないだけで、本当はもっといたんだろう。そういう指向だってうわさだった子もいれば、カミングアウトした子もいる。ひとり、俺だけに打ち明けてきた生徒もいる」
 まばたきで鎧が剥ぎ取れていく俺とは反対に、今度は香野がいっとき口をつぐんだ。廊下で話し声が通りかかる。自分からつついていいのか、痛みにうずくまる人を見守るように香野をただ待つ。
「男だったんだけどな」
 香野は首を垂らして床を見つめ、ぽつりと沈黙を破る。
「その生徒は、俺に教師を辞めようって本気で一度思わせた」
 爆破した煙から生きて出てくる人影のように、ただならないものを感じて、息遣いも硬直させる。香野はなるべく深刻ぶらないようにしても、やはり重みがかかる瞳と声を俺に据えた。
「聞くか」
 俺は香野を見つめ返し、一考はしたものの、やはりこくんとした。
 それは、まだ香野が教師になって三年目のことだった。彼が二十五歳のときで、ちょうど十五年前だ。受け持ちだったその生徒は三年生で、受験の追いこみ中だった。
 真冬の放課後、相談があると呼び出されて、彼とふたりで教室に残った。灰色の雲が立ちこめる憂鬱な日だった。生徒が言い淀むあいだ、香野は彼を見たり、その曇り空を見たりしていた。何か声をかけてやろうかと思ったとき、その生徒は、本当に泣きそうな目を上げてひと思いに言った。
「僕、先生のことで勉強に手がつかないんです」
 香野は彼の目を見つめたが、それだけでは何のことか分からなかった。というより、何か気に障っているのかと不安になり、「どういう意味だ?」と口調をやわらげて問いかけた。その生徒は、ますます泣き出しそうになった。
 華奢な感じで、彼が女っぽいとバカにされているのは知っていた。
「ぼ、僕、先生のことが好きなんです」
「……は?」
「分かってます、先生は男だって。でもダメなんです。どうしても、先生のことばっかり頭に浮かんじゃって」
 香野の頭は思い設けない狼狽に錯乱した。その生徒は森川もりかわといった。
「も、森川──」
「先生、僕、どうしたらいいんですか。僕、初めて好きになった相手も男だったんです。どうしたらいいんですか。僕ってみんなの言う通りオカマなんですか。病気なんでしょうか」
「お、落ち着け。な。分かったから」
 彼は泣き出していた。かぼそい指が、大粒の涙をぬぐっていた。
「そ、その──」
 森川の黒い瞳が、濡れたままじっとこちらにそそがれてくる。その瞳の切実さはよく感じ取っていたのに、そのときの香野は、こう返してしまった。
「大丈夫だ。俺も協力するから。きっと治そう」
 登校拒否なんて、当時はかなりめずらしかった。心の病気なんて単なる甘ったれだと考える者も多かった。
 しかし、彼は学校に来なくなった。家を訪ねると部屋に閉じこもられ、顔を見るのがつらいと手紙で言われた。高校にも進学せず、彼の一生は台無しにはずれてしまった。
 あのときどう言えばよかったのか、香野はしばらく本気で分からなかった。だが、さまざまな生徒と接し、何年も経ったあとにようやく悟った。
「こう言えばよかったんだ。『応えることはできないけど、君は間違ってはいないんだよ』」
 俺は香野をじっと見つめていた。全身がこわばっていたが、沈黙が長引くにつれ、緊張した筋肉はほどけていった。香野は顔を上げない。俺の目に軽蔑を読み取るのが怖いのかもしれない。そんなものはなかった。
 驚いていた。その生徒の気持ちはよく分かる。俺が感じ取る想いが正確に彼に重なるかは分からなくも、その答えに痛みを感じる痛覚は確かに俺にもある。そして、長いことかかったにせよ、香野がそういうのを自認したのが信じられなかった。分からない奴には、永久に分からないと思っていたのに──。
「気づいたとき、辞めたいって思ったんですか」
 俺のほうがそっと、綿をちぎるように訊くと、香野は顔を上げてうなずいた。
「情けなくてな。若かったし、そういう時代でもあったなんて言い訳にもならないよな」
「何で辞めなかったんですか」
「………、何でだろうな。せめてそう気づいたからかな。気づいてなかったほうが、だんだん自信を失くして辞めてたかもしれない」
 香野の視線は、つくえの縁あたりに遠く傷む。俺も自分の上履きに睫毛を下ろした。香野の大きなため息で目を上げると、彼は毅然とした面持ちを取り返して俺と顔を合わせた。
「お前で森川のことを償おうとかは思ってない。ただ、今度こそ間違いたくないんだ。本当は二年生から受け持ちたかった。でも、尊重したほうがいいなんて校長にも教頭にも理解されなかった。治してやらないなんて、ひどい仕打ちだとも言われたよ」
 榎本との面談での、そんな話が出たことがあるような、おぼろげな記憶がよみがえる。俺を受け持ちたいといった教師がいたが、その教師の希望は俺に相応しくないとか──
「それで、榎本が」
「ああ。だが、あの結果だったし。今回は押しつけられるようなかたちで担任になれたんだ」
「……そうなんですか」
「気に障ったかな」
「いえ。何か、びっくりして。もう、教師は榎本で見切ってたから。どの先生も俺を避けるとかしてました。あ、体育の夏里は違う気もしましたけど」
「ああ、夏里先生な。去年の夏頃、一度お前のことを話したよ。そうだな、夏里先生は周囲のほうに疑問を持ってるみたいだったな」
 夏頃。望永が俺をプールに突き落とし、夏里が助けてくれたのも夏だ。つくえを見つめたあと、何だかぶあつい本みたいにずっしり来たため息をつく。
「桐島だけでも、信じられなかったのに」
 俺のその言葉に、香野は少し空気を軽くする悪戯な笑みをこぼす。
「あいつはいい奴だろ」
「ん、まだよく分からないけど。友達だって信じられるようにはなりたいです。何というか、弓倉のこととかは知ってますよね」
 香野はうなずきながら笑い、「桐島は教師命令なんか真っ向から聞かないタイプだぞ」と納得できる太鼓判をくれる。
「まあ、つきあってれば分かるだろう。ほかの奴はどうだ?」
「ほかは、別に。今までと変わらないかも。何かされるとかはないです」
「そうか。教師がしゃしゃりでたら、かえって状況が悪くなる場合もあるのは分かってる。利用したいとき、いくらでも俺を利用してくれ。していいんだぞ」
 その勇気のある笑顔に、俺は張りつめていた糸をいつのまにか緩められていた。桐島のときに較べると直感性は低くも、それでも何となく感じる。
 こいつは敵じゃない。
 香野はもう一度遠慮する必要はないのを諭すと、俺に立ち上がるのをうながして自分も立ち上がった。手提げを取り上げた俺の学生服の肩に、彼は大きな手を置く。
「せっかく、逃げずに送ってる中学時代だ。最後の一年ぐらい、俺が守ってやる」
 香野を見上げると、ゆっくり咲って素直にうなずくことができた。香野も微笑み返すと、俺の肩を軽く入口へと押し、自分はつくえの脇に戻って椅子を戻す。俺がひと足先にドアを開けて立ち去ろうとしたとき、「そういえば」と香野は思い出したように声をかけてきた。
深井ふかいとは話したか」
「えっ」と振り返った俺は、唐突な質問にまじろぐ。
「深──」
深井ふかい亜里紗ありさ
「え、と。い、いや。誰ですか」
「クラスにいる女子だが──そうか。まあ、いつか話す機会が来るかもな」
 きょとんとまばたきをする俺に、香野は深長な笑みをすると、「桐島が待ってるんだろ」とドアをしめす。言われてはっと思い出した俺は、ひとまず頭を下げて、生徒指導室をあとにした。
 人気の失せた廊下に出ると、中がけっこう息苦しかったのが分かった。桐島はどこかな、と廊下を見渡そうとしたら、「よお」と足元に声がして視線を下げる。
 桐島が生徒指導室のドアに背中を当てて座りこんでいた。声をもらして突っ立った俺に、彼は軽捷に立ち上がる。相変わらず、彼との目線は変わらない。俺は少し噴き出してしまった。
「聞いてたのか」
「まね。先公もいろいろあって成長するんですね」
 笑いを噛むと、「そうだな」とうなずき、廊下を歩き出した桐島に並ぶ。校内は静まり返ってはいないが、見たところ、人影はない。
 デイパックを肩にかける桐島に、深井とかいう生徒について訊いてみた。すると、「知ってる」と慮外にも有効な答えが返ってくる。
「二年も同じクラスだった。顔はかわいいのに、すげえがさつな女」
「何で、話すとか言ったのかな」
「えー。あれがレズとか。いやまさか。たぶん。男みたいだけど。あれー」
 首を捻る桐島を横目に、まあ学校来てれば分かるかな、と手提げの重みに合わせて肩を下ろす。
 そう、学校に来よう。非常階段を降りて脇にそれたいなんて気持ちには、できるかぎり目を向けないようにする。そうなりたい。今、俺は確かに、桐島や香野と学校生活を送りたいと思っている。気になることも言われたし、結局これまで逃げずにやってきた。
 やれるよな、と心の中に誓うと、悩んでそのまま歩いていきそうになった桐島を到着した靴箱に引っ張りこんだ。

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