非常階段-77

夕暮れに見る影

 気詰まりな休日の夕食を終えると、皿は片づけて、さっさと二階に上がった。背中でドアを閉めると、ほっと息がもれる。
 明かりをつけ、宿題が残っていたのを思い出して、つくえに近づいた。けれど、椅子を引いて座っただけでやる気は尽き、ぱったり九十度に上体を伏せる。
 俺がいなくなった途端、始まった一階の話し声に、かろうじてヘッドホンをたぐりよせると音を再生させた。
 重ねた腕に頬を押しあて、右にある本棚を見つめる。気分のせいでおもしろいと思えない漫画、ホコリをかぶった攻略本、義理で買った参考書──耳元でエレキギターが駆けのぼる。
 長袖の服には、洗剤とこの家の匂いがした。けれど、俺はもはや、この匂いには許されない存在なのかもしれない。
 明日は月曜日だから学校がある。そういうふうに思う自分が信じられない。こんなことになる前にも、そんなのを思ったことはなかった。
 けれど、確かに今は家に較べれば学校がはるかにマシだ。学校でなら息ができる。肺が蜜を得た蝶の羽のように動き、酸素を感じられる。家ではまるで、黒いふくろをすっぽり頭に被せられたみたいに窒息しそうだ。
 とうさんは俺のことなんか知ったことじゃないみたいだし、かあさんは雪乃ねえちゃんをなぐさめるのにいそがしい。雪乃ねえちゃんは顔を合わせるたび、ふくれっ面で俺を睨んでくる。
 俺がよその家の子だと発覚したようなあつかいだ。俺の前ではみんな話さないし、笑顔もない。陰口のように、俺が外れて団欒する。実際陰口なのかもしれない。つらかった。
 俺は嫌われている。この家で必要とされていない。だったら死にたい。こんな根暗な悩みはどう口にしたらいいのか分からないし、さすがに桐島や香野も、俺の心に巣食うウイルスを止めてはくれなかった。
「深井ってあいつだよ」
 香野と面談したのが先週の火曜日で、水曜日か木曜日、深井亜里紗のことを教室で口にした俺に、桐島はひとりの女子生徒を指さした。
 昼休みで、彼女は教壇で女の子たちと溜まっていた。確かにかわいかった。瞳が黒目がちに大きく、そんなに長くない髪を両脇で縛っている。頬がふっくらとして、軆つきも柔らかいが太ってはいない。
 俺は、俺のつくえに腰を預ける桐島に目を戻した。
「何か、ぜんぜん俺とは接点ないけど」
「香野に訊けば」
「……答えてくれなさそうな」
「んじゃ、深井に訊いてみれば」
 また深井亜里紗に目をやり、桐島も彼女を一瞥した。彼女は友達の何らかの発言に咲っている。
 俺たちは顔を合わせた。
「あいつは怖いよ」
「怖い」
「いい母親になるだろうよ」
 ちょっと笑みをこぼすと、外の雨を見やった。朝には雷もともなった、暗く強い雨だ。帰りまでに弱まっているか分からない。
 再度、深井亜里紗を見た。
「顔はかわいいな」
「お、ゲイでも女に美醜は感じるのか」
「……そりゃあな」
「はは、ごめん。俺はもっとお淑やかそうなのが好きだな。見ためは。ほんとに貞淑なのはつまらん」
「はあ」
 俺は女の子に好みという概念はない。
 桐島は深井亜里紗を眺め、視線を感じたのか、彼女はこちらを向いた。すかさず桐島が舌を出すと、深井は眉を上げて、中指を立て返して輪に戻る。
 自分にされたわけでもないのに面食らう俺に、桐島は肩をすくめてみせた。
「あんな女」
 なぜ香野が彼女が俺と接点を持つと予言したのか、まだ謎だ。そういうのを考え、今んとこ死ぬわけにはいかないな、と考える。
 家族は俺の存在を消したいのかもしれないが、俺は、生きていろいろしたいことがある。桐島、香野、深井──それに、その日の会話のように、桐島は俺にさりげなく恋愛の話を持ちかける。それで、ときどき思うようになった。
 誰かと恋をした自分を知ってみたい。もしかすると、そうしたら、よりはっきりと自分をつらぬけるようになるかもしれない。
 鼓膜にはヴォーカリストの声が響いている。身を起こすと、そばの手提げの数学の教科書とノートを取り出した。そして、宿題をやっつけ、あとはまた考えていた。
 桐島の言葉を思い出す。自分のことを憶えていてやれるのは自分だけ。それでも俺は、どこかでは、こんな孤立した時間は人生から消去したい、こんな状況は取り合わずに投げ出したいと思った。
 待ち詫びた月曜日の朝、先週の雨にすっかり桜の花びらが落ちた道を登校すると、俺の靴箱には丸められた紙クズが入っていた。手に取って広げると、真っ赤なマジックペンの殴り書きがあった。
『エイズ野郎!』
 朝のにぎやかな挨拶の中、俺はたたずんでその中傷を眺めた。すると肩をたたかれ、はっと首を捻じると、桐島だった。
 デイパックを肩に引っかける彼は、必然的に俺の手の中の縮んだ服みたいに皺くちゃな紙を覗き、噴き出すと俺の顔を見た。
「ていうか、お前、童貞だろ」
 桐島のおかしそうな瞳を見つめ返し、塞いだ息をつくと紙に視界を返した。
「……まあな」
「あれ、笑えない?」
「あんまり」
「こういうの好きな奴、ほんとにいるんだなー。俺は自分がされたら嫌なんでしないな」
 桐島は俺の背後を通ると、隣の列の自分の靴箱を開けて上履きを取り出した。
「みんな、自分に投影なんてしないんだよ」
「長生きするな。好きに言わせとけよ」
「……けど」
「そういう奴はそういうことがしたいんだ。たとえ分かってても、やりたいんだよ。猫にかつおぶし。猿にバナナ。餌があれば食わなきゃ気が済まない」
 上履きを履いた桐島は、履きこんだスニーカーを靴箱に突っこむ。
「そいつのほうが病気だぜ。頭に流れる血が病んでんの。行こうぜ」
 まだスニーカーだった俺は、慌てて上履きに履き替えた。紙クズは靴箱の脇のゴミ箱に捨てた。
 俺が滅入った眉間のまま、朗笑する生徒たちとすれちがっていると、桐島は仕方なさそうに前髪をかきあげて息をつく。渡り廊下には、雨粒の名残にきらびやかな朝陽が射しこんでいた。
「塩沢」
「……ん」
「あれ書いた奴は、お前の何を知ってんだよ」
「え」
「どうせ知ったこっちゃないんだぜ。なのに、お前のほうは受け入れて傷ついてやるわけ?」
 桐島の鋭利な眇目にはとまどったものの、階段へと曲がりながら足元を見る。
「受け入れてなんかない。勝手に突き刺さってくるんだ」
「そうかな」
「傷つくのはくだらない、って言いたいのか」
「もったいないって言いたいの。もっと自分を大事にしろよ」
 あきれてトゲを緩める桐島に顔を向ける。
「気にしなきゃいけない義務なんてないんだ」
「コントロールできないんだよ」
「じゃあ、できるようになれよ。なれることだと思うぜ。お前は誰にも弱みを握られてるわけじゃないはずだ」
 桐島の明確な瞳に、何ともやり返せず、おぼつかない吐息と共に首を垂らす。騒がしい踊り場では、引っぱたくように頬に朝陽があたる。
 不意に俺はふっとだるい笑みをほどくと、ちょっと情けない顔で桐島を正視した。
「強いな」
 彼は嫌味をさらりと上手に交わすようににっこりとする。
「親が親ですから」
「……そっか。あのさ、いつか俺がこの町を出ても、友達でいられるかな」
 桐島の階段を踏む足が止まりかけ、彼はしばたいたあと、面持ちを多少まじめなものにする。
「出たいのか」
 次は俺のほうが笑っている。確かに、他人が何を言っていても、桐島の意見のほうが正しいのだろう。しかし、家庭を想うと、俺の心は空っぽになり、表出した笑みも管で生きのびる老人のように虚ろになる。
「出ていけって、思われてるしな……」
 ゴールデンウィークは、去年と同じだった。それが簡単すぎる説明なら、去年よりさらに胸苦しかった。
 カーテンをひいた部屋に閉じこもり、じっと息も気配も殺して膝を抱えている。そうして存在を感じさせなければ、一階のみんなにせめて何も言われない気がした。
 けれど、その厳戒の孤立感は、やがて無重力な恐怖にどろどろと溶けていった。周囲を暗闇に取り囲まれたようだ。誰にも目を向けられない俺の魂は、消しゴムのカスみたいに吹き飛ばせばすぐ消える。その軽さが激しい重みとなって、鬱を強いる。
 何で俺ってこんななんだろ、と感情が朽ちかけていた日曜日、桐島から電話がかかってきたのは突然だった。
『今、ヒマ?』
 時刻は、ちょうど昼の十二時だった。カーテンの向こうが、青と白に晴れ渡っているのは知っている。
 子機を届けにきたかあさんは、ドアの隙間で怪訝と不安を入り混ぜていた。しかし俺は、コードレスのそれをただ受け取って、ドアを閉める。
 ベッドに腰かけると、保留の旋律を止めた。機械越しの耳元で変な感じの桐島の声は、挨拶もそこそこにそう尋ねてきた。
「え、ああ。まあ」
 隣には雪乃ねえちゃんがいるので、声は抑え気味にする。桐島のほうでは、何か炒めるような音がしていた。
「四日間、ずっとヒマだったよ」
『そうなのか。じゃあ、とっとと連絡取ればよかったかな。……っと、』
「何か音してるな」
『飯作ってんの。昨日でレトルトもインスタントも尽きてしまった。なければ自分で作るだろってあえて買ってこないんだぜ。鬼だよなー』
 気だるい頬でわずかに微笑むと、カーテンで薄暗い空中に目を放る。
「電話番号、教えてたっけ」
『知らないから、連絡網で分かる家にかけたんだろ。ていうか、君がケータイあつかってるとこ見たことない』
「あ、ケータイは持ってない」
『そうなのか。俺もだけどね。高校で解禁予定』
 かしゃかしゃ、とかき混ぜるような音がしている。
『旅行とか行ってたら虚しいなと思って、連絡しなかったんだ』
「……そっか。行かなかったよ。桐島は?」
『「ヒマー」とか行って遊び代ねだったばかりに、洗濯とか掃除とか』
 もう少し咲えて、不思議だなあ、とトーストに染みこむ蜂蜜のようにしみじみ思う。桐島との何気ない会話は、俺のすぐ腐ろうとする心に、思いがけない命を与える。
『最終日ぐらい、不本意なヒマつぶしを逃げ出したいのよ』
「俺、金ないけど」
『俺もない』
「このへんで遊んでたら、誰かに遭うかもしれないぜ」
『あ、そういうの嫌?』
「嫌というか──」
 口ごもって、フローリングに乗った素足を見る。
 そのとき、隣の部屋で軽い音がしてびくんと肩がこわばった。被害妄想も激しくなった。何か音をさせられると、おとなしくしておけと言われているように感じる。
『何?』
「あ、いや。ほら、変なこと言われるかも」
『変なこと』
「デートとか言われたら嫌だろ」
『いいじゃん、デートで』
「………、せっかくの休みの日にまで、俺につきあわなくても」
『あのなあ、俺は君のおもりをした憶えは一度もないぞ。休日だからこそ、会って遊ぶんだろ』
 いつものあきれた声に、睫毛を狭めて床にうつむく。彼には何気ない台詞なのだろうが、だからこそ、俺には新鮮な酸素になる。
 何気ないなんて、この二年間、俺の日々には存在もしなかった。忌まわしく焼きつく膿ばかりだった。
「あのさ」
『ん』
「どこで会おうか」
 かき混ぜる音も止まる間が一瞬あり、すぐに嬉しそうな笑みが聞こえる。
『いつものT字路でいいだろ。俺は今からこれを食うんで、そうだな、十三時頃に』
「分かった。あ、えと、電話くれてありがと」
『へへ』という桐島の照れたような咲いが、かちっと恐らく火を切る音に重なる。
『そう言ってもらえるほうが、俺は安心だ』
 そういうわけで、五月六日の日曜日だけは、家を抜け出せたので胸も楽だった。桐島とそのへんをぶらついて、楽しかったのは嬉しい。しかし、家を離れると楽だという事実が、隕石のようにひどく帰り道にのしかかってきた。
 桃色の雲と橙色の空が溶けあう夕暮れに、俺の影も景色の影もうんと伸びている。半袖の腕も、睫毛の影も赤い。
 涼んだ風に、夕食の支度の匂いがただよう。あちこちでの楽しそうな家族の声が根深く心に突き刺さる。
 通りすがりの近所の人の目も、相変わらず変だ。憂鬱な足音が道路に落ちていく。
 なだらかな風に揺れた髪を撫でると、やっぱりいつかは非常階段を降りてここを離れるのかな、とアスファルトにうつろった視線の肌寒さにそんな想いがよぎった。

第七十八章へ

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