謎めいた少女
五月の下旬には、中間考査が忍び寄る。教師の中には、おうむに取りつかれたみたいに受験ばかり口にするのがいるから滅入る。
三時間目と四時間目のあいだの休み時間、「ああいう先公って、学生時代そういう教師にいらついたことないのかね」と桐島は舌打ちして、晴れた窓に背中を預ける。
「いらついたから、俺たちにやってんのかも」
風通しに開けられた窓と向き合う俺は、体温に染まるアルミニウムの手すりに腕を任せ、涼しい風に前髪をそよがせている。ここのところ、こんな、なごやかな陽射しに風が抜ける快晴が続いている。 「だったら、虐待されたガキが親になったとき、ガキを虐待するのと同じだな」
桐島の横顔を見た。彼は頭が切れそうだけど、実際のところ、成績は悪いらしい。でも、やる気がないだけの気もする。精神状態がすぐ成績に出る俺は、最近ちょっと回復気味だ。
「桐島は高校行くのか」
彼は顔を仰がせてこちらを流しみると、ぱっと軆をガラスと向き合わせた。
「何で」
「ん、いや。俺は行くか分かんないし」
「マジ。かっこいいな」
「……かっこいいか?」
「俺なんかぜんぜん行きたくないけど、親に高卒ぐらい取っとけって言われそう。学歴なんかカスでも、しょせんは高卒ぐらいないと働きにくいって」
桐島はガラスに透ける自分を見つめる。
「そこは、俺も同感かな。ただのバイトの採用が、何で学歴で左右されるのか分かんないけど、とりあえず社会はそうなってる」
「……そっか」
「高校行かずにやりたいことがあるなら、そっちに行くけどね。別にないし」
やりたいこと。俺は重なった腕に顎を預けて肩を沈める。俺にはそんなものはない。未来なんて考えなくなっていた。
というか、俺は普通に生きたい。しかし、それをやるには周りが変わってくれなければならないのだ。
穏やかな風に、白雲のかたちがゆっくり崩れていく。
あんなふうに社会の心が変わってくれれば、俺は特別な将来なんていらない。
「塩沢は何かしたいことあんの?」
「ないよ。ただ、中卒取ったらさっさと家出て働いたほうがいいのかも」
視線を青空に遠く伸ばす俺に、桐島はこつんとガラスにこめかみを当てる。
「そうしたい?」
「さあ。高校行っても、こんな毎日だろうしな。ずっと、大学になっても、社会人になっても。同じ種類の奴の世界に行くのが一番なんだ」
桐島は再び身を返して窓に背中をもたせかけると、「行きたくないみたいだな」と咲う。思い設けない言葉に、肩を起こす。
「行ったほうがいいと思うのか」
「ゲイばっかなんだろ。都合いいじゃん」
都合がいい。まあ、そうだ。失恋するとは決まってない相手を好きにはなりたい。頭では納得できても、思いつめた硬直で陰った足元を見る。
「でも、そういう特別な世界に行くのって、自分は普通じゃないって認めるみたいだ」
「恋愛したいから、相手のいるところに行くだけだろ。本買いたくて、本屋行くの変?」
風に吹かれながら桐島を見ても、どうしても、瞳に薄暗い霧をこめてしまう。
「何か、あるじゃん」
「何」
「ゲイクラブとかって、その──」
「セックスばっかり」
言えない言葉をすっぱり言われて、ちょっと頬を染める。
「……まあ」
「ノリはそんな感じかもな。かといって、そういう気持ちなら、同性愛保護団体に入るのも嫌だろ」
「何それ」
「同性愛を肯定して、偏見撲滅委員会みたいなことやるとこ。あるのはあるだろ」
「……はあ。それも、何か、グループセラピーみたいだな」
「だな。しかし、この学校にもゲイはいるはずなんだよ」
顎をさすって渋い表情になる桐島に、俺のほうこそ変な顔になる。
「冗談だろ。いないよ」
「いや、いる。同性愛者は十人にひとりいるんだ。誰かが言ってた。このクラスにも、あとふたりはいるんだぜ」
首を捻じり、休み時間ににぎわう教室を見渡す。同じ動物の群れのように、目に止まるクラスメイト誰もが、俺にはストレートにしか見えない。桐島と顔を合わせた。
「それは嘘だろ」
「自覚しないのもいるらしい」
「自覚しないことができるのか」
「さあ。親とかに完全に異性愛しかありえないって育てられたら、ありうるんじゃないか」
「俺の両親は、ゲイなんて考えたこともなかったと思うけど」
「なるほど。人間の生理は、まだまだ神秘に満ちていますね」
桐島はもったいぶって腕を組むと、ひとりうなずく。俺は仕方なく咲うと、やや風に揺れた髪をさすった。鳩の声が聞こえる。
「なあ」
「ん」
「桐島の親は、もし桐島がゲイだったら、どう反応してたと思う?」
桐島は俺を向くと、予想より早くくすりとし、きっぱりと答えた。
「大笑いしたあと、『どのぐらい隠してたの?』」
俺も桐島の瞳に向け、理屈抜きに咲った。
「いいな」
「はは。一度、俺んちの親に会ってみる? そういう大人もいるんだぜ」
「うん。そっちがよければ」
そのときチャイムが鳴り、「お」と俺たちは顔をあげた。「かったるー」とだらけた顔になって、そばの自分の席に着いた桐島に咲うと、俺も廊下側の前から二番目の席に向かう。
その途中、セーラー服の肩と肩がぶつかった。「あ」と反射的に謝ってその顔を見た俺は、口元をすくめる。
深井亜里紗だった。
「こっちこそごめんね」
彼女は特別なそぶりもなくにっこりとすると、赤いスカーフをひるがえし、周囲と同じく小走りに自分の席に行ってしまった。突っ立ちそうになった俺は、教師が入ってきて慌てて席に着いて、教科書を取り出す。科目は社会だ。起立、礼が済んで授業が始まると、深井亜里紗を盗み見る。
今日も髪を両脇に縛る彼女は、隣の列の一番後ろの席で教科書をめくっている。本当に、何の特別なそぶりもなかった。
だからこそ、確かに引っかかる。今でもクラスメイトには俺を押し退けたりする奴はいる。ひどいうわさは相変わらずだし、昨日は教科書を破られていた。このページの授業のとき、誰かさんのせいでサボれるからいいじゃん。そんな桐島の気楽な発言で、しょうがなく笑ってしまったけれど。
偏見も軽蔑も、宿命のように常に俺をつけ狙っている。その中で普通に俺に接する奴は、その桐島ぐらいだった。
香野の言葉が思い返る。深井亜里紗。やはりあの子には、何か俺に通じるものがあるのだろうか。
【第八十一章へ】
