非常階段-81

降りたりしない

 ここに来るのは、何だかんだで久しぶりだ。頬や髪、夏の制服に教室の窓や通学路よりひんやりした風が抜けていく。中間考査が過ぎた五月末、今日はサボりらしい桐島もいなくて、俺は非常階段にやってきた。
 三階の非常階段は初めてだが、のぼりの階段が続かず広いのと、コンクリートの屋根が近いのを除けば、これまでの非常階段と変わりない。涼しくて薄暗く、静かで錆びた金属の手すりの匂いがする。
 くだり階段に腰を下ろすと、俺は連れてきた弁当を開いた。食欲があるわけではないけれど、朝から何も食べていなくて空腹はある。いつもの味のかあさんの手作り弁当を口に運びつつ、手すりにもたれて空を仰いだ。
 二時間目に国語の授業があり、その終了後、俺は香野を呼び止めて、桐島の休みについて訊いてみた。行き交う生徒たちの合間に、彼の空席を見やった香野はあきれた息をつくと、右手の出席簿や国語の教科書を持ち直した。
「どうせサボりじゃないか」
「サボり」
「連絡はもらってないぞ」
「……そうですか」
「心配しなくても、あいつは常習犯だしな」
 苦笑した香野に、俺は陽の当たる桐島の席を振り向く。常習犯。そうなのか。それっぽいけど。
「病気とかじゃないんですね」
 俺がそんなことを言うので、香野もかえって心配になったのか眉を寄せる。
「心当たり、あるのか」
「あ、いや。ないんで、心配で」
「そうか。まったく──。あのいい加減さは、一年生のときと変わらないな」
「先生は、二年のあいだも桐島と接してたんですか」
「いや、二年のあいだは接点はなかったな」
 不思議そうな香野を見つめ、俺は友達と集まる深井亜里紗に視線をすべらせる。
「じゃ、深井とも接点はなかったんだ」
 そのつぶやきに香野は少しまたたくと、思いのほか笑みを浮かべた。
「桐島が前に、深井とは二年のとき同じクラスだったって言ってて」
 つけたした俺に、香野は承知した様子でうなずき、咲っている深井亜里紗を見た。
「彼女はまだ話しかけてこないか」
「まあ」
「そうか。試験も終わったし、そろそろ俺も話してみないとな」
「彼女って、俺に何かあるんですか」
「深井に聞いたほうがいい」
「……ま、まさかその、何というか、彼女も──」
 香野はちょっと噴き出すと、「どうだろうな」と俺がはっきり言わずとも汲み取ってくれた。しかし、その答えは曖昧だ。
「そういうことを知ってるわけじゃないんだ」
「……はあ」
「悪い、もう行かないと」
「あ、すみません」
「もし桐島から連絡があったら、伝えるよ」
 こくんとして香野を見送った。そっと息をついて振り返り、どきんと肩を跳ねさせる。
 深井亜里紗がこちらを見ていた。きっかり目が合ってしまった。俺は妙な気まずさで引き攣った咲いなんか返してしまう。とっさにこのあいだのとうさんの無視がよぎったが、深井は一応うやむやに咲い返し、輪に溶けこみなおした。
 聞こえていたわけではないだろうが──。俺は彼女の結われた黒髪を見つめ、何とも言えないため息を引きずって席に戻った。
 つくえに手をすべらせて椅子に腰かけ、ぐったり体重を下ろすと、腫れぼったい目つきを放る。ほんと何なんだろ、と考えこんでいたら授業が始まり、昼食時になり、桐島のすがたはなおもなかったので、ここにやってきた。
 ゲイは相手を見分ける。桐島が言っていたことは、正直よく分からない。俺は自分以外のゲイと接したことはないつもりだし、周りの男はみんなストレートに感じる。女の子にもそうだ。この子レズビアンじゃないか、と疑わせた女子はいないし、第一、女のことなんてゲイじゃなくてもよく分からない。いずれにせよ、香野の口振りでは問題はそういうところにはなさそうだ。
 では、何なのだろう。彼女は実は俺を大いに理解しているとか。そんなことを香野が知っているのは変な気がする。教師が介入することだと考えたほうがいい。“俺”というより“同性愛”に関係しているのかもしれない。
 まさか、ゲイのカップルに育てられたとか。養子によってそういうのがあるのは知っている。とはいえ、そういうことなら彼女は絶対有名なはずだ。彼女は性格はきついかもしれないけど、まったく普通の女の子にしか見えない。
 べつだん、話しかけてきそうな様子もない。桐島のような奴が現れたのだ、普通に接しようかと考える奴がいてもおかしくはない。あの日のすれちがったときの感じも、よく考えれば取り立てることではないのかもしれない。
 だが、香野も何でもない女生徒の名前を挙げて、かきみだす真似はしないだろう。わけ分かんないばっかだな、とむくれて、大根の煮つけを口に突っこむ。
 なめらかな風が前髪を舞い上げていく。染みこんだ味をもぐもぐとして、その涼しさに目を細めた。睫毛に青空がかすれる。何の音もない。そういえば、ここにいながら、非常階段を降りたいとは思っていない。
 不思議だ。自分が強くなったとは感じない。別に降りてもいいのだろうと思うのだ。でも、降りない。逃げ出して、知らないままにしておくわけにはいかない。絶対にやらなきゃと思っているからでなく、俺はやりたいと思っているからやる。
 学校に来る。逃げない。投げ出さない。
 そうしたいときは、桐島みたいにサボってしまってもいいのだろう。そして、そのうち戻ればいい。一度逃げれば、気の済むことなく横道に浸かって、戻ることが不可能になると思っていた。でも、今は休息を怖いとは思わない。嫌なことがあって、教室なんか見たくないとサボっても、桐島たちに会いにきっと戻れる。
 ひとりじゃないってすごいな、とピアスの痕みたいなれんこんの穴に箸をとおし、深井もそういう存在になるのかな、と俺は半眼の奥で今は現実感なくぼんやりと思った。

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