彼女の事情【1】
「白城先生」
肩にデイパックを引っかける智也は、教室を出る前にそう出入口で白城を振り返った。先に廊下に出ていた俺も、足を止めてそちらを向く。
智也は軆も教室内に向けると、「何かしら」と教卓に置いていた鍵とノートを取る白城に躊躇なく訊いた。
「深井亜里紗に、何か心当たりはありますか」
「え」
「深井亜里紗。俺の隣の席の」
「……あ、熊笹さんたちと仲がいい子かしら」
「そうです。あいつに何か心当たりあります?」
智也が言いたいことが分かって、俺も頬をこわばらせた。だが、白城の固まりきらないとまどった表情は演技ではなさそうだ。
「心当たりって」
「元から知り合いとか」
「まさか。どうして?」
智也は俺に首を捻じった。俺はその無感覚な目に肩をすくめる。白城は手に取ったものを抱えて歩み寄ってきた。
「深井さんと私に何かあるの?」
智也は彼女に向き直ると「別に」と廊下に引いて道を開けた。
「先生に心当たりがないなら、やっぱり関係ないんでしょうね」
深長な言い方に、知らない言語の呪いを聞かされたように白城はまごついている。そこで俺が先週の深井の様子を語り、とはいえ、あれ以降には深井は白城におかしなそぶりは見せていないのをつけくわえた。
教室に鍵をかけると、白城を挟んで三人で階段を降りていく。俺たちのほうが、彼女より数センチ背が高い。
「そうね」
俺の説明に、白城は複雑そうに空中を見つめた。
「私も特に、深井さんの様子が目にとまったことはないけど──。そうだったの。初日はすごく緊張してたのよ」
「二年のときは、そんなダークな奴じゃなかったのに」
「俺には意味深な子だよ」
「家に何かあるらしいんですよね」
「家」と右隣の智也に白城はつぶやき、むずかしそうな息をついた。家庭、性、恋や友情、こんな時代の子供相手に教師になろうなんて、確かに大胆な選択かもしれない。
二階と三階の踊り場には、すでに陽しか射していなかった。
「先生は、何で教師になろうと思ったんですか」
どこかに聞こえる話し声も遠くて、響く声で俺が訊くと、白城はこちらを向いて曖昧に咲った。
「むずかしい質問ね」
「そうですか?」
「………、そうね、私の中学時代はちょうどイジメや自殺がひどかったのよ。もちろん今もひどいのよね、いつのまにか当たり前になってしまった。私は何かされたわけじゃないし、何かしたわけでもない。でも、どちらかといえばイジメる子の気持ちのほうが分かったわ」
「意外」と智也が口を挟むと白城は少し咲い、スカートの裾をひるがえして階段を折り返す。
「そういうことする子は、何も考えてないのよね。だからつかみどころがない。何もできない先生たちによく思ったわ、頭では何も考えてないかもしれないけど、本人も分からない心の奥でストレスを感じてるのよって」
二階と一階の踊り場では、男子生徒と女子生徒がひそひそ話をしていた。俺たちが通りかかって、露骨にそっぽをしあったのが何だか笑えた。
一階に着くと、渡り廊下を行きながら白城は俺を見た。
「塩沢くんは、みんなにいろいろ言われたりされたりしてるのよね」
「ん、まあ」
「でもきっとね、塩沢くんをほんとに憎んでる人は少ないと思うの。みんな自分が不安定だから、いい口実がある塩沢くんをはけ口にしてしまうんじゃないかしら。ゲイだからイジメられてるとか思って、自信を失くしていく必要はないと思うの」
白城を見つめると、うなずいて笑みを作った。窓に滑りこんだ風に髪を香らせながら白城も微笑み返し、「塩沢くんを直視できる桐島くんもすごいと思うわ」と智也を向く。智也は肩をすくめると、「つきあってくれないのに褒めないでください」と答えて咲われていた。
「彼女、才能あるかもね」
台風で毛虫の死骸は一掃された坂道で、智也はそう述べた。俺はうなずき、重なりあった雲の流れる天を仰ぐ。台風の名残の涼しい風が桜並木をざわつかせ、髪や頬を撫でていく。
「しかし、白城が心当たりないっつうことは、あの女、何なんだろうな」
見当たる制服はまばらで、下校生徒の濁流はとうに引いているから、ゆっくり背伸びをして智也も空に顔を向ける。俺はいったんその桜の葉の影が映る横顔を見ても、「うん」と混ぜかかった絵の具のような白と灰色の雲を見上げ直した。
「もうじき七月だな」
「期末だ」
「……ん、まあ。そのあと夏休みじゃん」
「あ、どこ行く?」
「いや、受験勉強だろ」
「ふん。俺は遊ぶ」
「とにかく、その前には聞きたいな。遊びにしろ勉強にしろ、手えつかないよ」
「だなー」
脇を車が通り過ぎて、せっかくのいい風が排気に汚れる。俺の人生みたいだな、と思う。今日は良さそうだと思った日に限って、何かある。そして、その日を死ぬまで思い出したくない日だと決めつける。
いつか、汚れたことばかりに気を取られるのでなく、良さそうな日だと思えたこともあったと、そちらを重視できるようになりたい。嫌なことはだいたい勝手にやってくるけど、いいことはけっこう自分で作れる。
これまでは反対に感じていた。だが、例えばこうして、友達と話す。好きな漫画を読む。共感できる音楽を聴く。そういうことをできるだけで幸せだと感じるほど、“いいこと”は単純になる。
「彼女にとってもそうかも」
「ん」
「深井も、さっさと俺に話したいこと吐き出したほうが、夏休み楽しめるかも」
智也は俺を見つめると、芝居ぶって神妙な面持ちになった。
「確かにあいつは男みたいだけど──」
最後まで言わせずに智也をはたいた。彼はげらげらとすると、道路を渡ってビル沿いに入る。
俺も車道に伸びかける彼の影を追いかけて道路を渡り、「期末が片づいたら深井に訊いてみるよ」と並んだ智也に言って、うなずいてもらった。
期末の結果は、中間より良かった。受験生としてはいい傾向だが、これまでがこれまでだったから、平均的には特に芳しくない。
でも、智也はそんな俺よりもっと悪い、ヒラメ並みに底を這う点数でも気にしない。「要は受験でいい点取りゃいいんだろ」と言うブーメランだらけの答案用紙をひらつかせる発言が、投げやりになっているのか、やる気を出していないということなのかは、いまひとつ謎だ。
答案用紙の返還も片づいた週末、「だいたいだな」と智也は駅前の喫茶店で、コーラのグラスをからころと揺らした。
「俺も君も、状況が悪いんだよ」
昨日は発酵させるみたいに部屋に引きこもっていたけど、日曜日の今日は智也と約束していたので、こうして外に出てきた。
智也は水色のむら染めと黒のラグランシャツに黒いポリエステルパンツを合わせている。俺はベージュのTシャツに迷彩柄のパンツだ。
T字路で落ち合って電車で町を離れると、特に行くあてもなかったので、ひとまずこの涼しい喫茶店に入った。ふたりがけのテーブルが面する窓の向こうは、人混みとアスファルトが反射する日射で煮え立っている。
「状況ですか」
「気になることがあるってのは、生活にバカげた支障をきたすのさ」
上目で智也を眺めながら、ストローで特有の香りの烏龍茶を飲んだ。水晶の破片のような氷が通った冷たさは、喉には心地よくも、味は本格派ぶっているのか苦い。
「話したいことがあるって言われたの、いつ頃だっけ」
「少なくとも一ヵ月は経ってるな。体育祭の前だったろ」
「気になってんのかなあ、やっぱ」
「あ、知らなくてもいいのか」
「いや、そりゃあ、まあ──すっきりさせられるならしたいよ」
「喉につっかえるもんは、やがて呼吸まで乱してくる。点数が悪かったのは、そのせいもあるのさ」
ストローを刺さない智也は、水滴の流れるグラスをつかんで、がぶりとコーラを喉に流す。
「それが全部じゃないだろ」
「とりあえずそこが片づけば、次はちょっとマシなんだよ」
「智也も成績気にするんだ」
「俺は気にしないけど、親がさあ。『裏口入学の金なんかないからね』とか言うんだよなー」
ちょっと噴き出し、「夏休みになったら、お前んち行ってみたいな」とストローで氷をざくざくと掘る。「うん」と智也はグラスをコースターに置くとにっとした。
「俺んちの親も、君に興味ありそうだった」
「興味、か」
「お宅の親はどうよ。俺のこと訊いてきたりする?」
「ぜんぜん。口きかないし。生活微妙にずらしてるし」
「深刻だな」
「……うん。何か、自分ちがそうだから、よけい訊きにくいんだよな。深井。家のことなんだろ」
「らしいな」
頬杖をつき、低いクラシックが聞き取れる落ち着いた店内から外の大通りを見やった。
いろんな人が混ぜ返っている。暑そうな人、楽しそうな人、だるそうな人、いそがしそうな人。赤信号か渋滞で、種々の車がくまなく並んでいる。
あの日の深井の細かい様子はかすれてきていても、いくつかの言葉や仕草は、いまだ歯がゆく引っかかっている。ひるがえる襟とスカーフ、抑圧された声と瞳、俺と話したいことがある──
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