閉ざされたまま
「おにいちゃん。あたし。亜里紗だよ」
扉の木目を見つめた。返事どころか物音もない。ふと、起きているのかと思ったが、黙っておいた。左手首の腕時計を一瞥すると、時刻は十三時半をまわっている。
「お昼ごはん、ちゃんと食べたの? お盆なくなってるね」
深井は声は明るく繕いながらも、その表情は今にも泣きそうに震えていた。この暑さの中、わずかに頬は蒼ざめ、ぎこちないまばたきに睫毛がわなないている。遺族の前に立たされた、後悔に打ちのめされる殺人犯のようだ。
「聞こえてるといいんだけど。あのね、今日はおにいちゃんにお客さんがいるの。前からときどき話してたでしょ、塩沢くんって子。今日ね、彼を連れてきたの。ここにいるの」
何の反応もない。深井は俺の視線には気づいているようだが、こちらを見ようとはせずドアを見据えている。へたりこみそうな人が、壁に手をついて、かろうじて立っているみたいに。俺は、教室での男勝りからは想像できない、彼女の砕けそうなさまに胸苦しい味を感じた。
「会って、みない? 塩沢くんもおにいちゃんと同じなんだよ。あたしたちじゃなくて、おにいちゃんと同じなの」
足元に目を下げた。俺は靴下をはいているけれど、深井は素足だ。光のぶん影が濃く、昼を過ぎても生き残る蝉の声がする。
「ドア、開けてくれないかな。あたしがいると嫌? じゃあ、一階に行ってる。ほんとに。騙したりしない。あたしは一階に行くから」
深井はドアに手をついて一度首を垂らすと、俺を向いて酸素が足りないかのように苦しげに咲った。俺はどんな顔をすればいいのか、ただ硬直する。
「お願い」と深井はドアについた手を離した。
「おにいちゃんと話して」
日光がまばゆいガラス戸に寄って、深井は声を抑えた。
「は、話すって」
俺もそちらに行って声を低くする。前髪や睫毛が熱い光にかすれる。
「ぜんぜん答えないじゃん」
「一方的でいいから」
「聞いてるのか」
「さあね」
「………、何話すんだよ」
「何でもいい。学校のことでも、家のことでも、ほら、桐島のこととかさ」
もやもやと濁る糸口に、持て余した顔でドアを向く。その無音は部屋は実は空っぽなのではとも思わせる。ドアの隙間にもれる気配さえないのだ。深井は俺の骨張った肩に、思ったより熱い手を置くと、髪にいい匂いを引いてすれちがった。
「え、ほんとに一階に行くのか」
「行くよ。麦茶でも飲んでる。塩沢のも用意しておくね」
俺が答える前に、深井は自分の部屋の前も横切り、階段を降りてしまった。燦々とした中に取り残された俺は、鮮明な影を引きずってドアの前に戻る。
咳払いしようと思ったが、やめて、深呼吸にした。心臓の脈拍が早すぎて気分が悪い。うなじに焼けつく日射しがうるさくて集中できず、無意味にそこをはらったりする。何だか蝉が鳴きすぎな気もする。
いや、そんなことはどうでもいい。何と、言えばいいのだろう。深井が去ったといって行動が起こる様子もない。
「あ、あの──」
マイクテストのように、声が出るか試そうとしたら、けっこうすらっと出て口を抑える。が、もう切り出してしまった。バカ、と自分を責めてもしょうがない。ため息で喉を慣らすと、不安定な搏動のまま痙攣しそうな声を調律して発した。
「えと、その、初めまして。塩沢柊って言います。ふ、深井から、もういろいろ、聞いてはいるんですよね」
返事はない。電話の発信音に話しかけているぐらい虚しい。気に入らないことを言ってしまったのか、という自動的な罪悪感もあり、けっこう気まずさもなすりつけられる。
「俺はあなたのこと、そんなによく聞いてないんですけど。ゲイってことは聞きました。俺もそうだからこうやって呼ばれた、というか、その──まあ」
何なんだよ、と自分で突っ込みたくなる。バカみたいで泣きそうだ。一方的に話すのがこうむずかしいとも思わなかった。つかみどころがなさすぎる。それでも、いっそきびすを返したい衝動を踏みつけてドアに話しかけた。
「ちゅ、中三から外に出てないんですよね。こもってて、何か、怖くないですか? 俺もそういうの考えたけど、怖くて。こもってれば済む、ってものじゃないなとか感じたんです。やることないと、考えごとが終わらなくて疲れません? 俺はそうだったから、こもるとかつらくてできなくて」
何を話したいのか、何を言いたいのかも分からないのに、何を口に出せというのだ。大理石の平面をすくおうとでもするように、取っつきがない。冷たさの通った汗が滲んでくる。
物音くらいしてもよさそうなのに、いっさい何もない。本当に中に人がいるのだろうか。ドアと床で折れまがる影を睨み、いないと思って話してみようか、とつっかえかけていた喉を捨て鉢に再びほどいた。
「深井たちと、顔合わせたくないんですか? あんなに理解してるのに。俺んちなんか、ぜんぜんダメですよ。口きいてくれないし、血のつながりで一緒に暮らさなきゃいけないのを憎んでるみたいで。せっかく、深井たちはそんなんじゃないのに。すごいと思いますよ。初めはきついこと言ったかもしれなくても、今の時代はそういうのも仕方ないと思います。理解させようとして、分かってもらえなかったらあきらめるって感じでいかないと、誰も見つからないかもしれませんよ」
そこまで言ったあと、これはしたたかすぎるかと反省する。仮にそれが真実だとしても、俺は自分でそうできているわけではない。
「ありのままの自分を理解させようとするなんて、変かもしれないけど。俺も別に、そんな努力はしてないです。分かろうとしてくれる人は受け入れたいです。そりゃあ、そんな人少ないですよ。偏見する人のほうが多くてつらいです。でも、いいじゃんって言ってくれる奴がひとりできただけで、何人にも軽蔑されてきた重さが軽くなった。そういう人、欲しいと思わないですか。思っていいんですよ。俺たちは間違ってないです。ストレートと違うのは方向だけです。人を愛したいって気持ちは、ゲイもストレートも同じだって思う──というか、思いたいです。俺は」
それからも、似たようなことをまとまりのない、冗漫な、めちゃくちゃな文法で語った。
語りながら、自分で驚いた。俺はここまで考えていたのか。そうだ。そう思いたい。誰かを好きになりたい。この気持ちの自由は、ゲイもストレートも同じはずだ。たくさんの人に否定されても、尊重してくれる少数を信じて、普通に生きていきたい。非常階段は降りたくない。
「芽さん、っていうんですよね」
キリをつけたときには、十四時を大きくまわっていた。蝉の声も減った中、しばらく沈黙し、声を落ちつけて改めて木目のドアに呼びかけた。背後のレーザーで蒸し焼きにされ、すっかり汗を絞られて服も湿り気を帯びている。
「俺、また来ると思うんですけど。いいですか」
無反応に変わりはない。彼がいるのかいないのかは、どうでもよくなりかけていた。
「来て、こうやって勝手にしゃべります。うるさいならうるさいって言ってくださいね。紙とかに書いてでもいいから。嫌なら消えます。あなたが反応しなきゃ、来ます。こうやってしゃべってると、自分ももつれてたことがほどけそうな気がするから。ここに来るのは、俺のためでもあるんです」
声も音も息もない。言い足りない気がして引き際が悪くも、言葉はすでに乾上がっている。「じゃあ」と足の裏をすって一歩引くと、飲みこんだ唾で喉を補った。
「今日は失礼しますね。あ、びっくりさせたならごめんなさい。じゃあ、また」
何秒か躊躇したあとドアの前を離れ、いろんな意味でびっしょりの汗をぬぐった。
くすんだ胸の中を鎮める息をつきながら一階に降りると、足音が聞こえたのか、ドアからちょうど深井が顔を出す。俺は彼女にやや疲れた笑みを作った。分かってくれる笑みを返した彼女は、「おとうさんが帰ってるの」と手招きしてくる。
また変な緊張を覚えつつ彼女に駆け寄った俺は、陽を伸ばす階段を一度振り返り、よかったのかなあ、といまいち釈然としないまま、足元に冷気がすりよるドアに踏みこんだ。
【第八十九章へ】
