教育実習生【1】
六月の下旬に入って空には雲が目立つその朝、香野は若い女の人を連れて教室にやってきた。
緩やかなウェーヴを肩まで伸ばし、すらりとした色白に淑やかな淡いすみれ色のワンピースが似合っている。物静かで綺麗な顔立ちをしていた。
きっと、前から聞いていた人だ。
教卓に出席簿を置いた香野は、「静かに」とざわめく生徒たちを抑えると、まだ教壇にのぼらず黒板の脇に立つその女の人をしめした。
「彼女が、以前から話していた教育実習生の白城実佳子さんだ」
生徒たちの視線が集まり、彼女は思いの外はにかむよりおっとりと微笑んだ。
「こっちに」と香野は彼女を教壇に上がらせると、自分は窓際に引く。代わりに教卓の前に立った彼女は、やや緊張した色合いも見せたものの、注目して雑音はひかえる生徒たちに笑顔を作った。
「白城実佳子です。一週間しかいられませんが、そのあいだに、精一杯皆さんからいろんなことを学びたいと思っています。昼休みと放課後には、お話できる時間もあると思います。よろしくお願いします」
「お願いしまーす」と教室の半分ぐらいが何となく返す。
俺は黙って、彼女のなめらかな鼻梁の線を眺めていた。量感のある軆ではなくも、ほっそりとしている。美人だ。けどやっぱ女だから何もないかな、と頬杖をついて窓に横目をし、色めく男子生徒から参加もしないまま外れた。
天気予報によると、雨になるのは夜で、今は日陰の湿った空気が肌寒い。雨が近づくほど蒸し暑くなってくるのだろう。登校中には雨の気配が匂っていたけど、まだ雲の切れめには灰色っぽい空がちらほら覗いている。
「何か白城先生に質問はあるか」
「彼氏はいるんですか!」
すかさず声をあげた男子生徒に笑いが渦潮し、香野はあきれた目で白城に目配せする。自由に答えろ、ということだろう。白城はちょっと弱った様子をしたが、かぼそい両手を少し教卓に押しつけただけで笑顔は保った。
「残念ながらいません。そうですね、皆さんのおにいさんの紹介も期待してます」
白城は茶色がかった髪をかんざしを刺すような仕草で耳にかけ、「じゃあ」と香野を向いた。苦笑いしていた香野は、うなずくと教卓に戻って出席を取る。
俺はその様子を見届けると、空っぽのつくえにため息をついた。女には男。分かっているけど──
憂鬱にまぶたを虚脱させかけ、だが視界の右端に引っかかったものにはっと顔をあげた。震えるセーラー服の肩だった。両脇に縛った髪の毛先もかすかに揺れている。
隣の列の前から二番目──深井だ。吐き気で催しているように、首をかがめて身を堅くしている。何かこらえているのか。後ろすがただと泣いているようでもある。
何。何だろう。白城に何かあるのか。白城に深井に個人的に目を止めるそぶりはない。深井の隣の席の智也も、無視しているだけで気はついている横顔だった。
「今年の教育実習生は、非常に好みだなー」
一時間目が終わった休み時間、やってきた俺に智也はこまねいて満足そうにした。
「……セクハラ上司みたいだぜ」
「何」
「いえ」
「ああいうのいいと思わん?」
「俺に訊かれても」
「男でも弱々しそうなのいるじゃん」
起動ボタンのような天井の火災報知機のあたりを見る。あの幼なじみしか好きになったことがなく、俺は好みなんていまいち把握していない。
「分かんないよ」
「前から気になってたんだよな。お前って男役?」
「男……」
「カマっぽくはないじゃん」
「………、まあ」
言葉に余って、蟹歩きで目を横にそらす。背中の教壇のほうで、男のバカ笑いが弾けている。
そう、なのだろうか。分からない。俺は賢司を好きになったけど、そんなところまで考えなかったし、考えたくもなかった。芸能人で女っぽいゲイはよく受け入れられている。
もしかして俺が普通に男だからみんな受け入れにくいのか、とふと複雑になる俺をよそに、智也は椅子にもたれて迷彩柄の下敷きで自分を仰いだ。
「あの人は処女かなあ」
前髪を舞い上げる智也に、何とも言えない目を向けた。隣の席に深井はいない。教室の後ろの壁で、友達と談笑している。
俺の視線をたどった智也は、「おい」と俺の開襟シャツの胸倉をつかんで、ぐいと顔を近づけた。
「女で言ったらあいつがタイプなんて言うなら、さてはお前、女役だな」
尋問するもったいぶった刑事みたいな智也の眉間に、俺まで眉を寄せる。
「お前の頭の中はやることだけかよ」
智也の手をはらって胸元を正した。智也は無邪気ににっこりとした。
「楽しいよ」
「……はいはい」
「処女なわけねえよなあ。意外とやり手とか」
「深井が」
「白城に決まってんだろ。深井は一生石だ」
「……顔はかわいいと思うけど」
智也は目を眇めると、煙草でもふかすように息をついた。
「確かにゲイは女に優しいって聞くけどさ」
「え、そうなのか」
「違うのか」
「ゲイは女を差別しそうな」
「そういうのもいるな。ちっ、結局個人の性格で、ゲイってのは関係ないんじゃねえか」
智也を見つめ、つい笑みをもらしてしまった。俺は、彼のそういう何気ない理解が好きだ。首をかたむけた智也に首を振ると、表情を締め直して深井を見た。
「さっきの深井に、気づいてたんだろ」
「何」
「さっき。何か、泣いてるような」
「泣いてはなかった」
視線を下ろすと、智也は下敷きをひるがえして、今度は黙秘の犯人のようにそっぽをした。
「智也」
「……あー、はいはい。気づいてましたよ。でも単なる朝食の食いすぎなんじゃねえの」
「俺、一瞬、白城に何かあるのかと思った」
「何かって何」
「……よく考えると、何となくだ」
「女は天気で具合が悪くなるらしいぜ。俺、昔は怖かったもんだよ、なぜか月に一回母親がえらく不機嫌になるの」
しばらくぽかんとしたあと、その意味を解してじわじわと頬を引き攣らせた。そして色をつけて睫毛を伏せる。この男は──。
「恥ずかしくないか、そういう話題」
「別に。深井が心配なら、あいつに訊けば」
「心配っつうか。いや、そんな可能性聞かされたあとで訊けるかよ」
「はは。家のことは聞いたのか」
「ぜんぜん」
「何なんだよな。焦らしやがって。やっぱり、柊から訊いてくんの待ってんのかな」
「俺から」としばたくと、智也は頬杖をついて背後に首を捻じる。深井はいつのまにか、こちらに背を向けている。
「あの様子だったじゃん」
紺の襟と、それに覗ける赤いスカーフを見つめた。それが窓が飲みこんだ暖かな風に舞った光景がよみがえり、あの日のずいぶん引け腰だった彼女もよぎる。「うん」と残像に失明するままうなずくと、下を向いてつくえに視覚を取り戻した。
智也はなおも白城についてあれこれ言い、俺がその額を小突いていると、チャイムが鳴った。「あ」と視線を上げた俺は、智也に軽く手を振ると自分の席に戻る。
次は数学だ。数学の教師に教育実習生はついていなくて、授業は普段と変わらない。
窓を見ると、一時間目より空が雨雲に埋まっていた。できあがっていくパズルみたいだ。
深井の様子に、特に陰はなかった。やはり体調が悪いというより、あのときに何か精神的な忍耐を使ったのではないか。でも、何に耐えたのだろう。深井と白城に関係があるようには見えなかったが──
小刻みの髪と肩が瞳の中から取れない。いろいろ意味深な子だよな、と深井の背中を盗み見て、ため息を胸にひそめた。
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