陽気の裏側
「おかえり」
黙って開けたドアから泥棒みたいに家に入り、スニーカーを脱いでいると、ちょうどそばのリビングのドアが開いた。どきりと顔を上げると雪乃ねえちゃんで、向こうもちょっと止まって、沈黙に冷房が忍びこむ。
白と水色のボーダーのタンクトップに、黒いホットパンツの雪乃ねえちゃんは、ゆっくり後ろ手にドアを閉めると、そう言った。
「え……」
「受験生なのに、毎日外でいそがしいのね」
蒸し返す汗に言葉に詰まってうつむく。蛇みたいな眼つきを感じさせたあと、雪乃ねえちゃんは廊下を抜けて二階に上がっていった。
時刻は十九時すぎだ。たなびく夕暮れにひぐらしが響く中、俺は智也の家から帰ってきたところだった。あんな家もあるのに、何で俺んちってこうなんだろ──よけい根深く感じて、みぞおちを損ないながら、家に上がると、音もなく二階の部屋でベッドに伏せった。
「いらっしゃーい」
蝉の声が、晴れた空に反響している。そろそろあたりがゆだってきた十時、いつもどおりT字路で合流すると、智也は俺をマンションの五階の自宅に案内してくれた。
俺は、この同じ建物の群衆内では、いまだ迷いそうになる。智也は番号で区別のつくこちらのほうがよく、似たような一軒家のほうが分かりにくいのだそうだ。
「育った環境ですねえ」と笑いながらエレベーターで五階に着くと、507号室に『桐島』というネームプレートがあった。智也が鍵をあけてドアを押すと、そんな、ハスキーな女の人の声が俺たちを迎えた。
「え」と俺がまごつくと、「あのおばさんは」と智也は舌打ちしてスニーカーを脱ぐ。まさか、本当に仕事を休んだのか。
「待ってたわ」と玄関に駆けつけたその女の人は、三十代前半ぐらいで若かった。けっこう美人で、智也と似た鋭い眼が印象的だ。栗色っぽい髪を腰に伸ばし、黒いノースリーブとインディゴブルーのカプリパンツで遠慮されない肌の線も狂いない。智也が隣に並ぶと、それよりほんの少し背も高かった。
「柊」と智也に呼ばれると、俺は彼を見た。
「この人──」
「愛人です」
すかさず答えた女の人に、智也はぴくんと眉を上げた。
「ざけんなよ、クソババア」
「ああんっ? 確かにマザコンに育てた憶えはないけど、それはムカつくわっ」
女の人はもちみたいに智也の頬をつねると、すごい形相はすぐ正して、俺ににっこりとした。
「母です。うちの息子がお世話になってるようで」
「あ、い、いや。こちらこそ。塩沢柊です。よろしくお願いします」
「はい、よろしく。──あんたより顔いいわね」
「性格もいいだろうよ」
智也は汗ばんだ前髪をかきあげると、幼なじみに対するように母親に砕けた眇目をする。
「マジで仕事休んだのか」
「お昼から行くわよ。でも、休もうかな。有給溜まってるし」
「えー」
「その、『えー』ってすごく親を失望させるわ。いいわよ、行くわよ。──この頃この子、かわいくないんですの。遊びにいこーって言っても、私のためには学校サボってくれないのよ」
俺に向かって悲劇俳優のように泣き真似をするおばさんに、智也は鼻を鳴らし、俺はついていけない。予想以上の親のようだ。
「上がれよ」と智也に言われて、ひとまずフローリングにあがる。覚えのある智也の匂いがする。クーラーが行き渡るリビングはベランダに面して、床や木製の座卓によく陽が射し、テレビにはワイドショウっぽい番組が映っていた。
「あんたがお茶淹れなさいよね」
おばさんはさっさと座卓のそばのクッションに腰を下ろす。ほかに人影はない。「何か智也の性格が分かってきた」とつぶやくと、「いまさらですか」と智也は横目でこまねいた。
「おじさんは仕事なんだ?」
「ん。ああ、うち、親父いないんだ」
「えっ」
「『えっ』って。知らなかったのか」
「し、知らないよ。話されたことあったか」
「ないけど。気配で分かるだろ」
「分かんないよ。いない──。そう、なのか」
「分かんないもんか」と智也は興味深そうに顎をさすり、俺は悪い具合にどきどきしてしまう。本気で知らなかった。考えたこともなかった。
悪いこと口にしたかな、と智也やおばさんを窺っても、特にふたりに癇に障った様子は見取れない。「座れよ」と智也はおばさんの向かいのクッションをしめすとキッチンに行き、俺を正面に迎えたおばさんは楽しそうにテレビを消した。
「智也に聞いてるわ」
レースカーテン越しにながら陽が当たると、その顔に化粧が入っているのが分かった。とはいえ、眉や口紅ぐらいで、頬などに粉っぽさはない。
「ゲイなのよね」
「ま、まあ。一応」
「あたしも大学時代にゲイの友達がいたわ」
「えっ、そ、そうなんですか。……大学」
「学科は違って、彼は洋服の勉強をしてたの。おもしろい奴でさー、外国行っちゃったから音信途切れたんだけどね」
外国。遠いような、近いかもしれないような言葉に口をつぐむ。しかし、ゲイで大学に行ったのか。大学に行ったのなら、高校にも行ったのだろう。
「向こうで恋人でもできたのかしらね」とおばさんは咲って、陽光に透ける髪を背中に流した。
「君はどうなの? 彼氏」
「えっ。い、いないです」
「恋はいいよ。ぜひしなさい」
「……智也にも似たこと勧められます」
「うちの智也とかどう?」
「………、え、あいつストレートなのでは」
「そうなのよねえ。『中絶費よりマシだろ』とか言って、コンドーム代請求してくる、母親に夢持たせない女好き。普通小遣いでやりくりして隠すわよね」
「隠してほしいなら隠すぜ」
向こうから智也が口をはさみ、「言ってみただけよ」とおばさんはふくれる。智也は鼻で笑うと、麦茶のそそがれたふたつのグラスを持ってきた。
「あたしのは」
「自分でどうぞ」
「柊くん、こんな男はやめといたほうがいいわ」
「……はあ。いや、その気ないです」
香ばしいグラスを受け取りながらまじめに言うと、「振られた」とおばさんはおもしろそうに我が子をひやかす。「いいよ」と智也はガラス戸と向き合って、床にじかに座った。
「いい友達でいるから。仕事はいいわけ? 十時半だぜ」
「あー、そう。でもかったるーい。どうせあんたの避妊代とかに消える金なんて」
「精一杯働いてください」
「十六になったらはらってやらないからねっ。はあ。時間にうるさい取引先なんか持つもんじゃないわ。シャワー浴びてくる」
おばさんは寝起きの女子高生みたいにゆらゆら立ち上がると、奥のドアに消えていった。
猛暑を歩いて喉が乾からびていたので、冷たい麦茶は一気に飲める。智也と顔を合わせると、ちょっと咲ってしまった。
「おもしろい母親だな」
「毎日つきあってると疲れるよ。ガキっぽい発言すれば、平気でバカにしてくるし」
けれど智也の表情は気さくで、気兼ねない不平もうまくいっている証拠なのだろう。水滴がきらめく空のグラスを手の中にまわすと、「ごめんな」と口にしないほうがいい気はしても、気になって言ってしまった。
「ん」
「父親のこと。おばさんの前で」
「ああ」と智也は笑い、それでも、ほんの一瞬、蝉の声を沈黙に置いた。
「いいって。あの人も割り切ってるからさ。俺が六歳のとき、離婚したんだ」
「離婚……」
「顔も、どんな奴かも知ってる。あいつが今も同じ家にいたら、俺はとっくにグレてただろうな」
智也は苦笑して麦茶を飲み干す。ヤケ酒のようにも見えたのは、俺の心持ちのせいだろうか。
「今もグレてない?」
軽いことを言ってみると、「うるさいですよ」と智也は俺の左肩を小突く。俺はやや笑みをもらしたものの、汗を冷ます冷気にしばらく黙って言葉を模索した。
「俺んちとか、深井んとこのおじさんの話したとき、気に障ったりしてたかな」
そっと目を向けて尋ねると、滲んだ水滴を指先でいじっていた智也は微笑んだ。
「ま、正直、“父親”って言葉は苦手だ。好きこのんで聞きたくはない」
「……ごめん」
座卓の木目に目を落とすと智也は首を振り、「いいんだ」と俺の顔を引きあげさせる。
「慣れなきゃいけないことだし。気にしてそういう話題避けられてたほうが、結局強調されていらついてくるのかもしれない。話していいよ」
智也を見つめると、「強いな」と陽に睫毛を傷めて、思ったままの言葉をこぼした。
「そう?」
「俺は、いろんなこと避けてばっかりだ。二度と見たり聞いたりしないとは限らない視線とか言葉とか躍起に避けて、で、それに接したとき、こんなに避けてたのにって耐えられなくなる」
智也は頬に笑みを混ぜると、明るいベランダを見やった。
「嫌なもんは嫌だよな。俺だって許さずに済むなら許したくない。でも、仕方ない。どんな人間も、両親がいるって事実は逃げられない。その顔も声も知らない奴だってな。それに本来、父親って悪いもんじゃない。だから世界中に、そんな言葉使うなよって命令もできない。憎んで闘うだけ無駄なら、勝手に存在してろ、でも俺はお前を軽蔑してるんで無視してやるって、そうするほうが建設的なんだ。けど」
智也は息継ぎを入れて、俺を振り向く。
「柊はどっちでもいいと思う」
「え……」
「闘っても、無視しても、有意義なんじゃない? お前がされてる偏見は、消されていいことだ。バカさらした奴を憎んで、社会と闘ってもいい。でも、すごく疲れるだろうな。それが面倒なら、そんな奴らほっといて、自分の道だけ信じておくのも手だ」
しばし智也の瞳に瞳を置くと、「あとのがいいな」と何となくやっていた正座を崩して咲った。「そっか」と智也も咲うと、俺は座卓に腕を預けて空中を見つめる。
「俺がつらいのは、記憶なんだ。嫌なことをいつまでも憶えてること。忘れたくても、この日にはあんなことがあったとか、何回も思い出す。言われた言葉とか、そのときの天気とか、笑い方とか。消えないんだ」
智也の視線が頬に当たっている。「それは」と彼は旧式のエアコンのように大きく息をついた。
「許す以外、仕方ないことだな。過去をゆがめたら、病気だ」
「……うん。でも、記憶してる限り、そのときの苦しさとか痛さとか何度も体感するハメになる。で、暗いこと考えて集中力めちゃくちゃになって。いつも思ってた、消えないことを経験するなら初めから何もないほうがいいって。だから、明日には学校はやめるんだって。思うだけだったけど、すごく思ってた」
身動ぎすると、水滴の引いてきたグラスがひやりと腕にあたり、中央に置き直す。智也は息を吹くと、頬杖をついて目を細めた。
「何もないのも恐怖だと思うぜ」
「え」
「何かあったらあったで、嫌悪とか憎悪はあるよ。けど、空っぽは空っぽで恐怖なんだ。これはかあさんが言ってたんだけど。あの人は中学、高校、大学とレールに乗っかってきて、何にも残らない、大して思い出すことがない毎日が怖くなって、二十歳のとき、勢いでろくでもない男と俺を作った。で、最悪な六年間を過ごした。今でも『分からない』って言ってる。空っぽの恐怖と、吐きそうな嫌悪、どっちがマシだったのかって。あの人が答え出せないこと、俺には分からないけど、ただ、何にもなければいいってことはないんだ。なかったらなかったで、打ちのめされるんだよ」
俺は一年生の前半を思い出していた。ゲイなのは変えられない。しかし、それがばれないのはありえた。
あの頃、俺は嘘をつき、自分を偽り、つらさはあったけど、たぶんあの生活が続いていれば、何の痕跡も残さない毎日が垂れ流れていた。そして確かに言いきれない。あの麻痺とこの激痛、どちらがマシかなんて──
「とりあえず、かあさんは無理やりにでも悪いことよりいいことを見るようにしてるって言ってる。あの男と出会った運命は許せないけど、俺を授かったっていういいこともあったって。目を背ける正当化って言う奴もいるかもしれないけど、そうでもしないと生きていけないって──関係ないけど、酒に酔ってるときでした」
照れ咲った智也に、ふと脳裏に彼と初めて話した日をよぎらせた。そうだ。彼はあの日、ひるがえる桜の中でこんなことを言っていた。
俺は裏切らない。
裏切られて苦労した人を知ってるから──
「いいおかあさんだな」
「変だけど」
「俺の親は、死ぬほど悩んでる俺にそんなの教えてくれないよ」
「……そっか。まあ、俺は肉親を憎むのもありだと思ってるよ。ただし、体力いるぜ。よく考えて決めろよ。感情に流されただけじゃ、自分が重荷食らう場合もある」
丁重にうなずいていると、髪を湿らせたおばさんが出てきて、慌ただしく支度を始めた。麦茶のお代わりをして、ポテトチップスを開いたりしていると、キャリアウーマンになったブルーグレイのスーツのおばさんがそばにやってくる。その所作には、しっとりと香水が香っていた。
「じゃあ、行ってくるわね」
「お気をつけて」
「どうも。柊くんもゆっくりしてってね。こんな生意気な奴とだけど」
眉を寄せた息子を小突いたおばさんが出かけると、俺たちはしばしおばさんのうわさをし、おやつが片づいたのをキリに智也の部屋に移った。服や雑誌が粗雑に床に投げだされ、なかなか汚かった。壁には女の子やバンドのピンナップがいくつかあり、ベッド、本棚、つくえ──漫画雑誌が山積みで、受験勉強なんかしていないのが訊かなくても分かった。
すっかりこもった熱気にクーラーをつけると、漫画を読んだりゲームの品揃えを見せてもらったりした。やがて窓の日影が橙色を帯びてくると、「じゃあまた」と帰り道の要点を訊いて、本日のところは切り上げてきた。「おばさんによろしく」と言い置くと、智也は片目をつぶって挙手した。
智也の性格は、ずいぶん不思議で突飛なものに思えていた。だが、大地に芽が出て木となるぐらい、彼の性格は自然に形成されたものだったのだ。母子家庭にこう思うのは不謹慎かもしれない。けれどやっぱりうらやましい。
俺の親──家族は、智也のおばさんみたいに強くない。深井たちに近い。もしくはそれより弱い。俺より常識を取るみんなは、弱さを自覚できないぐらい弱いのではないか。
なぜ、俺の家族はそうも弱いのだろう。俺を受け止める自信を持とうとしないのだろう。あるいは、やはり単に嫌われてしまっているのか。そういう家族だから、俺も自分の感情を処理できずに、空漕ぎで記憶を怨むのだろうか。
家族を憎む。憎まないまでも、もしそういう脆弱な人たちなら、俺は家族を絶ち切るべきなのかもしれない。嫌いになったにしろ、自覚がないにしろ、そんな人たちなら軽蔑すべきだ。
情が邪魔しても、そういう人間に期待していても仕方がない。俺の家族は、俺を理解できるほど強くない。そんな人たちなら、いっそ断絶するほうが、俺のこの泣きそうな息苦しさもさっぱりするのかもしれない。
【第九十一章へ】
