それぞれの家族
いくつも重なった蝉のだみ声は、今年も滝壺のようだ。
聞いて驚いたけど、深井は一軒家住まいで、すなわち俺と同じ西小出身だった。とはいえ、五年生の春に引っ越してきたそうで、あの小学校でクラス替えは経験していないらしい。
雲もなく晴れる空の、レーザービームのような陽射しに全身が汗に溶け出していく。
「五年生っていうと」と俺がわずかに頬をこわばらせると、「うん」と深井は大人びた足音を立てるミュールを見下ろした。
「兄貴が告白してきたのは夏休みで、ちょうど四年前。兄貴は、この町のことほとんど知らないままなんだ」
生温い風が、ほてった肌をべったり這っていく。
俺たちは十三時に例のT字路で落ち合い、道を引き返すかたちで彼女の家に向かっていた。右手はずっと住宅街で、左手は車道のむこうにコンビニやガソリンスタンドが並んでいる。隣の大通りをいらついた速度で車が飛び交い、この道は毎年夏場になると排気やタイヤのにおいが蒸している。
俺はグレイのTシャツに黒いジーンズ、彼女は赤いキャミソールに褪せたデニムのミニスカートを着ていた。髪もほどかれているから、学校で見るときより近寄りがたくて、高校生といって通用しそうだ。男は私服になろうと大して変わらないのに、これが女は化けるということなのか。
柔らかく伸びる腕に止まった蚊をはらった深井は、俺の視線に気づくとちょっと咲った。
「何?」
「ん。いや。女の子は私服になったら大人っぽいなと思って」
深井は俺を見つめると、なぜかいきなり頬をふくらませて車道を向いてしまった。
「え、な、何。気に障った?」
深井はしばらく車の流れを見ていたものの、あんまり俺がおろおろするので息をついた。
「あのさあ、君はゲイでもあたしはストレートなんだから。口説き文句にもなる言葉は、慎んだほうがいいよ」
「えっ。あ、はあ。そう、ですか」
素直に畏まって反省する俺を見ると、深井はおかしそうに笑いを噛んだ。揺れた髪か肌には、汗を抑えていい匂いがしている。
「ま、塩沢くんには、女が気に入る言葉も気に入らない言葉も何もないんだよね」
「……まあ。ごめん」
「ううん。やっぱ異性に褒められると、ストレートとしてはどきどきするわけよ。女にはゲイの男の子が魅力的に見えるって話聞いたことあるけど、それって下心がなく優しいからなんだろうね」
深井の横顔を見、結浜を思い出したけど何も言わなかった。クラスが別れて、あの子とはすでに何の交流もない。舞田とかのこともあるし、本当はとうぶん女の子はこりごりだと思っていた。
太りすぎた猫のようなぐったりした風に、蝉の声が光暈する。
「何か不思議だな」
「え」
「あたし、兄貴のためにいろんな本読んだり、映画観たりしたから。同性愛者のためのホームページとかも覗きまくった。そういうとこにメール送ってさ、助言仰いだりもしたんだ。でも、現実感がないわけよ」
「現実感」
「実在するんだろうけど、どうも遠い。そういうのでとりあえずゲイは理解したけど、ほんとにいるのかって感じは強くなっちゃった。でも、さすがに塩沢くんはリアルで、ゲイなんだなあって──そういう実感が不思議」
陽炎に揺らめく前方を見やった。真昼の猛暑の中、歩道を歩いているのは、一見して俺たちぐらいだ。
「君のおにいさんは、恵まれてると思うな」
「え」
「俺は家族に分かろうともされない」
振り向いた深井は口元を硬くさせても、瞳は蜂蜜がしたたるようにゆっくりと落とした。
「おねえさんが、巻き添えみたいなことされてたのは知ってる」
「うん。今も口きいてくれない。親もね。俺と血がつながってるのが耐えられないみたいだ」
「あたしたちだって、兄貴が引きこもらなかったら、理解しようとしてたか分からない」
「家族にゲイがいるってそんなショックかな」
深井は危なっかしいかかとでつぶれた煙草を飛び越えた。彼女の跳ねた髪は、一瞬陽射しに透けてうなじをくすぐる。
「家庭にもよるんじゃない。あたしんちは普通だし。嫌悪があったってより、免疫がなかったの」
深井は表情をさらしたくないように首を垂らす。俺はあえて彼女の隣には追いつかず、そのもろい背中を見守る。
「どうして社会は、同性愛を普通に取り入れておいてくれなかったんだろうって、自分のためにも兄貴のためにも思う。あっていいんだって、自然と教わるようになったらいいよね。本来、悩む必要もないことなんじゃないかな。うまく言えないけど、恋愛って当人同士のものだし。何で、外野が気持ち悪いからやめろとか文句つけるんだろう」
深井のなめらかな肩胛骨を見つめると、ほのかに咲って、だるい風を切りながら彼女の隣に追いついた。
「君のおにいさん、優しいんだっけ」
「ん、うん」
「けっこう頑固なんじゃない? 俺なら、それだけ言ってもらえれば君を許してるな」
深井は睫毛の流れにそって俺の瞳に横目をすると、噴き出して湿った髪をはらった。
「そうだね。頑固かも。あたしの兄貴だもん」
深井の家は、俺の近所ではなく、造りも異なっていた。道路に面するのはコンクリートの駐車場で、その上に庭つき二階建てが乗っている。つまり、玄関までの壁に沿う階段は、車一台ぶんの高さをのぼらなくてはならない。
窮屈な玄関は庭にも通じ、「ちょっといいかな」と彼女が芝生に踏みこんだので俺もそこを覗いた。すると、ただでさえ狭い庭を占拠するサンデッキの向こうに、いっぱいに尻尾を振るベージュの毛足の長い犬がいた。草いきれが匂う芝生をさくさくという足音と進むと、「へへ」と深井は俺を振り向いて咲う。
「カシスっていうの」
「ゴールデンレトリバー」
「にしては、小さいでしょ。たぶんその血もどっかに入ってる雑種。近所でもらったの」
確かに、大きさは立ち上がって深井の腰に届くぐらいだ。雄だそうで、黒い瞳に俺を映した彼は、吠えないまでも警戒の唸りを発する。しかし、「この人はあたしのお客様なの」と深井に背中を撫でられると、少し軆をほぐして尻尾を振りなおしていた。
「何回か来てれば、人懐っこいから」
サンデッキの脇を引き返して、深井は玄関に戻っていく。右のガラス戸にはレースカーテンがかかっていて、中は窺えない。左は、椿の垣根ごしに隣の家だった。コンクリートの玄関にはひさしがあり、蝉と太陽の反響で水分と気力を絞りとられた身は、ささやかに救われる。
ところで、今日は土曜日だ。「両親は、今日塩沢くんが来るの知ってるから」とポケットの鍵を取り出す深井に言われ、彼氏でもないのに妙に緊張する。「ただいま」と深井が開けたドアを押すと、いよいよ覚悟をくくって表情を引き締めた。
「亜里紗?」
すぐ女の人の声と足音が応え、つい肩や膝の関節をこわばらせる。入って正面が壁であるせいか、玄関は狭い印象で、足元にある靴はひとつだ。右手の窓の陽光で明るさは申しぶんなくも、蒸している。背中でドアが閉まったのと同時に、この家の匂いを感じた。
「おかえり」
「うん。外、すっごい暑かったよー」
「麦茶が冷えてるわよ。……あ、」
左手に伸びる廊下から現れた、髪をアップにまとめたほっそりした女の人は、俺を認めて足を止めた。深井はその様子にちょっと痛く微笑むと、そういえば爪が淡く色づく手で俺をしめした。
「塩沢くんだよ」
女の人は深井を見、いったん長い睫毛を伏せると、歩み寄ってきて俺に丁寧に頭を下げた。そして上げられた顔は、どことなく深井に似ていた。
「初めまして。亜里紗の母です」
「あ」と緊迫のあまり狼狽え、電源を消されたように一時的に真っ白になる。こういうとき、どんな挨拶をすべきなのだろう。
「えと、どうも。初めまして。塩沢柊です」
「主人と一緒に、亜里紗からお話は窺っています。本当に、家族の問題なのに無理なお願いをしてしまって」
「い、いえ。その、いいですよ。何ていうか、俺のためでもあると思うし。いや、思います、し」
「いいよ、敬語なんて」
深井は軽快な口調で俺の肩をたたくと、ミュールを脱いでフローリングの廊下に上がる。
「おとうさんは?」
「車なかったでしょ。買い物に行ってもらってるわ」
「またこき使って。じゃ、おとうさんに会うのはおにいちゃんのとこ行ったあとね」
「あ、会うのか」
「だからドア越しにだよ」
「いや、おじさん……」
「あ、会いたくない?」
「いや、……別に」
何とも言いがたくスニーカーにうつむいてしまうと、深井のおばさんがくすっとしたのが聞こえた。
「大丈夫ですよ。あの人も塩沢くんに会いたがってましたから」
「あ、そ、そうですか」
顔を上げると、引き攣りが取れない口調でつたなく咲う。
「えと、でも、何か、ほんとに力になれるか分かんないんですけど」
「いいんです」
深井のおばさんはそっと微笑み、すっかり落ち着きを取り戻した様子で、ただ哀しさは名残らせて俺を見つめた。
「あの子の心を開く可能性があることなら、試してみることに躊躇いたくないんです」
階段は廊下を進んで、右に曲がった突き当たりにあった。おばさんとは別れ、深井が俺を二階に案内する。折り返しの踊り場には、日射しがあふれて蝉の声も近かった。どこの家でも、一階より二階が蒸し暑い。
「おかあさんたちも必死なんだ」
「……うん」
「気にしてるんだよ。他人を介入して、家族のためにも塩沢くんのためにもいいのかなって」
「俺は、俺のためにもなると思ったから。そういえばさ、“くん”ってやめていいよ。智也とか呼び捨てじゃん」
「あんなんに“くん”なんかつけたくないよ。塩沢──そう?」
「うん」
「じゃ、そう言わせてもらうか。あ、ここがあたしの部屋」
深井の部屋は、階段の登り口のすぐ左だった。その向かいのドアは両親の寝室、おにいさんの部屋は深井の部屋の奥だった。
ちなみに、名前は芽さんというらしい。彼の部屋の扉付近は、二階のサンデッキのガラス戸と向き合っていてまぶしかった。何の変哲もない板張りで金めっきのドアノブだけど、嵐の前触れにさざめく木立ちのように心臓がざわついて、全身が落ち着かなくなってくる。
けれど、深井がこちらを向くとうなずいた。彼女は華奢な右手を持ち上げ、丁重に深呼吸すると、落ち着いた茶色のドアを静かに二回ノックする。
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