非常階段-91

開かないドアに

 宿題も受験勉強も消化しつつ、俺の三年生の夏休みはそんなふうに過ぎていった。
 家庭では黒いふくろに入れられて捨てられた小犬のような暗く、息ができない気分を味わう。勉強しなくてはいけなくも、そんな雰囲気がみぞおちを踏み躙るので、逃げるように智也と遊びにいって酸素を補給する。
 そして、一週間に一回ぐらい深井家を訪ね、閉ざされたドアに口に任せて心の靄を吐き出した。
「で、普通の生活続けたいって思ってるけど、どうなるか分かんないや」
 板張りのドアに背中を預け、ガラス戸に向き合って、俺は床に座りこんでいる。深井が置いていった麦茶が、かたわらでグラスに半分残っていた。
 今日の天気は灰色がかっていて、蒸し暑さはあれ台風の気配に風も強い。昼下がり、蝉の声は静まっていつもどこかに聞こえる風鈴が盛んに響いていた。
「中学卒業したら、やっぱ高校行かずに働くのかも。あの家にいると、死にたいとか思わなきゃいけない。……ごめんなさい、こんなの言ったら芽さんも家族に不信感持っちゃいますね。ここは俺んちよりいいと思いますよ。俺、ばれたときには父親に引っぱたかれたんですよね、ふざなるなって。かあさんはかあさんで、俺が殺されたみたいに大泣きするし。親をこんなに失望させて、謝れって言われて。正直、あのとき謝っておけばよかったのかって思うときもあります。あのときは、謝れないって思ったんです。俺は悪くないからって。分かんないや。悪くないとは今でも思うけど、生きていこうと思ったら、ゲイはそういうとき、相手に合わせて自分を曲げるのを避けられないのかな。それって、どうなんだろ。職場とかでは仕方ない気もするんです、食ってくための体裁。でも、家族にまで嘘をつかなきゃいけないって、それは変な気がする。こないだも話したけど、友達の智也のおばさんとかならぜんぜん否定しないだろうし。職場で仕方ない嘘をつくために、せめて、家族の前では素顔でいるって、家ってそういうものなんじゃないかな。智也の家が一番普通なのかもしれない。俺んちとか、そりゃあすごく普通に恵まれてるけど、智也んちよりずっと欠陥がある気がする。ここにも、あったことはあったんですよね。直そうとしてるからすごい。俺んちは、自分たちが悪いなんて絶対に言わないですよ。無視したり、皮肉ったり、学校の何にも分かってないクラスメイトと完全に同じ。自分の家族だし、バカだとか残酷だとかは思いたくないけど、そうなのかも。つっても、分かんないんですよね。ほんとにそうなのか、俺が追いつめられて向こうが悪いってなすりつけてるのか。考えてると、いつも正反対の答えがふたつ出て、ほんとはどっちなのか分からなくなる。家族が分かってくれたらいいのにって思って、それは当たり前の望みなのか、わがままな望みなのかとか。そういうのないですか? 芽さんは、俺より考えごとしてる時間が長そうですけど。すごいな。俺は考えるのって怖い。いくら考えても答えが出なくて、深いところまで掘り下げつづけて。何でこんなに終わりがないんだろうって。答えが欲しくて考えるのに、考えて答えが出た試しがない。結局、嫌なこと思い出すだけ思い出して、またそのときの最低な気分を味わうだけ。記憶を消せればいいのにって、くだらないことよく思いますよ。経験するのを避けられないなら、せめて忘れたい。でも都合よく忘れるなんて無理なんですよね。どうせ嫌なことって絶対消えない。いいことは一日も持たないのに。よかったときを思い出すことはできるけど、そのときの気持ちまでよみがえらせるのってできない。悪いことはそのときの気持ちまで思い出せるのに。で、忘れられないなら何も経験したくない、ここで終わりにして死にたいって思うんですよね。死って俺の夢を全部叶えてる。感情も、思考も、経験も、記憶も、俺がうんざりしてること全部を葬ってくれる。なのに、何で怖いんだろ。うんざりしてる気持ちとか頭の中なのに、ほんとにいっさい跡形もなくなるって生々しく思うとぞっとする。これが智也のおばさんの言ってた恐怖なのかな。何にもない恐怖。自殺は自殺で、俺を苦痛に決定づけるのかもしれない。痛みを感じるぐらいなら、麻痺のほうがマシって前に思った気がする。今はとりあえずどっちとは言えないと思う。これも答えがふたつだ。痛みなんか感じないほうが幸せなのか、痛みを感じるだけ幸せなのか。どっちにしろ、傷があるってことなんですよね。それってどうなんだろ。どうして、俺には麻痺と痛みを天秤にかける傷があるんだろ。それは分かってるけど。偏見してくる奴らのせい。どうして社会は俺たちを否定して、傷で苦しませるんでしょうね。俺たちは罰を受けなきゃいけない罪を犯してるわけでもないのに。社会には罪なのかな。何で罪なのかは分かんないけど。子孫残せないのが犯罪なら、ストレートの不妊症は何なんだよって思ったことあります。社会はゲイは欲望だらけの理性ゼロの人種って思ってる気がするけど、どっちのことだろ。そっちこそ、理性抜きで気持ち悪いって個人的感情でこっちを否定してるくせに。やっぱ、普通に生きていくなんて思わないほうがいいのかな。そんな中で生きていったって、バカ見るのかも。傷つかないことができる場所も、どこかにはあるんですよね」
 息をつくと、グラスを取り上げて麦茶で喉と唇を湿した。香りはいいけどぬるくなっていて、ガラスに流れていた水滴も消えている。
 こうして話すといつも思うけど、何だか自分で不思議だ。俺の中にはこんなにも大量の、ぶあつい本に捧げられた言葉たちのような言葉がつまっていたのかと。
「芽さんは、ずっと部屋の中にいるんですか? そういうのって、気に障ったらごめんなさい、自傷的だと思うけど。傷つかない道があるなら、そっちに進んでいいと思う。それって逃げるんじゃなくて、生きていくための当然の選択だし。つらいなら、その生活を変えるのは何も悪いことじゃないんですよ。って、えらそうですね。居心地がいいなら、何も言えないか。毎日、楽しいですか? 俺ならめげてるな。それだけこもれる精神力があるなら、けっこう芽さんって大丈夫そうだけど。俺のほうが弱いのかもしれませんね。もちろん、外れた道に行く必要はないとは思ってても、その信念をいいことに自分の道から逃げてるってとこもあるのかも。グレるとか、こもるとか、自分の感情を出しすぎるのを抑えてる。周りにしたらじゅうぶんずうずうしいらしいですけど。これだけやってるのにまだ学校に来るのかって、……言われたことあるし」
 まぶたの裏に刺さった光景にずきりと目を伏せ、手の中のグラスを床に下ろした。こと、という音が思いのほか響いた。
 ガラス戸の向こうでは、荒っぽい風が空中をつんざいている。
「二学期もいろいろあるんだろうな。家にいる時間が多いのもつらいけど、やっぱり学校だって憂鬱だ。智也とか、香野とか、深井もいるんだけど、いろいろ、ほかにもいるし。方針では高校行きたいし、受験勉強もしなきゃいけないんですよね。受験生でいいことは、それを言い訳に盆の帰省につきあわなくていいことかな。じいちゃんたちに最後に会ったのは一年の冬だ。このまま会わないのかも。じいちゃんたちが知ったら──」
 ドアにもたれると、天井を仰いで、自分でも意外に咲ってしまった。でも、心の中は強く絞られて泣きそうだった。
 沈黙が長引いたけど、ドアの向こうには相変わらず物音も気配もない。
「どうして、傷つける気もない人をゲイってだけで傷つけちまうんだろう。こういうことになった原因が分からない。俺たちのほうが悪かったのか、社会とかのほうなのか──俺はこれまでの人を傷つけたくてゲイなんじゃない。これから愛したくてゲイなのに。広がっていこうとする未来を、ゲイは望んじゃいけないっていうのかな」

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