非常階段-92

アルバム写真

 芽さんの部屋の前で勝手なおしゃべりをやめると、一階に降りて、冷えた麦茶とフルーツケーキをもらった。
 俺が来る日には、おばさんは何か用意していてくれるのだが、俺としては、今やここに来るのは芽さんのため以上に連綿と勝手に愚痴るためだ。こんなよくしてもらわなくてもいいのに、とは思っても、厚意なので甘えさせてもらっている。
 今は、来週には盆に入る真夏だ。深井家は両家に顔を出さなくてはならないのだが、芽さんが引きこもるようになって両親の片方が手早くどちらも訪ねて、日帰りか一泊二日で帰ってくるらしい。「塩沢はお盆どうするの」とフォークでケーキをすくう向かいの深井に問われ、俺はドアに話した通りを繰り返した。
「……そう。おじいちゃんたちは知らないの」
「知ったら死ぬよ」
 茶化した口調だったものの、深井はキッチンのおばさんと深刻な目を交わした。ときどき、カシスが身をふるったり鳴いたりで音を立てている。ダイニングにも冷気が届くクーラーがかかるリビングは、食卓もソファもなく広い印象で、空っぽの通り、今日は平日でおじさんはいない。
「深井のじいちゃんとかは」
「引きこもってるのは知ってる。何でかっていうのは」
 冷えたグラスを手の中から置くと、フォークを手に取っておっとりした象牙色のスポンジを見下ろした。
「こんなの、うぬぼれに聞こえるかもしれないけど、じいちゃんたち、ぜんぜん俺が来なくてがっかりしてるだろうな。想像すると申し訳なくても、俺が混ざって家族がぎくしゃくしてるの見たら、それはそれで傷つくと思う。まして全部知ったら──これ以上、仲良くしてた人に嫌われたくないんだ」
 スポンジをフォークで切り分けようとすると、挟まれたいちごやみかんの混ざるホイップクリームがぐにゃっとはみだした。バニラの匂いもした。こういう、甘ったるい少しお菓子は苦手だ。だが、一応食べてみる。冷蔵庫に入れられていたひんやり感は心地よくも、果物の酸味もあえなくやっぱり甘い。
「ばれる前にはさ、塩沢には友達もいたんだよね」
「ん、まあ。何で」
「いや、そういうのにも、その──嫌われたのかと」
 気にする深井にくすりとすると、「そうだな」と普段はいまさら開きたくもない引き出しを覗いてみた。
「今、同じクラスの笹原っているじゃん」
「あの背の高い奴ね」
「あいつとかけっこう仲良かった」
「そうなの。へえ。あいつ」
 現在、俺と笹原にいっさい接点はない。余計に深井は慮外そうにフォークをかじった。
「親友は、寺岡賢司って奴だった」
「え、寺岡って──あの」
 深井も知っているのかと驚いても、そうだ。深井は智也と二年生でも同じクラスで、賢司の隣のクラスだったことになる。
「いったん音信途切れたんだけど、幼なじみなんだ。家族さえ分かってくれなくても、あいつは分かってくれる気がした。あっさり避けられるようになって、ショックだったよ」
 冷たく濡れたグラスを取り、麦茶で甘味を紛らした。キッチンではおばさんが食器を片づけている。
「芽さんには、友達っていなかったのか」
「こっちに来て四ヵ月で閉じこもるようになったんだよ」
「あ、そうか」
「向こうでの友達とも、いつのまにかやりとり途絶えちゃったし。友達にまで裏切られてたら、おにいちゃんは持ってたかな。塩沢はすごいね」
「つらかったよ。あいつに拒絶されるんなら、誰も分かってくれなくて当然かとも思ったし。何度も、それなら死にたいとか考えた。二年ではその気持ちを深めることばっかだった。三年になって、いきなり出てきた智也が、しばらく信じられなかったよ」
 智也の家を訪ねたのは、深井にも話している。詳しくは語らなかったが、智也とおばさんのあのノリは伝えた。深井は気鬱そうにため息をつくと、ホイップクリームの中で息苦しそうないちごをフォークの先でいじった。
「桐島が母子家庭なのは知ってた」
「え」
「二年のとき、同じクラスだった子はみんな知ってるよ。あいつが光瀬さんと何かやって問題になって、あれって結局偏見で片づいたんだ。父親のいない子だから、常識を持ってこっちが言い聞かせても無駄だって」
 深井は緩く目を伏せると、フォークに引っかかったいちごを口にして飲みこんだ。
「あたしも、どこかでは、みんなと一緒にそう思ってたのかも。あいつが、塩沢に偏見しないっていう正しいことやってるのが、ショックだった。あたしたちのほうが頭悪くて、あいつは自分で考えて決めることができてるんだって──負けたって思った、これはあいつにばらさないでよね。三年になってすぐ塩沢に近づけなかったのは、隣にいる桐島にビビってたからもあるのかもしれない」
 深井を見つめた。夏休み中、彼女はいつも髪をおろしていて、その髪がうつむいた頬にかかっている。
 俺は智也を思い出し、もしかすると俺以上にいろいろあったのに、何であんなに強いんだろ、と思った。そんな奴が俺と友達になりたいと思ってくれたのもよく分からない。まあ合うとは思うけど、なぜ智也は俺なんかと気が合うと分かったのだろう。
 やっぱいろいろあったからなのかなあ、とよく分からない答えが写真に入りこんだ幽霊の影のようにぼんやり浮かぶ。そうだ、写真といえば──
「四年前は、芽さんって普通に生活してたんだよな」
「え、まあね」
「写真ってある?」
「え」
「芽さんの写真。四年前のでも。俺、顔見たことないんで、よけい向こうに人がいるって実感なくて」
「あったっけ?」と深井は少し声を高めて、向こうのおばさんに問う。「何?」と振り返ってきたおばさんは、「おにいちゃんの昔の写真ってある?」と深井に返されて、わりに即座にうなずいた。
 エプロンで手を拭きながらテーブルの脇を抜け、リビングの本棚から、一冊の浅葱色のアルバムを持ってきてくれる。ホコリっぽい様子がない暗示が、ちょっと痛かった。おばさんも覗きながら、深井がそれをめくり、「これ」と彼女はアルバムを俺に向けて、パールホワイトの指先で縦の一枚をしめした。
 切り取られた海の風景の中に、四人家族がいた。おじさん、おばさん、深井は制服すがたのときよりあどけなく、その深井の隣に深井よりおばさんの面影がある少年がしゃがんでいる。
 ぱっと見でもすごく穏やかそうで、瞳の感じが儚いぐらいに優しい。軆つきはごつごつしていないけど、肩幅なんかで華奢な印象はなかった。しっとりと黒い髪が風になびいている。
「この人が」
「うん。これは──いつのだっけ」
「あの子が十四歳のときね。亜里紗は十歳」
 ページをめくって、いくつか芽さんのすがたを見せてもらった。期待してもしようがないと思っていた予想より、ずっと美形だ。俺の好みかとか、そんなのは分からなくても、どの写真でも凪いだ印象がある。
「……俺は」
 芽さんのすがたを見つめながら、ぽつりと言葉をこぼした。
「智也みたいに強くないし、頭もよくない。深井とかおばさんが思ってるより、はるかに弱い。智也が俺にやってくれたように、俺が芽さんにできるかはほんとに分からないんだ」
 ふたりの視線が来ている中、俺は芽さんの四年前のすがたに目を据えている。芽さんはほのかながら咲っている。この人は、死ぬまで雨戸も閉め切った部屋にこもり、二度とこんな微笑を自分に許さないつもりなのか──。
「でも、来るよ。夏休みが終わっても。ひとりで部屋にこもって、毎日が充実してるなんてありえないし、ありえたらそれはそれで病的だし。人の役に立ちたいなんて思ったことなかったけど、芽さんには思うんだ。それが友情みたいなものか、それ以上のものかは分からなくても」
 深井とおばさんに顔を上げた。ふたりともすでに分かっておいてくれた、柔らかな表情を返してくれた。
 ほっとしていると、「ありがとう」と深井に言われて首を振る。「自分のためでもあるから」ともう一度芽さんに目を落とすと、目標として、その温容をじっと瞳に焼きつけた。
 八月も下旬になり、あんなに激しかった蝉の声はキワモノのスターのようにすたれてしまった。
 太陽はまだまだ熱気を照りつけてくる。今日は午前中は暑い湿気がこもった部屋で、汗だくになりながら宿題に追いこみをかけていた。盆も台風も過ぎ去った青空のまばゆさに、シャーペンを握る手もプリントの束も、燃え出しそうに照らされている。
 どこかの臆病犬が嗄れない喉で吠えつづけ、いらいらして今日も予定通りのぶんは終わらなかった。
 イガが搏動しているみたいに、頭がずきずきする。こういう気分のときは、直結で死にたいと思う。このままでは皺寄せが溜まってくるだけだと分かっていても、やれないのだ。数式も文法も無駄の骨頂に思える。悪魔の黒いため息のような、不安も怒りも恐怖も綯い混ざった、この煙たい靄に較べれば。
 できない。考えられない。
 そんな散漫な沼に落ちこむほど、考えて取り組める精神状態とかけはなれているのを痛感して、無気力が蔓延していく。夏休み終わっちまうのに、と思うと、焦慮に泣きそうな雑音が混線する。
 芽さんの部屋の前で、俺はだらだらと気丈な理想を述べている。あれはけして嘘ではない。けれど、たぶん前向きなところだけ切り取った話だ。
 確かに、そういう部分を見つめられるようにならなければならないと思っている。でも、光ばかりに身を浸しておけるほど、俺は強くない。こうして突如押しよせた闇に飲みこまれ、破壊的な気分になるときもある。
 一度そういう気分になれば、立ち直るのには何日もかかる。闇は闇を溶解して、クローゼットの扉を開き、言われなければ忘れていた記憶まで呼び覚まして、俺の脊髄を壊滅する。
 そういうとき、芽さんのところで語ったような光は、たとえ消えていなくても、どろどろした吐き気に視界も膝もがくがくで、どのみち見据えることができない。車に酔ったときみたいに、目先の不愉快しか考えられない。
 不快は不快を連鎖して、俺を消えない光景や音でさいなむ。気分がマシになるまで、思い出したくもない真っ黒な血に侵蝕された経験をまたひとつ増やす。
 仕方のないことだとは、多少わきまえている。芽さんのところで脈絡なく話し、墓穴でくだらないことを思い出すときがあった。話の流れに任せていると、必然、泥水の味を舌に滲ませるときもある。
 家族にすべてばれたときを思い出すと、冷たい体温が細胞を仮死させて、いたたまれなくなる。裏庭でのリンチを思い出すと、屈辱が燻って、砂の味に膿みきった脳内が怖くなる。屋上での陰口を思い出だすと、雨音がみぞおちにぬかるんで、めまいに立っていられなくなる。榎本の裏表、堀川の無責任、東浦の体罰、途方もない数の中傷、揶揄、うわさ、あらゆる嫌悪する目、軽蔑する眉、偏見する口──
 このあいだ深井家を訪ねたとき、抱えた膝に顔を埋めて、長いこと黙りこんだ。カミングアウトしたわけではないという話から、なぜばれたのかという話になって、そのあたりを刻銘に思い出してしまった。
 あれは一年生の九月の日曜日のことだった。そんなところまで細かく憶えている因果が、できれば記憶している部分の脳みそをちぎりとってしまいたいぐらい苦しい。
「……ごめんなさい」
 ずいぶん息も殺していたあと、いっそ泣きわめいてめちゃくちゃに発散したい気分を抑え、低い声で言った。
「そういうわけで俺、自信持ってみんなに知られたわけじゃないんです。あれがなければ、隠してただろうし。深井は俺をかなり強い奴として話してるんだろうな。けど、俺、ほんとはぜんぜんそんなのじゃない。今でも何でばれたんだろうって、あの日の行動を後悔してる。ばれないように必死だった。自分がゲイだって受け入れるのにもすごく時間がかかった。認めても、嫌われるのが怖くて誰にも言えなくて、どんどん嘘に閉じこもって、ほんとの気持ちは表に出すのが怖くなって。ばれて、いろんなことがあった。普通に生活していこうって気持ちを逃げたい、死にたいって気持ちで挫くことがほとんどだった。事あるごとにこんなどん底に堕ちなきゃいけないなら、本気で死にたい。って、死ねないくせに思うのがつらい……」

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