懐かしい声
肌を焦がす晴天の元、いつものT字路にいる。相変わらず排気とタイヤの臭いが陽炎に立ちのぼっている。ミートパスタの昼食を片づけると、電話の子機を盗んで、部屋に行った。
暗い気分は続いていた。こういうとき、甘えさせてくれるのが友達である気がした。でも断られたときの虚しさが怖くて、汗をしとしと流しながら桐島家の電話番号を目でたどっていた。
頭が痛い。気分も悪い。部屋にこもっていても、この思わしくないべたべたした反響は悪化するばかりだ。横たわるだけ考えごとが加速して、かえって疲れる。
何かしようという気分でもないのだけど、とりあえずマシにできるのならしたいので、思い切って智也に電話をかけた。そして、思ったより簡単に唐突な申し出を受けてくれた彼のおかげで、蒸釜のような部屋も監獄のような家も脱出してここにやってきた。
「柊っ」
電柱にもたれて透き通る青を見上げ、心を空っぽにしておきたいのに結局ぐちゃぐちゃ考えていると、左手にそんな声がした。首を捻じると、カーキの英文字Tシャツにベージュのパンツの智也で、黒いTシャツにブルージーンズの俺は脚に体重を戻す。
「智也」
「ごめん、皿洗ってたら遅れた」
俺のかたわらに駆け寄ってきた彼は、弾む息を大きなひとつでなだめる。
「構わないよ。俺こそごめん、いきなり」
「別にヒマだったし。あー、しかし、来週には二学期だってのに暑いなー」
智也は汗ばんだ前髪をかきあげて、日射しに目を細める。今日は八月二十九日の水曜日、今年の二学期は来週の月曜日、九月三日に始まる。
「ヒマってことは、宿題終わったのか」
「そうね、だからラスト三日ぐらいはほっといてくれ」
俺はわずかに笑みをこぼしたものの、いつもより淡彩なのが自分でも分かる。智也も首をかたむけると、「何かあったのか」と腰をかがめて俺を覗きこんだ。
「ん。いや、まあ──ちょっと気分よくない」
「夏風邪?」
「そういう、薬飲んで治るものならいいけど」
智也は腰を伸ばすと、かがんだ拍子にずりおちた迷彩柄のリュックを肩にかけなおす。俺も右肩にベージュのリュックを連れている。
「君も繊細だよな」
「神経質って言っていいよ」
「俺ならめんどくさくてとっくに開き直ってるよ。何かはあったんだろ」
眇目をした智也を見つめ、「まあね」と曖昧に肩をすくめる。
「くだらないよ」
「でも、ドア相手に愚痴りたくはないんだ」
まわした万華鏡みたいに、今度は鋭くにやりとした智也に、俺は言葉につまずいて、妖怪の息のように生温い風に目をそらす。
車道は朝夕のせわしなさはなくも、そう間引きもせずにメタルカラーがぎらつく車が通り過ぎている。
「どっか、涼しいとこ行きたいな」
「俺んちは、昨日ゴキが出たばっかりに、殺虫剤たいてきたのだな。柊んちは」
「かあさんとねえちゃんがいる」
「あー。君の部屋は、クーラーがなくて過酷だったな」
盆に両親とねえちゃんが帰省したとき、智也は初めて俺の家を見学しにきた。
家族がいるところに招いたら、厄介そうだったからだ。家族に変な勘違いをされたり、智也の幼い頃の家庭に通じるかもしれない冷めた空気を彼に感じさせたり、エアコンのない俺の部屋に閉じこもらなくてはならなかったり。
結局、あのときも智也は俺の本棚から読んだことのない漫画を発掘すると、クーラーのある一階で、読書のかたわら俺の愚痴につきあっていた。
「その姉貴に、男はいるのか」
「聞いたって、お前、彼女いるだろ」
「高一だっけ。いるよなあ。処女だと思う?」
「知らないよ。男がいるかも知らない」
「ブスなのか」
「性格がむずかしい。俺のどうこうがばれる前から、わがままだったし。機嫌悪いときは、冗談通じないし」
「女性的だ」
智也は皮肉な笑いを噛むと、「どっか行くか」とちょうど青になった信号に横断歩道に踏み出した。その隣に追いつくと、黒と白を渡って、来週からまた毎日通る坂道を下りはじめる。
「で、何があったんだ?」
「え。あ、ああ」
公園を囲う葉の匂いが蒸せる木陰を歩きながら、道路に視線を落とす。気だるくざわめく広葉の影の中には、つぶれたゴミに混じって黒い蝉の死骸もある。
「こないだの土日にさ、母親の実家から電話があったんだ」
「実家っつうと」
「田舎。じいちゃんとばあちゃんのとこ」
「どっちか死んだのか」
迷彩柄みたいに葉の影が映る智也に横目をする。
「それをくだらないって言うほど、俺は切れてないつもりだけど」
「はは、そっか。そうだったな」
「ただ、電話があったんだ。俺宛てにな。最後に会ったのが一年半も前なのは、盆に会ったとき話しただろ。それまでは盆と正月、年に二回は会ってたぶん、じいちゃんたちは複雑みたいでさ」
電話をかけたら出るのよ。かあさんにそう言われながらも、留守電をかけて応えなかった俺は、長らく祖父母とは口をきいていない。「おばあちゃんが話したいって言ってるのよ」とかあさんに電話の子機をさしだされ、受け取るのもずいぶん躊躇ったものだ。
俺の部屋の明かりが射す廊下は暗く、時刻は二十一時になろうとしていた。かあさんの手の中で、電話は保留の旋律を鳴らしている。
祖父母を思い出し、嫌いになったわけではないと思った。が、そう言いながらも訪ねない理由を説明しないのは、むずかしい気がした。
俺はすっかりかあさんの身長を追いこしている。見上げることなく、ただ目線を下にずらしてかあさんを見ると、「ほら」ともうちょっと電話をさしだされて、のろのろと受け取った。
「出てあげて」
「……見てるのか」
「途中で切ったりしないわね」
俺はかあさんの厳しい目を見ていられなくて、電話に視線を落とした。もはや、この家庭で俺に信用はない。
「……しないよ。話すから。立ち聞きされるほうが切るよ」
俺の低い声に、かあさんは息をつくと廊下に引き、俺はドアノブをつかんでドアを閉めた。足音が聞こえるまで、電話には出なかった。ようやく抑えられた足音が一階まで消えるのを聞き届けると、憂鬱な息を吐いてベッドサイドに腰かける。
煮立った部屋に窓を開けているけれど、それでもシャワーを浴びたいい匂いの肌には、汗がぽたぽたしたたっている。揺らめくカーテンの隙間から、虫の澄んだ声が忍びこんできていた。
点滅する保留ボタンに、虚ろな視線がなずむ。ぜんぜん乗り気ではなかった。正直嬉しくもなかった。
そういえば、一階の親機で盗聴したりできるのではないか。猜疑が燻ったけど、まあ聞かれてまずい話はしないだろう。気鬱でしくしく疼く腕の筋肉をこらえて手を持ち上げると、旋律を止めて電話を耳にあてた。
「もしもし」
『あ、もしもし。柊ちゃんかい』
息が詰まったような喉に少し口ごもっても、「うん」と目の前には誰もいないのに前髪に目を隠してうなずく。
「……ばあちゃんだね」
『うん。ああ、声憶えててくれたんだね。ごめんね、こんな時間に』
「別に。何もしてなかったから」
『そう。あ、おじいちゃんだよ。──柊ちゃんが電話に出てくれたよ』
漠然とやりとりが聞こえ、俺は首をすくめて息を吐いた。何でだろう。音しか聞こえないのに、向こうの古い座卓やたたみの匂いが思い出せる。
『柊』
がちゃ、という音に続けて聞こえたのはじいちゃんの声だった。ばあちゃんより、口調がしっかりしている。
『久しぶりだな。じいちゃんだ。元気か』
「ん、まあね。一応」
『お盆も来なかったから、おばあちゃんとがっかりしとったんだぞ』
「ごめん。受験とかいろいろあって」
『そうか……。雪乃は去年来てたのになあ』
「俺はねえちゃんみたいに頭よくないし」
『去年のお盆からの小遣いが貯まってるぞ』
「貯めてんの。いいよ、使っても」
ちょっと咲ってしまうと、『楽しみなんだよ』とじいちゃんは笑って返す。電話だから、向こうには俺の様子は咲い声しか伝わらなかっただろう。
本当は、俺は泣きそうな顔をしていた。
『柊ちゃん』
じいちゃんがばあちゃんに電話を返すと、病気になって以来、頼りなくなったばあちゃんの声がした。
『お正月には来るのかい』
「えっ」
『柊ちゃんが来ないと寂しくてねえ』
「お、俺以外のみんなは行ってるじゃん」
『みんな揃わないから、寂しいんだよ。本当に何にもないのかい? おばあちゃん、柊ちゃんに嫌われたんじゃないかって心配だよ』
床の素足にこわばった目を落とす。
どう、言えばいいのだろう。喉に穴が空いたようで、どんな言葉を継ぎあてれば息が通るのか分からない。
視界を陰らせる前髪が、かすかに震える。
「そんなこと、ないよ」
やっとそう声を発し、肺にまで食いこんでずきずきする喉に目をつぶる。
「正月は、分かんないけど。いつかまた行く」
『本当に何にもないんだね。柊ちゃんは現代っこだから、どんなことがあるか気が気がじゃなくて』
「何にもないよ。俺は普通だよ。何もおかしいことにはなってない」
言い切ったあとでこみあげたやましさが、喉元を絞めた。
何で。でも、そうだ。こんなのは嘘だ。さまざまなことが起きている。俺は普通じゃない。もしかしたらおかしいのかもしれない──。
『そう。よかった』
ばあちゃんの安堵した声が、膜がかかったように遠くに聞こえる。
『何かあっても、おばあちゃんは柊ちゃんの味方だからね。柊ちゃんは柊ちゃんだから。隠しごとするよりは、言ってちょうだいね』
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