非常階段-84

教育実習生【2】

 教育実習生の白城は、けっこう生徒に人気だった。男に持てはやされるより、意外と女の子たちと気さくに親しくなっている。もちろんちょっかいを出す男子もいる。
 智也もどうこう褒めているが、本人に接近はしていない。「本気にしない相手ほど、マジになって損するもんはないんだぜ」と彼は言う。俺も白城とは特に接点はなかった。
「智也って、経験豊富そうに言うよな」
「親が経験豊富で、吹きこまれるんだよ」
 体育の授業の帰りで、俺たちは肩にナップザックなりデイパックなりを下げている。授業は体育館でだった。今日は天気はいいのだが、何しろ昨日までが台風通過のどしゃぶりだったから、あちこちがぬかるんでいる。
 開けられた窓が、階段のざわめきを空に逃がしていた。
「智也の親とは、まだ顔合わせてないな」
「俺も柊の親見たことない」
「会ってもしょうがないよ」
「息子にそう言われちゃ、みじめなもんだな」
 智也を一瞥しても、何も言わずに二階にたどりついた。廊下の窓が深く吸いこんだ風が、汗ばんだ匂いの前髪を冷ます。俺たちは折り返して、三階に向かった。
「白城は明日で終わりなんだよな」
「大学に男を残してる早さだな」
「元から期間決まってるんだろ。それに、彼氏はいないって言ってたじゃん」
「先公はジョークとユーモアが命」
「受け売り?」
「俺の持論。堅物で退屈な教師って、嫌われるのがオチじゃん」
「でも、教師のジョークって理解しがたいときが」
「才能ないくせに、紙だけで先公になるからさ」
 智也は踊り場ですれちがいざまの女の子をひらりとよけ、そのしっかりした肩でナップザックを跳ねさせる。そして一歩先に階段に足をつけた。
「白城はどうだろ」
「さあな。教育実習生は物珍しさでだいたい受けるし」
「褒めまくってるくせに、そういうとこはシビアだな」
「嘘を言わないと言え」
 笑っていると三階に到着し、右手に曲がって二番目の教室に入った。三年五組は、同学年では六組としか並んでいない。
 生徒は半分ぐらいの教室で、俺と智也は彼の席に溜まって水筒を開けた。智也はしょっちゅうコーラだのジュースだのを持ってくる。彼曰く、酒じゃないからマシなのだそうだ。さすが俺を偏見しない奴、と思ってしまうのが少々情けない。
 さっきの体育の授業での仲間外れとか、嫌がらせはちょくちょくあるけど、お茶が泥水にされているようなのは減った。単純に、非常階段に行くより智也と教室にいるのが増えたせいだろう。
「香野はさ」
 つくえに寄りかかって言うと、「ん」とつくえに座る智也は振り返る。
「才能あるんだろ」
 俺は指先を冷やす麦茶を見つめている。今日の智也の飲みものは、香りからしてカルピスだ。彼はそれを飲み干すと、コップ兼ふたを氷を響かす水筒にかぶせた。
「ま、成長のおつむはあるな」
 智也を肘で突いて、俺は香ばしい麦茶を飲んだ。智也がからからとしていると、「ねえ」とソプラノの声がかかって、俺たちは顔を向ける。そして、一緒にどきりとまたたいた。
 そこにいるのは、白いブラウスに水色のスカートの白城だった。
「な、何ですか」
 こういうとき、反応が早いのはいつも智也だ。しかし今日は余裕とまではいかず、いささか面食らうまま、きゅっと水筒を閉める。確かにカルピスは香りが強くも、息で分かると思うのだが。
「ええと、あなたは桐島くんね」
「まあ」
「てことは、君が塩沢くんか」
 穏やかな瞳を向けられ、狼狽えつつもうなずく。この搏動は、もちろんときめきでなく、ただビビっているのだ。
「あのね、いきなりなんだけど。今日の昼休みか放課後、ヒマかな?」
「え」
「香野先生に、君とはぜひ一度話しておいたほうがいいって言われてるの」
 智也と顔を合わせた。「実佳子先生」と教室に帰ってきた女子連中が声をかけてくる。「ちょっとごめんね」と白城はそちらに微笑み、俺は無造作に水筒のふたを閉めた。
「ダメかしら」
 向き直ってきた白城に目をあげ、肩をすくめる。
「俺は普通の生徒ですよ」
「う、うん。でも──」
「ゲイってそんなに興味深い目立つものですか」
 すくんだ顔つきになった白城に俺も口をつぐんでも、うつむいて謝りはしなかった。
 だって、そうだ。俺は突然変異の特殊生物ではない。かたくなに唇を噛み、心臓の脈は次第に沈めていく。
「香野が言ったんですか」
 ふと気軽な口調で口を挟んだ智也に、白城はそちらを見てうなずいた。
「教師になったあとに、すべきじゃない失敗を防げるって」
 はっと息を飲んだ。あの日の香野のセピア色の話がよぎった。手の中にくすんだ銀色の水筒を握りしめると、俺は顔を上げた。
「いいですよ」
 白城は優しい匂いの髪を揺らして、こちらにしばたいた。
「昼休みでも放課後でも、どっちでもいいです。ふたりでですか?」
「え、ええ。ほんとにいいの?」
「構いませんよ」
「そう。よかった。じゃあゆっくり話したいし、放課後で」
「分かりました」
 白城はほっと笑みをこぼすと、「実佳子先生」と教卓でせがむ女子連中のほうへ苦笑混じりに歩いていった。「あのカップルに何か用あったの」とポニーテールの女子が言い、「こら」と白城はその子を軽く小突く。俺と智也は、再び顔を合わせた。
「カップルだって」
「愛してるわ」
「俺はお前、タイプじゃないよ」
 智也は俺をはたくとつくえを飛び降り、しゃがんで水筒をデイパックにしまった。「よかったのか」と彼はこちらを見ずにデイパックにかぶせをかける。
「まあね。あの人の生徒になった、俺と同じ奴のためになるならさ」
 智也は顔を仰がせ、立ち上がると誇らしげに鼻で咲った。それに咲い返したときチャイムが鳴り、慌てて脚に体重を戻すと、智也には手を振って席に帰る。
 次は四時間目の国語だ。入ってきたのは香野で、挨拶を済ますと授業が始まる。教壇に立つのは白城で、俺は窓際で彼女を見守る香野を見つめた。そして内心、やっぱ才能あるよな、とうなずくと、久しぶりに陽射しの入るつくえに教科書を広げた。
 かくしてその放課後、俺は白城と教室に残った。人払いはしない教室だから、智也は黒板に脈絡ない落書きをして俺を待っている。
 俺とばかりつるんでいる彼だが、「変な絵」と立ち止まって感想を述べるクラスメイトはけっこういる。“はやて”の異名を取っておいた功績だろうか。どうこう言いつつ、本気で智也がゲイだとかバイだとか思っている奴はいないようだ。
 俺は自分のつくえに座り、白城は隣の席の椅子を借りる。彼女の背後の濡れたあとが透ける窓は、陽光にすっかり乾いて染みになっていた。
「香野先生に前もって聞かされたときは、驚いたわ」
 口火を切ったのは白城のそんな静かな台詞だった。
「私、教師になるからには、今の子供たちのむずかしい問題に耐えられる強さを持たなくちゃダメだって思ってたけど、ごめんね。あなたみたいな子は、考えたこともなかった」
 彼女のほっそりした手首にまといつく、金の鎖の時計を見つめていた。ちょっと顔を上げると、どう答えたらいいのか、とりあえずぼそりと返す。
「普通はそうだと思うけど」
 白城は情けなさそうに微笑み、黒板にごちゃごちゃ描きこんで男子生徒に批評される智也を見やった。かよわそうな首に、波打つ髪がかかる。
「彼は、すごいわね。香野先生もおっしゃってたわ。嫌ってる先生もいるけど、今の時代にあんな生徒を持てたのは僕の誇りだって」
 俺も智也を見やると、口元にわずかに笑みをほどく。
「俺も、あいつはすごいと思ってます。俺はあいつが想ってくれるようには、自分を前向きに考えられないから」
 白城は俺に目を戻し、俺は今度は彼女の瞳に弱くても笑みを作れた。
「いろいろあったし」
「いろいろ」
「二年までは、何回も死にたいとか思った。今日こそ学校をやめるって毎日考えてた。友達も全部失くしてゼロになるどころか、軽蔑されてマイナスばっかで。一年と二年の担任は、そんな俺を、たぶんどっかでは、当然とか見てたと思う」
 白城は瞳を傷めたが、言葉が及ばない様子で下手ななぐさめは言わなかった。
「そのぶん、あんなに理解してる智也も香野も初めは信じられなかった。今でもちょっと信じられない、都合よすぎる気がして。でも、智也も香野も俺に嘘ついてないんですよね。何か、すごい。もし俺が反対の立場だったら、そんなふうにできたか分からない」
 開いた膝のあいだで丸める両手に首を垂らした。降りた前髪に陽射しが透ける。雑音が低くなっていく教室で、智也のチョークと白城の身動ぎはよく響いた。
「二年生まで、つらいことが多かったのね」
 前髪の合間で上目をすると、「まあ」とうなずく。白城は俺の瞳をまっすぐに見つめた。
「どうして、それでも学校に来たの? やめるって思っても、それでも来たのよね。今は、よくあるって言ったら悪いけど、不登校とかサボるとかあるじゃない?」
 もう一度、丸めた手に視線を落とした。どうして。いろんな想いが錯綜しているから簡潔に言える自信はなかったが、うなだれるままとりあえず口を開いて、声を放した。
「自分は、普通だと思ったから」
「普通」
「大半は単に臆病さだったかもしれないけど、そんな気持ちもあった。不登校もサボりも、悪いとは思わない。あっていいと思う。ただそういう奴って、学校に来たくないって思うんですよね。不良でサボるのも、イジメで来れなくなるのも、逃げるっていうより、そういう道に進んだって感じで。俺は、人と違う道に進む特別な奴じゃないんです。やめたほうがいいとは何度も思ったけど、やめたいとは思わなかった。そんな俺がそういう道に行くのは、自分は異常ですって認める行動に思えて」
 言葉を切って息をついたあと、語弊がある気がして急いで顔を上げる。
「もちろん、ゲイでそっちに行く奴もいると思いますよ。そういう奴は異常って意味じゃなくて。そいつは、強いんです。俺はレールを外れて生きられるほど強くないし。当たり前の生活をしててもいい、とも思うから、強がったって一番後悔しそうで」
 継ぎ接ぎの言い方で、うまく伝わっているか分からない。白城はじっとまじめに俺を見つめていた。俺が決まり悪く咲うと、我に返った様子で深刻そうに目を伏せた。
「強いのね」
「え」
「桐島くんがあなたを友達にしたの、何となく分かるわ。あなたのような人、テレビや本でしか見たことがなかった私のほうが弱いわね」
 血管が透けそうな白城の透明感のある手は、強くこぶしを握っていた。それを金縛りが蒸発したようにふっとほどくと、強い意志を据えて白城は俺と瞳を重ねた。
「こんな時代で、教職を取ったところで就職口があるかは分からないの。でも、約束するわ。もし生徒を持ったら、私は香野先生のようにあなたのような子たちを守るわ」
 白城の揺るぎない瞳を見つめると、咲って、こくんとした。すると彼女も微笑み、「勉強になったわ」と礼を言う。俺は首を振ると、ちょっとだけ照れ咲いし、智也を向いた。最後のほうは聞こえていただろう。
 いつのまにか教室は三人だけになっている。批評されなくなっても絵を描く智也の後ろすがたは、相変わらず飄々としていた。
「智也」
 俺の声がかかって、彼はようやく振り返る。俺はつくえを降り、立ち上がる白城に目礼すると、手提げを取って彼に笑みを作った。
「じゃあ、帰ろうぜ」
 智也は俺を見つめると、手をはらいながら案の定にっとした。

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