耐えがたい本音
「シビアなおにいちゃんだな」
あの日の帰り際、玄関で次にここに来る日を決めると、俺は深井に智也にはどのぐらい話していいかを訊いた。違う匂いにいつしか身動ぎしなくなるぐらい、深井の家族と話しこんでいたから、窓に射す光には、橙色が溶けている。段差で目線の高い彼女は、何も教えたくなさそうに露骨に嫌な顔をした。
が、まあ、俺は智也のおかげでここにいるのだ。きっかけも作ってくれたし、彼と友人になっていなければ、深井の相談にこう返していたかもしれない。人のことなんて知るか、自分で精一杯だ──深井は髪をかきあげてため息をつくと、「隠しごとで気まずくならなくていいよ」と言ってくれた。
その二日後、俺は智也と会う約束をしていた。快晴の元、T字路で会ったはいいも、特にあては決まっていない。だから、欲しい漫画があるという彼について、まず本屋に行った。そして、隣のファーストフードに寄ると、そこで芽さんのことを話した。
俺は食事に手つかずで真剣に話したのだが、智也はチーズバーガーもナゲットも片づけて、コーラをずるずるやっている。俺が口を休めて、ようやくチキンバーガーの包みを開くと、智也はストローにつけた口を離してそう述べた。
「シビア」
「ムカつかなかったか、完全無視」
「ムカつくというより虚しかった」
包みの中は、たっぷりソースの染みこんだチキンが芳しかった。つやつやしたレタスが、こぼれそうに挟まれている。智也は頬杖をつくと、俺の手元を眺めた。
「うまそうだな」
「お前、もう食っただろ」
「ポテトちょっとくれよ」
「ん、まあポテトなら」
俺は口を開いて、ハンバーガーにかぶりついた。智也はナゲットに使ったケチャップをつけて、フライドポテトを食す。冷房がききすぎる店内は、食事時を過ぎて空いていても、隣の本屋はレンタルショップでもある。夏休みだし、映画鑑賞のお供を持ち帰る客は少なくない。
「じゃ、結局接触しなかったんだ」
「だな」
「また行くのか」
「そういう約束はしてきた」
「物好きだなあ。他人なのに」
他人。そうだけど。「俺のためでもあるんだ」と言うことを話すと、智也はフライドポテトをもぐもぐとしながら肩をすくめた。
「ま、そういうのよく聞くか。話したり、書く奴もいるよな」
「書く」
「書いて読み返して自覚する。俺にしたら面倒すぎ。そこまでしないと、自分の気持ちって分かんないかなあ」
「気持ちが整理されてない奴もいるんだよ。俺は、整理しても分かんなくなるときがある」
コーラをすすっていた智也はふと眉を寄せて、空になったらしい中身を覗く。俺はひと口ハンバーガーを噛みちぎると、口の端の甘いソースを舐めて鳥肉を飲みこんだ。
「思うんだ、今日はダメだったけど、明日は強くなろうって。でも、いざ明日になると、そんな意思どうやって信じたのか分からなくなってて、感情に負けてやっぱりダメになる」
智也は俺を眺め、俺は手の中の包みをもう少しめくった。溜められた湯気の水滴がすべり落ちそうになる。
「こんなのも、話してはっきりしてくるんだ。思ってるだけじゃはっきりしないんだよ。俺はな。芽さんが迷惑だって言ったらやめるけど、何も言われないなら行く。もちろん智也みたいに答えてくれるのも有意義だけど、口に任せてみるってのもおもしろいよ」
ハンバーガーにぱくついた俺に、「そうだな」と智也は咲う。
「悪いほうにハマりこまなきゃ、確かに無駄でもないか。で、どうなんだよ。その人は男前なのか」
「顔知らないって」
「写真見せてもらわなかったのか」
「撮ってないだろ」
「四年前の時点では」
「あー。今度訊くよ」
「妹があれだしな。やっぱ顔だけはいいのかな」
ぶつぶつしながら、智也の指はSサイズのフライドポテトを容赦なく奪っていく。「俺のぶん残せよな」と口をはさむと、「体格よくなってきたからいいじゃないか」と返される。
何と答えればいいのか、鏡で見た自分を思い返す。あの家庭内では食欲がよどむので細身は細身でも、確かに、何かの中毒であるかのような痩せかたではなくなった。
「そろそろ新しい恋に目え向けたら」とにやつかれ、俺は口元を引き攣らせる。
「な、何で。別にいいじゃん」
「中学時代を彼女ゼロで終わらせるのか。いや、彼氏」
「いいよ、ゼロで」
「その芽さんとやらが、お前好みのルックスだったらどうする」
考えもしなかったことに変な顔になり、ちょっと想像してしまって、慌ててストローでアイスカフェオレを飲む。
「ル、ルックスだけよくてもさ。それに、ゲイだから好きになるって、」
「分かってるよ。しかしこの場合、顔合わせるのは心が通じた上でだろ。やばいんじゃないの。あーっ、おもしれえっ」
「お前がおもしろくてもしょうがないだろ。ていうか、そんなん考えたら、緊張するじゃないか」
「好きになったらどうする?」
にっと悪戯に身を乗り出した智也に上体を引き、しばし、どう答えればいいのか手の中のハンバーガーを持て余す。マヨネーズにしおれたレタスが垂れている。
「いらっしゃいませーっ」と愛想のいい声が背後を抜けていった。
「ま、まあ、そんときは、そんときで」
「今は違うんだ」
「違うに決まってんだろ」
やけでむくれた顔になると、立ちのぼるチキンの香りに食らいつく。
「顔知らない相手に、好意持てるか」
「飲みこんで言え。つうか、今はネットの時代よ。そういう出会いもありさ」
「そういう出会いは危ないだろ」
「お、じゃあ、クラブに進出するか」
「……そういうのもちょっと」
「芽さんの心を開けば、クラブでもネットでもないぞ」
口の中をごくんと嚥下し、妙に動揺しはじめてしまう。
まさか。いや、でも智也の言う通り、なくもないのではないか。相手はゲイだ。ストレートに恋をするあの痛みはない。だが、芽さんの気持ちだってあるだろうし──。
ふと、冷めてきたハンバーガーに視線を落とすと、俺はぶあつい息を吐いた。
「俺にどうしてほしいわけ」
「初恋は忘れろ」
意外と率直に切り返されて、ぎくりと声がつまる。智也には、賢司のことは話していた。「あいつね」と智也が賢司を知っていたのには驚いたものだ。二年生のとき、隣のクラスで体育の授業が一緒だったらしい。智也も智也で、「幼なじみだったんだ」という俺の発言には驚いていた。
「まだ好きなのか」
「冗談。引きずってるつもりもない」
「じゃあ、もっと積極的になれよ」
「なったとこで相手によるだろ、俺は」
「夏休みだぜ。いろいろ行動していいと思うけどね。前にも言ったじゃん、それが欲しくて探しにいくのは普通のことなんだ。おかしいなら、俺も異常行為したことになるんだぜ」
智也は脇に置いていた、漫画の単行本が入った淡い水色の包みを軽く持ち上げる。
「でも、そういうとこだと、恋愛相手ってより、その、やる相手だろ」
「中にはセックス目的じゃない奴もいるんじゃないの。出会いの多さのぶん、粗悪品もあるってだけで、本物がないとは言えない」
その意見を否定するのは、本当に真摯な人がいた場合のため残酷な気がした。
そうなのだろうか。一晩限りの慰み物を求める男ばかりでもないのか。恋人に巡り会いたいけど、日常には切っかけがないから、そういう場所も当たってみる──そんな奴もいるのだろうか。
「そういうのって、たとえばどこにあるんだ」
「都会」
フライドポテトでケチャップをすくう智也は、無表情に即答した。
「……ここ郊外なんですけど」
「電車で行けよ」
「んな金あるか」
「バイトすれば。歳偽って」
「………、何で、恋愛するのにそんなんしなきゃいけないんだろ。バカみたいだ。わがままかもしれなくても、俺はそういうふうには恋愛始めたくない。勝手に来てほしい」
「ロマンチストだねえ」
ハンバーガーの最後のひと口を口に放った。フライドポテトはほとんど食べられてしまった。まあいいか、とチキンにボリュームがあったので何も言わないでおく。あんまり言うと、こいつはさらっと追加を買ってきてくれたりする。
「智也はどうなんだよ」
「ん」
「彼女とか」
「高校生のおねえさんができたけど」
「えっ。いつの間に」
「昨日の間に」
ソースとマヨネーズのついた包装紙を、のろい手つきで丸める。
「俺と会ってるヒマないのでは」
「どうせ彼女、部活があるんだ。土日しかヒマじゃないって言ってた。高二だとさ」
「ほんとに好きなのか」
「どういう意味ですか」
「いや、……何となく」
「好きになっていきたいんでつきあうんだろ。まだよく分かんないよ」
塩か油のせいか、手をはらう智也を見つめ、俺はため息と引き換えに背もたれに寄りかかった。ここは中央あたりの席で、カウンターの騒がしさのわりに、空っぽのテーブルたちが見渡せる。
「何」と俺の様子に智也は眉間を寄せた。
「……いや。何かさ、俺も誰かを好きになりたいとは思うんだ。恋人ができたら、強くなれる気がする。単純な意味だけじゃなくて、俺はこの人が好きだから自分を曲げるわけにはいかないって。そういう恋愛ができたらいいよな。いまどきむずかしいかな」
ジーンズのすれた膝を向いて弱く咲うと、「そうしたいなら、好きな奴ができたときそうすればいいさ」と智也は穏やかに言ってくれた。俺は顔を上げると、うなずいて微笑み、テーブルに前膊を預け直す。
「話戻していい?」
「どうぞ」
「芽さんの部屋を離れたあと、夕方ぐらいまで深井の家族と話してたんだ。学校ではゆっくり話せないこと、いろいろ聞いたよ。いきなり出てこなくなったってより、だんだんなんだってさ。まだこもらないあいだは、治そうって言ったり責めたりとかしかしなかったって言ってた。取り返しのつかないことにならなきゃ理解しようとしなかった自分たちが情けないって、おじさん言ってたよ」
智也はストローの刺さったふたを取った、コーラの紙コップを手にし、口に氷を流しこむ。店内はこんなに冷えているから、暑いというより、食い足りないらしい。木の実を食べるリスみたいに、がりがり音を立てて氷を噛みくだいた智也は、「人間ってそういうものだけどな」と冷静な意見を述べた。
深井とご両親に、告白されたときの様子を語られたときは、あの一年生の冬の日を思い出した。深井家は俺の家ほど激しくはなかったようだ。この頃塞いでいる様子を家族が気にし、優しく揺すぶられて、芽さんは告白した。
家族は、そう言って芽さんが本当の悩みをはぐらかそうとしているのだと思った。ところが本気だと気づき──このへんを語ってくれたのはおばさんだったのだが、俺の表情を一度窺い、生々しいひと言をつぶやいた。
「ぞっとしたわ」
こわばった心臓に息をすくめたが、何も言わなかった。おばさんに謝られ、首を振ったのを憶えている。
「いろんな意味でなのよ」
「そう、嫌悪だけじゃない。自分に対しての鳥肌もあった」
「自分」とおじさんの言葉に目を上げる。そこはダイニングのテーブルで、俺は深井の隣でおじさんおばさんと向かい合っていた。通じるリビングのクーラーが流れこんできている。
「普通の教育をしてきたはずなんだが、とか思ったよ。孫はどうなるんだとも思った。亜里紗がいるんだが、あいつが長男だしな。体裁についての考えも走った。いろんな感情で、私たちはあいつを受け止めてやれなかった。そういうものの中では、実際のところ、嫌悪なんてちっぽけだったかもしれない」
おじさんの言葉におばさんは少し咲い、「そうね」と深井とよく似たすらりとした手で、麦茶がなくなりかけたグラスをつつむ。
「嫌悪なんて、いくら持ってみたところで愛情がかきけすわ。大切な存在だからこそ、受け入れがたかったのよ」
どこかの風鈴を幻聴のように聴きながら、おばさんの左手薬指の銀色に、グラスに浮かんだ水滴がこぼれるのを見ていた。
大切だからこそ。自分の家族を思い出していた。その言葉は説得力がありそうだったが、自分の気持ちにあてはめるとあんまりしっくりこなかった。
それを感じ取ったのかどうか、麦茶を喉に通した深井が久しぶりに口を開く。
「でも、悪いのはこっちなんだよ。それって、あたしたちに勇気がなかったってことだもん」
「勇気」と彼女に首を捻じる。深井は俺の瞳に、傷んだ瞳で微笑んだ。
「障害者の子って家族の助けがあって生きていくよね。ゲイっていうのは、障害っていうハンディじゃないし、仮にそうだとしても、もちろん助けるって態度を取るのが家族。あたしたちはそうできなかった。あたしたち、おにいちゃんをすごく大事に想ってるの。愛情が足りなかったとは思わない。ただ、柔軟じゃなかったんだ」
深井の瞳の傷口を見つめ、おじさんとおばさんを見た。ふたりはうなずいた。
俺は、香ばしい麦茶の水面に長いあいだ自分を見下ろしていた。その水面が揺れていたのは、四人の中で誰かがほんのかすかに震えていたからだろう。
「──あと、芽さんはみんな寝静まった夜中に降りてきて、やることはやってるらしいとも聞いた。その日、最後に寝る人が、芽さんの部屋に声かけるのが習慣なんだってさ」
「あ、四年間部屋で浮浪者やってんじゃないんだ」
氷も片づけた智也は、ストローをかみながら不謹慎な発言をする。
「夜中ねー。俺、引きこもりってトイレとかどうしてんだろとか思ったことある」
「はは。俺もいろいろ話したよ。智也のこともね。おじさんとおばさんは興味ありそうだった」
「会ったら幻滅するからやめとけ」
深井もそう言っていたのでつい咲いを噛み、甘い中に苦味が残るカフェオレを飲み干す。ずる、と音が響きかけて急いで止める。「しかし」と智也はストローを吐き出すと、日焼けしかけた腕で天井に伸びをした。
「ゲイって、そんな大層な問題になることかな。分かんないや。あっそ、で済ましちゃいけないのか」
「俺が訊きたいよ。深井は家庭によるって言ってた」
「家庭ねえ。家族ぐらいかばってやろうって家庭が少ないってことか。侘びしいわね。あ、そういや俺んちいつ来る? こっちはいつでもOKよ」
「俺もいつでもいいよ」
「じゃ、明日来るか」
「あ、明日。……ま、いいけど。うん」
「俺んちは変だから、会ってみたいとかで仕事休んだ親がいても驚くなよ」
咲ってうなずくと、そういえば智也の家ってよく知らないんだよな、と思う。家庭の話はよく出ても、両親がどういう人かとか、どんな想い出があるかとか、そういう話にはならない。兄弟がいないのは聞いている。
まあ明日分かるのか。こんな奴を育てた人たちだ。何かおもしろいかも、と思いつつ、「次どこ行く?」とトレイを持って立ち上がった智也に、俺は続いた。
【第九十章へ】
