非常階段-82

射した光

 六月の席替えで、謎が解けそうな偶然が起こった。席替えは六月四日の月曜日、体育祭の紅白を決めるためにも早めにくじ引きでおこなわれた。俺は窓際側の前から四番目の席で、これといった誰かと同じ班になったわけではない。
 しかし、中央列で事は起こっていた。桐島はどこになったんだろ、と新しい席に引っ越すクラスメイトたちを縫って彼のすがたを捜し、面食らってしまった。
 中央列、前から二番目という席で、桐島は変な顔をしていた。教卓にとって目立つ席だから、ではなさそうだ。隣の席の女子と顔を合わせている。その女子は、深井亜里紗だった。
 教卓で席順を記録する香野もまじろいでいた。案の定こちらを見てきた香野に、俺は気弱に咲って、手提げや体操服のデイパックを脇にかける。
 ざわめきで聞き取れなくも、桐島と深井は何やら口をきいていた。何か起きそうだな、と予感しつつ席に着いた俺は、窓の向こうのからりとした天を見やった。
「柊くん」
 休み時間になると、桐島がさっそく訪ねてきた。配布された体育祭に関する用紙を手提げにしまっていた俺は、顔をあげてさっき香野にした笑みをまたやる。
「分かってるよ」
「あのくそ生意気な女。鼻で笑って何て言ったと思う、“はやてくん”」
 歯噛みする桐島を見つめ、「はやて」と体勢を正した俺は静かに問い返す。
「女に手えつけるのが早いんで、俺には実はそんな不本意なあだ名が。でも俺だって、女なら何でも手えつけるってわけじゃないんだぜ。信じろっ」
「あー、はいはい」
「ああいう女は、男女平等を疑わせるな」
 桐島は腕組みをすると、教卓で友達と溜まる深井を見やる。荷物をまとめる香野は、彼女たちの甲高い話し声に苦笑している。
「そんなに仲悪かったんだ」
 桐島は俺に向き直り、今は空席の前の席にもたれる。
「悪いっつうか、タイプが合わないのかな」
「喧嘩するほど仲がいいって感じ」
「あー。って、何を言いますか」
「違うのか」
「そもそも女として見るなんて無理だぞ。ったく、あの女が塩沢の何なんだろうな。香野は何か言ってたか」
「レズではないと思うって」
「深井に食いつかれる相手は、男だろうと女だろうと悲劇だな」
「誰が悲劇って?」
 こまねくまま桐島が神妙にうなずいたときだ。突然そんな声がかかり、俺たちはぱっと右を向いて目を開いた。
 そこでは深井亜里紗が腰に手をあて、ぎっと桐島を睨みつけていた。どぎまぎと狼狽える俺とは反対に、「ふん」と桐島は余裕のふてぶてしさでもたれるつくえに手をつく。
「女スパイにしては、顔が少々まずいな」
「るさいっ。ほんと、何であんたとまた同じクラスなんだろ」
「運命の黒い糸だな」
「やめてよ、気持ち悪い」
「それよりお姫様、いい加減、愛の告白で王子様の憂鬱をといてやれば」
 桐島はぽかんとする俺に顎をしゃくる。深井は桐島に大きな目を眇めたあと、こちらを見、俺はどきりとこわばった。彼女を意識しているみたいでも、この子が自分にとっていったい何なのか分からないから、硬直はほどけない。深井は桐島に睫毛を向けた。
「愛の告白って何?」
「しにきたんじゃないのか」
「先生に言われて、風通しの窓開けにきたの」
「ふん。鈍感」
 深井は桐島を子猫を殺された親猫のように睨みつけても、一応そばの窓を開けにいった。そういえば、教壇に香野のすがたはない。
 生温かさを帯びた風がちょうど舞いこみ、魔法の杖を向けられた反動みたいにふわりと髪を舞いあげた。深井は窓の向こうを見やって、しばらく止まっていた。紺色の襟と覗ける赤いスカーフが揺れ、白い生地に影が踊る。
 そのあと、こちらを振り向くと、俺にどこか作ったように咲ってきた。
「香野先生に聞いてるの?」
「え。あ、……まあ。少し」
「そう──」
 歩み戻ってきた深井は、焦れったそうに桐島を見たものの、この際言い逃れられないように屈託なく俺に続けた。
「あたしの家のことも?」
「え」と思いがけない言葉にまぶたを上げる。
「家……?」
 俺の反応に、深井はやや臆面すると、足元を一瞥し、すぐ笑みを取り繕う。
「そこは聞いてないの?」
「ま、まあ。ぜんぜん」
「そう。……そっか」
 深井は、視線を実の重さにしなだれた枝のように下げ、何か言いそうにわなないた唇を噛むと、継ぎ当てた笑顔を向けてきた。
「あの、何ていうか、あたし、ちょっと塩沢くんと話してみたいことがあったの。けど、よく考えると、いきなり迷惑なことだよね。だから、その……いいの」
 彼女の瞳は左右ちぐはぐで、その台詞が心にもないことは分かった。身を返して行ってしまいそうになった彼女を、慌てて呼び止める。
 深井は足を止め、なぜか崩れそうな顔をなるべく引き締めて俺をかえりみた。俺は、その震える音叉を近づけた水面のような瞳を見つめる。
「ほんとに、ただ、俺に迷惑なこと? 香野はそんな感じには言ってなかったけど」
 深井も俺を見つめ返した。口をはさまない桐島は興味深そうになりゆきを見守っている。深井は顔を伏せて陰った顔でじっと考えると、吐息を震わせた。
「……分かんない」
 周囲にかきけされそうに、抑圧された声だった。俺と桐島のあいだをすりぬけた風が、深井の揃った長さの前髪を揺らす。俺もつくえに放られた自分の手に目を落とした。
「俺を否定したいとかなら、」
「そ、そんなんじゃないっ。絶対にっ」
 さえぎって意気ごんだ深井に俺は臆し、そののち、瞳を緩くほどくと、「じゃあ」と微笑んだ。
「俺、いつもヒマだし。話したければ、話していいよ。その、桐島がまた学校サボったときとか」
「何だよ」と桐島は俺の額を小突き、「サボるじゃん」と俺はくすりとする。
「ふん。気が向くときと向かないときがあるんだよ。風だって吹くときと吹かないときがあるだろ」
「詩人」
 今度は頭をはたく桐島と俺のやりとりに、深井はようやく元通りの笑顔を取り返した。俺と桐島を交互に見た彼女は、「前から思ってたんだけど」と俺に顔を止める。
「何で桐島なんかと仲良くするの?」
「なんか!?」
「やっぱ、偏見しないから?」
「なんかって何」と深井に言ってはねられる桐島を見、笑みをもらして肩をすくめた。
「友達になりたいって思わせるからだよ」
 そのとき、「亜里紗」と教壇から声がかかった。「あ」と彼女はそちらを振り返り、「ごめん」と友人に手を振る。そして、こちらを見ると、「じゃあ、今度良ければ」と俺に言った。俺がうなずくと深井は微笑み、桐島には舌を出して友達のところに駆けていく。
「何これ」と桐島は俺に舌を出してみせ、俺は噴き出してしまった。
「へへ。でも、いい感じだな」
「いい感じ」
「『友達になりたい』」
 言われ直すと気恥ずかしさに頬が熱っぽくなる。桐島は愉しそうににやにやとした。
「柊ちゃん」
「……智也くん」
「やっぱいい感じだ」
 満足そうに笑う桐島に俺もつられて笑みになると、教卓にたどり着く深井に目をやった。桐島もそちらに首を捻じり、「深井があんな深刻そうにしてんの初めて見たな」とつぶやく。
「家って言ってたな」
 俺も少しまじめになり、ここはさすがに桐島も心当たりはないのか眉を渋める。
「あいつんち、何かあんのかね」
「ありそうに感じたことあった?」
「ない。授業参観でも母親とか来てたと思う」
「……そっか。まさか父親が──」
「そりゃあ、ない、だろ。だったら、あいつどうやって生まれたんだよ」
「無理して作ったとか」
「……で、冷えこんでる。とか。あー。でも、香野が内情知ってるんだぜ」
「あ、そっか。そこまで知ってるのもちょっと変だよな」
 何だかつい考えこんでも、「まあ」と桐島が五秒で切り上げた。
「ここに関しては、俺は部外者なんだよな。話してみろよ。俺がサボったときとか」
「ごめん」と俺は皮肉なのに笑い、「でも、桐島がいないとほんとヒマなんだ」と頬に触れる陽射しに窓を見る。
「恋人ができたら、友達なんかかえって邪魔だぜ」
「できるのかな」
「俺も夏休みまでに処理用見つけとかないと」
「処理用って」
「溜まるといらいらしてこないか」
 眉間を寄せて顔をよける。俺はまだ、そうセックスについてあけすけに語れない。頬を染めるしかできずにいると、「うりうり」と桐島は楽しそうに俺の頬をつついてにやついた。その手をはらうと、疼いた脳裏にちょっと重たいため息をもらす。
「一年のときにさ、手紙もらったことあるんだ」
「手紙」
「自分もゲイだから俺と話がしたいって。放課後、裏庭に行ったら、めちゃくちゃにリンチされた」
 桐島は俺を見つめ、俺は後味が悪くならないよう笑顔をかたちづくる。もうチャイムが鳴る。
「怖いんだ。もし告白とかされたって。自分から好きになるのも、……失恋ぐらいしてるし。今は桐島とふざけてるのでいい」
「智也です」
「はい。智也と」
「そっか。んー、だったらそう言ってもらえてるあいだに、俺も君を振りまわしておきましょうかね」
 にっと片目をつぶった桐島──もとい智也に次は自然に咲えたとき、ちょうどチャイムが鳴った。
「お」と預けていた席から腰を離した彼は、「じゃな」と残して席に向かい、隣に来た深井とまたぶつぶつやる。意外と似合ってるかもな、と内心笑いを噛み、俺は二時間目の英語の教科書を取り出した。
 家。恋愛。授業中、あんまりくつろげない言葉に俺の気分は曇っていた。
 だけど表情は淡々と保って、窓の向こうを飛んでいく鳥を眺める。
 深井のことも考えた。俺と彼女の家庭のあいだに、何が発生しているというのだろう。興味もあれど、あの思いつめた様子が何だか怖いとも思わせる。
 でも、香野も話したほうがよさそうに言っていた。別に桐──智也がサボらなくても知ってみないと、とクラスメイトのうまくない発音の朗読も上の空に、心を決めて神経を引き締めた。
 ──体育祭は例年通り、台風みたいなすごさとあっけなさで終わった。全授業、根こそぎ継ぎこんで励んだ練習も、本番が終われば作文を書かされるぐらいで跡形もなくなる。
 三年生は最後で燃えるとか聞いたことがあるが、俺はそんなことはなかった。智也も智也で、彼はしょっちゅう早退や休みで練習をサボっていた。しかし、とにかくいそがしかったわけで、深井とゆっくり話すことはまだできずにいる。
 快晴の体育祭の日、本番前から家族には「来なくていい」と言っていた。そうしたら本当に来なくて、智也もいなかったので、俺は香野に拾われて学校支給の昼食を取った。そのときも、深井の家について尋ねてみたものの、うまくはぐらかされてしまった。
 敷きつまる家族は、地区別のテントに分けられていても、俺はそもそも深井の家がマンションか一軒家かも知らない。彼女の家族を見つけることはできず、黙って閉会式を待った。
 汗と土にくたびれた体操服で、ひとり帰ろうと校門にさしかかったとき、「よお」と声がかかって顔をあげた。そこには、校門に背中を預ける私服すがたの智也がいた。
「……桐島」
 夕焼けの中、ほうけて突っ立った俺に、彼は苦笑いしながら歩みよってくる。
「俺の名前ってそんなに言いづらい?」
「あ、……智也。どうしたんだ」
「ひとりなのか」
 智也は俺の周囲を見まわし、「まあね」と俺は肩をすくめて目をそらした。涼しくなってきた風が、夕暮れの桜の葉をさざめかせる。
「『来なくていい』って言ってたから」
「で、ほんとに来ないのか。すごいな」
 智也は風に揺れた前髪をはらい、腰をかがめて俺を覗きこむとにっとした。
「でも、そんなことだろうと思って、お迎えにきました」
 目を開くと、彼はぜんぜん同情とかではない悪戯っぽさで、家族たちが流れていく校門を顎でしめした。
「一緒に帰ろうぜ」
 智也のいつもの悪ガキの笑みが、どんなに深く俺の胸に突き刺さったか分からない。泣きそうになったけど、手の中に爪を食いこませてこらえた。でもやっぱり目を濡らしかけながら俺がうなずくと、智也は再びにっとして俺の肩をたたいた。
「智也は、今日何してたんだ?」
 坂道では今年も影がすごく長かった。車道に伸びたたくさんのそれを、橙色に光る様々な車がどんどん轢いていく。俺の疲れた足取りに合わせる智也は、俺の問いにあっさり答えた。
「家で寝てた」
「………、親は」
「仕事」
 仕事。日曜に。深長な気もしたけど、何も訊かなかった。汗を冷たくすりぬける風に、俺は下を向いて咲う。
「俺、そっちに遊びにいけばよかったかな」
「はは。そうだな。そしたら俺も楽しかったのに」
 景色は空の綯い混ざった暖色に満ちている。俺も桐島もその色に染まっている。二年前のこの日の色も、こんなふうだった。
「体育祭の帰りは苦手なんだ。一年生のとき、何にもなかったときの帰りを思い出す。去年はひとりで帰った」
 俺は智也の橙々が染みこむ瞳に咲いかけ、「ありがと」と素直に言った。彼はばつが悪い子供みたいに咲いかえすと、「明日の代休には遊びにいくか」と頭の後ろに手を組んだ。
 家にいると疲れる俺は、翌日、そうさせてもらった。そのうち自然と彼を「智也」と呼べるようになり、彼も俺を何気なく「柊」と呼ぶようになった。
 智也といると、二年生のとき弓倉なんかを信じた自分がますます分からない。そしてその前を思い出し、智也には賢司に対するようにときめいたりしないのも確認した。
 彼とは友達だ。本当に──俺にもやっと、そのままのすがたで分かりあえる親友ができたのだ。

第八十三章へ

error: