彼女の事情【2】
「明日、訊くんだろ」
コーラを飲み干す智也に向き直ると、「そのつもりだけど」とひと口烏龍茶をすすった。やっぱり、ペットボトルや缶の味のほうが柔らかい。
「あっちが吹っかけてきたんだ。気にすんなよ」
「何か話があるのかって切り出したのはこっちだぜ」
「あいつが肯定したから、あっちが悪いんだよ」
「悪いって」
「あーっ、気になるっ。何でこんなに焦らされなきゃいけないんだよ。ストリップでもあるまいしっ」
そういうわけで、翌日、俺たちは獲物を眺めるふくろうのように深井の様子を観察することになった。席替えで智也と深井の席は離れてしまったから、他人に戻っていて切っかけがない。
休み時間は、彼女は友達と盛り上がっているのが多くて、声をかけにくい。手紙をさしいれるなんて恥ずかしいし、彼女のケータイのメアドも知らないし、智也は知りたがるくせに俺自身に踏み出させようとする。彼の言い分としては、自分が話しかけても口喧嘩になり、本題に入るのは不可能だろうということだ。一理ある。
仲介頼むなら香野だな、と甘えさせてくれない智也と昼食をとりおえて弁当箱を片づけた昼休み、ふと見ると、いつのまにか深井がひとりで窓際で空を眺めていた。
「やった、チャンスだ」
太陽にかざしたガラス玉のようににやりと瞳を光らせた智也に、「でも」とこの期に及んで躊躇う。
素人が殺しをやろうとするみたいに、いざとなると何だか怖かった。俺は、彼女の何を知ってしまうのだろう。知って取り返しのつかないことだったら。俺は本当に、尋ねる責任をとって彼女の話し相手になれるのか。
そんなご託をうじうじ述べると、じれったく眉をゆがめた智也に、どんと背中を押された。前のめってぶつかったつくえに手をつくと、智也を振り返る。彼はきっぱり深井に顎をしゃくる。
前髪を垂らしてうなだれ、仕方なく胸に曇る不安はため息で少し吐き出すと、にぎやかなクラスメイトたちを避けて、深井の後ろすがたにそろそろと歩み寄った。
「あ、あの──」
深井は今日も縛っている髪を揺らして振り向いてきた。そして、俺のすがたを認めて開かれた目に、俺はついあやふやな笑みを浮かべる。
彼女の艶々した頬には、晴天の日射しがすべりこんでいた。
「塩沢くん……」
「ええと、その、あの──今、ヒマかな」
彼女は大きな澄んだ瞳で俺を見つめると、くすりとしてうなずいた。
「香保子たちは、委員の集まりにいっちゃってさ。あたしだけ、美化委員なの。じゃんけんに負けたから」
「そ、そっか。えと、空、何かあんの」
深井の隣に立つと、俺は彼女が見ていた空をぎこちなく見上げる。自分でも、首の動きが油の足りない機械みたいだと思う。
「別に──」
深井は切り揃えた前髪をそよがせ、白雲がたなびく青い空に目を戻した。その瞳は深く内面にもぐっていて、俺は言わなくても彼女に全部悟られたのを知る。きしめく緊張より、こわばる緊張に突っ立っていると、深井は俺を見上げて無理をするように咲った。
「あのことでしょ」
「え」
「試験も終わったもんね。あたしも話したかったんだけど、機会がなくて」
深井の睫毛は床に陰る。三階の涼しい夏風が、滲む汗を静かに冷やす。
「ほんとは、ふたりで話したいことなんだ」
「ふたり、で」
深井は、あのときのように笑顔を取り繕った。彼女のことは、結局気になってよく見ていた。そんな笑顔が似合わないのは、あのときよりもっと分かる。
「夏休み、やっぱ桐島と遊ぶの? いや、勉強かな」
「ん。まあ、どっちもかな」
「そっか。じゃあいそがしいね。塾とかは?」
「行ってないよ」
「そう。良ければね、夏休みにあたしの家に来てほしいの」
「えっ。い、家──」
心臓も肩も揺らしてどぎまぎ狼狽える俺に、深井は噴き出して俺の肩をたたく。
「変な意味じゃないよ。大丈夫。親とね、約束してるの。絶対塩沢くんを連れてくるって」
「お、親と?」
「あたしと君が今年同じクラスなの、偶然じゃないんだよ。知ってた?」
たたみかける混乱に言葉もなく、かろうじて首を振った。が、「『偶然じゃない』って」と聞き捨てならない台詞に、喉はすぐに声を取り戻す。
「そう。去年、両親が学校に頼みまくったの。亜里紗と塩沢くんを同じクラスにしてくださいって。香野先生が事情聞いて力入れてくれて、見事同じクラスになれたんだよね」
「はあ」とそんなのもありうるのかとぽかんとしかけたが、「事情」とまた深長な言葉に首をかたむける。深井は一瞬また瞳の奥を暗くさせかけたが、うつむく前に俺の瞳を見据えてはっきり言った。
「塩沢くんに会ってほしい人がいるの」
「会って……ほしい」
「あたしには、兄貴がいるの。その兄貴に会ってほしいの」
「兄貴──」
「兄貴もゲイなの」
俺は目を剥いた。深井はまぶたを崩して、足元に顔を背けた。
「でもあたし、兄貴の顔、何年も見てない。引きこもりっていうのかな、部屋から出てこないの。家族とも誰とも顔合わせようとしない。あたしたちのせいなんだ。家族の。兄貴は中三のとき、家族に全部告白した。あたしは五年生で、ゲイとかそんなのろくに考えたことなかったし、両親は両親で普通だった。言っちゃったんだ、『そんな気持ち悪い冗談やめてよ』って」
喉も瞳もからからに壊れていく気がした。深井の瞳は前髪が影になっていて窺えない。
溶けた黒い鉄のような、生々しい重みが流れこんでくる。震える心臓に呼吸も震えかけて、唇を噛む。
「それから、兄貴は部屋を出てこなくなった。ごはんも部屋だし、声かけても返事しない。兄貴はすごく優しい人なんだけど、そのぶん、心が弱いっていうのかな。これ以上閉じこもらせて、ひとりにしておいたら、もしかしたらってすごく怖いの」
もしかしたら。それは、やっぱり、そういうことだろう。俺も去年さんざん考えた。記憶からも経験からも、感情からも思考からも逃れたいと思えば、それほど手っ取り早いものはない。
深井は柔らかそうな唇を噛むと、わななきかけていた頬を引き締めて俺を見上げた。
「塩沢くんが話しかけてほしいの」
その瞳のせいか、言葉のせいか、即座には反応できなかった。
「塩沢くんになら、兄貴も心開く気がするの。一年生のときからずっと見てたけど、塩沢くんはすごく強い。みんなに何言われても学校をやめたりしないで、学校生活をつらぬいて。あたしたちが、あれはよく分かってなかったからだっていくら謝っても、兄貴はあたしたちを許せないみたい。塩沢くんが、何にも恥ずかしくないってことを分からせてあげてほしいの」
俺と深井はしばらく見つめあっていた。風だけが何度かすりぬけ、髪や服を揺らしていった。
俺が先に汗がしたたった拍子に視線を落とし、正直、肺にひどい圧力を受けた感じで胸苦しくなった。
「俺は、そんなに強くないよ」
「強いよ」
「………、俺なんかより、智也と話させれば。あいつはすごく──」
「塩沢くんじゃないとダメなの。兄貴はストレートは全部敵だと思ってる。ゲイってだけで理解しあえるとは限らないのは分かってる、でも、兄貴にはそれしか残ってないの」
深井の真剣な眼差しを一瞥したものの、一秒で上履きに視線を垂らした。
深井のおにいさんの気持ちは分からなくもなかった。俺も家族に拒絶されている。しかし、やはり分からない気もした。俺はどんなにつらくても理性を失えなかった。非常階段を降りれなかった。
深井のおにいさんは降りたのだ。それほど強いということか、あるいは、それほど弱いということだろう。深井の言う通り、ゲイだという理由で分かりあえるとは限らない。話し合っても、しょせん、精神の種類が違うのではないか。
「無茶な、お願いだよね」
急に下がった深井の声の調子に、顔を上げた。彼女は窓に顔を向け、泣くのをこらえる麻痺した笑みをもらしていた。
「重たいし。利用みたいだし。だから言いにくかった」
教室のざわめきに紛れそうな声だけど、彼女は振り絞って俺を見つめた。俺はふと、その瞳をうらやましいと思った。俺の家族は、俺をそんなふうには想わない。
「とにかく、兄貴に声をかけてあげてほしいの。ヒマなときに、何分かだけでもいい。塩沢くんだからなんだよ。ずっと見てて、この人なら兄貴のこと打ち明けてもいいって思えたの。ゲイだからってだけで、闇雲に頼んでるんじゃない」
その言葉にまぶたを開き、風に触れない炎のように揺るぎない深井の瞳を見ると、ほんの少し笑みをほどいていた。「うん」とうなずき、そうだよな、と思う。そんなにおにいさんのことを想っているのだ。手当たり次第の方法で、かえって傷つけるなんてしないだろう。
ゲイだからじゃない。俺だから──
「……引きこもり、か」
口を開いた俺に、深井ははっと一度まばたきする。
「う、うん」
「何か、会うの怖いな」
「あ、どうせドア越しにしか話せないの。無理にドア開けられなくて」
「そう。今いくつ? 中三ってことは──」
「十九。高校は行かなかった」
汗ばんだ前髪をはらって風を通しながら、笑みをもらした。
「勇気あるね」
俺のやんちゃな笑みに、深井もひかえめに咲った。
「弱いの」
「俺はそっちのがうらやましいよ」
深井は俺を見つめた。俺は笑みを締めると、先にきちんと断っておいた。
「絶対に、力になれるかは分からない」
「うん」
「それでもいいなら」
深井は俺の言うところを解すると、「ありがとう」といっぱいの笑顔になった。俺はその笑顔につられて咲ってしまいつつ、右手にある教室に智也のすがたを捜す。
廊下側の俺の席に勝手に腰かけていた彼は、おなじみににやりとして親指も立てた。そのやりとりに気づいた深井は、「あいつにも礼言わなきゃいけないなんてな」と仕方なさそうに咲った。
「空見ててね、思ってたの」
咲いが落ち着くと、深井は窓の向こうを見やった。俺もさっきと違うかたちの、こぼれたミルクのような雲に目をやる。
「兄貴は何年も空なんて見てないんだろうなって」
深井の横顔を見た。彼女はじっと空の青さから目をそらさない。蒸すような陽射しが、彼女の頬や瞳に射しこんでいる。
自分以外のゲイをじかに見る──というか、接するのは初めてだ。行くのは夏休みになってだろう。かすかな不安はやはり抱えつつも、自分のためにもその人と話してみよう、と天を仰ぎなおして気強く誓った。
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