葛藤の末で
短い影を引く自分の足取りを見つめている。部活動の生徒が声を上げる学校を過ぎれば、あとはコンクリートの建物だから蝉の死骸もなくなる。昨夜よく流せなかった涙のぶんのように、こめかみにはとめどなく汗が流れていく。
「言おうかと思ったけど、言わなかった。やっぱり、これを言えば嫌われる気がして。そういうのがつらかった。自分さえそう思うのが。本音では俺もいまだに自分を認めてないのかもしれない」
智也はさっきからめずらしく口をはさまない。さすがに鬱屈しすぎていて聞きづらいのかと思っても、いったん吐き出しはじめたものは止まらない。
「俺を偏見して、嫌がらせする奴らのほうが当たり前で、周りが変わって理解すべきだなんていう俺のほうが、勝手なのかなとか思って。どんどん悪いこと考えて。電話とかされなければ、って逆怨みになってくる自分が嫌だった。自分に対しても、周りに対してもいらいらしてきて。俺が強ければ、……もっと、強かったらよかったんだ」
靴底がすれる足音を残して、ようやく口をつぐむ。この暑さの元、笑いもなくしゃべって喉がからからだ。でも、今すれちがっている自販機で好きな飲み物を選ぶとかそういう気分ではない。
すぐ脇をオートバイが排気をふかしてくだっていった。その爆音を見届けるついでに顔をあげられた俺は、智也を向き、彼ときっかり目が合ってしまってちょっとぎくんとした。
「やましさは嘘に対してだろ」
「えっ」
不意に発された声も瞳も、智也はいつになく冷静でまじめなものにしていた。
「お前は何にもないってことはないね。イジメとか拒絶とか遭ってるじゃん。やましいのは、そういうのに遭ってるのに無いって言ったことにだろ」
「……そうかな」
「本気でゲイは問題だと思ってる?」
「思ってないけど、心の底では──分からない」
「分かんないなら思ってないことにしな。だいたい、事実として悪くないんだ」
正面に向き直る智也の頬に視線を残し、そのうち白日に鮮明な影に目を伏せる。
「向こうは悪気なかったこと、落ちこむきっかけ作りやがったって怨むのもつらいんだ」
智也が聞いているかは分からなくも、ひりつく喉にかすれた声をこぼす。
「分かってる、俺が弱いのが悪いんだって。向こうは俺を傷つけようとしてやったんじゃない。それでも、何で安定を崩させるんだよって。一度踏み外せば、死にたいってとこまでいく。ここまで落ちこむことじゃないって言い聞かせても、こういう気分を味わってるってことで、前のそういう気分だったときのことも思い出してわざと悪くなる。自分でいらないこと思い出して、悪くなるんだ。嫌な気分がこびりついて離れなくて、それがもっと悪いものを呼び寄せる。それで取り返しのつかないとこにハマって、また立ち直るのから遠ざかる」
息継ぎに少し黙ると、智也がリュックを肩にかけなおして、こちらを向いたのが音と影で分かった。何か言われるのが怖くて、慌てて口を開く。
「だから、俺はいつも忘れられたらいいのにって言うんだ。初めから何もないほうがいいって。智也が言ってくれたことも分かってる、でもいざ苦しくなると全部投げ出したくなる。いくらやっても、またこんなときが来て台無しになるなら、やめたいって」
智也の影は、俺を見つめたままだ。俺はだんだんみじめな弱音が恥ずかしくなって、さらにうなだれる。
車がいくつも通り過ぎ、坂道も終わりかけてきた頃、「なるほど」と智也は渋い大息とこまねいた。
「確かに、引きこもりの人間に聞かせる話じゃないかな」
智也を流し見て、「そこかよ」とつぶやく。智也は腕をほどくと、陰気臭い俺に悪戯ににっとした。
「全部、お前の弱さのせいとは言えないんじゃないか」
「え」
「気に障ったらごめん。たとえばお前、東浦に体罰とかされてただろ」
びくんと首を正して目を開く。智也は無頓着に肩をすくめ、すれちがいざまの自転車のおばさんをよける。そういえば、この時間帯と暑さに歩行者はあまり見かけない。
「一度、見たことある。お前が制服のままグラウンド走らされてるとこ。一年の冬で、暗くなってもやらされてた。俺はあの日、親同伴の呼び出し食らって学校に残ってたんだ。香野じゃないよ、香野が俺を許しちまうんで、見兼ねて教頭に。かあさんと教頭のサシになって、俺は外に行って、ぶらぶらしてたらお前が折檻されてた」
しばらくまばたきを凍てつかせていたものの、ゆっくりまぶたをおろして、その奥を血の色に傷めた。
憶えている。あのとき、めまいと息切れでぼろぼろになっていたところに、あいつにこう追いうちをかけられた。気色悪い趣味にかまけているから、そんなふうにたるむんだ。
あいつが去っても、朝礼台に伏せって、あたりが真っ暗になってしまうまで動けなかった。そして、ようやく帰ろうとふらふらと歩き出して──
「そういえば、帰るとき、昇降口に誰かいた気がする」
「あー、それ、俺だな。リンチされたとかも言ってたじゃん。お前は、いろんな奴にいろんなことをされた。弱いっていうかさ、傷つけられまくったら低下するんだよ」
「でも強かったらそんなの、」
「ゲイってばれて、初めて虐待受けたんだろ。それまでイジメとかされたことあった?」
「ま、まさか」
「じゃあ、弱くて当然さ。初めから強い奴なんていないんだよ」
「じゃあ智也は」
妙な反抗心だけで口走ると、「俺は家でごちゃごちゃあった」と自虐的なことを言わせてしまった。
坂道が終わると横断歩道があり、向こうに駅までの商店街がある。ちょうど赤信号で足止めを食らった車が、不機嫌そうに唸るそこを渡ると、「言っただろ」と智也は俺に瞳をやわらげた。
「今でも親父が家にいたらグレてたって。立ち直るっていうのは、終わったあと、過去になったときできることなんだ。かあさんは、自分と俺があの男に人生を費やして後悔しないように、早いとこ切れた。それでも、落ち着くのには五年以上かかった。俺とかあさんは、毎日喧嘩ばっかだったときがある。こう言ったら引っぱたかれたよ、『何であんな男と俺を作ったんだ、こんなことなら初めから生まれなきゃよかった』」
疑似餌に引っかかってめくれた魚の口みたいにまぶたを押し上げる。智也がそんな台詞を吐いたことがあるのか。
「でも、そういう喧嘩もあの男がいなくなってこそできた葛藤なんだ。最中にいて片がつくわけないんだよ」
「……でも、俺は俺の人生にいつづけるじゃないか。ゲイってのは終わることじゃない。俺は一生片をつけられないのか」
「いろいろあるさ。誰も自分を知らない遠くにいってストレート演じるのに慣れたり、同性愛の土地に消えたり」
「俺は」と強い語調を使おうとすると、「うん」と智也は微笑んで俺をさえぎる。
「だから、お前は強いって俺は言うんだ。普通の生活をしてればたたかれるのは承知で、その中で立ち直ろうとしてる。すごい挑戦だよ。安定感ない中でバランス取ろうとするなんて、俺ならとっくに無理だって見切って、別の方法で片づけてるね」
苦笑する智也を見つめ、蒸し暑さに活気もだるい商店街を足に任せて歩いていく。安定感のない中でバランスを──。
ぐったり抜ける風に前髪を揺らし、陽のあたるアスファルトに首を垂らした。
「無理、かなあ」
「さあな。ただ、俺はあいつが同じ家にいる中で、立ち直ろうとかそんなことには頭まわらなかった。別れて安定したって、こんなふうになるのには何年もかかった。まあ何年で済んだからよかったんだよな、あいつと過ごした年数に比例して葛藤が長引いてたら、疲れていっそ人生投げてたかもしれない。何十年もかかって立ち直る人もいるけど」
智也はTシャツの胸元をつまんで、べたつきをはらうようにあおがせる。ここはあまり車は通らないので、大気汚染っぽい空気でなく、テイクアウトできる食べ物の匂いが混じっていたりする。
「ま、安定ない上、真っ暗闇の中で立ち直るのは無理だよな」
「え」
「だから俺は、お前の友達になりたいと思った。こうやってほんとに友達になれたから説得力あるだろ、俺はお前が死んだら困る。お前をぐらつかせる奴とか、物とか、死ぬまであるだろうけど。ときどきは、何でもない軽い風みたいなもんが、ちょうど傷口に触れたから、すごい激痛になったりもするだろうけど。でも、俺がずっと友達のままでいてやる」
言葉も表情も忘れて智也を見つめ、智也はさすがに照れ咲うと俺を肘で突いた。
「こうなろうと思って、いきなり完璧にそうなれるはずないんだ。強くなるまでには、誰だって情けない気分を味わうんだよ。はなから強い奴は、生き物じゃないね」
緩い夏風が髪や服に流れ、自分の靄がようやく奪われていくように感じた。「うん」と小さくうなずくと微笑を作る。
「智也も、強いよ」
「ずぶといとも言うが」
「俺、自分がそんなすごいことやってるとは思ってないや。ただ自分は普通なんで、平凡な生活を送れるって──ゲイってことがなければ、俺なんてぜんぜん地味だろ」
「まあそうね」
「ゲイとか抜きにして、俺って奴を焦点にしたら、レールに沿った生活がお似合いなんだ。アウトローは柄じゃない。そうなったら楽だとは思うけど、そうなりたいと思わない」
「やりたいようにやりゃいいのさ」
智也は久しぶりに彼らしい投げやりな発言をし、「そうだな」と噴き出してうなずいた。
そうだ。俺のやりたいことは、非常階段を降りずに日常生活を送ること──そこで咲ったり、泣いたり、出逢ったりしていきたい。
「あ、ばあちゃんとこには恋人つれていってみれば」
「はっ?」
「候補もいますでしょ。それですっげえ幸せそうにすんの。そしたら分かってくれるかも」
「そ、そうかな」
「幸せ邪魔してまで否定するなら、その時点で見切るんだな」
苦笑いすると、「考えとくよ」と答えて、気になるところに話を引き戻す。
「それより、候補って芽さん」
「もち」
「まだ分かんないんだけど。ほんとどうなるんだろ」
「ちなみに俺は彼女といい感じだ」
「続いてるんだ」
「なー。自分でも意外だ。ひと夏の恋かと思ってたのに」
そんなふうに話が軽やかになってきた頃、駅に着いて俺たちは財布を取り出した。「どうする?」と顔を合わせて、いつも出かけるあたりに繰り出すことになる。
切符を買って、空いた車両に飛び乗る。静かな車内では扇風機が風音を立てていた。発車した電車から景色を眺め、この親友がいればもしかするとこの町を出ていかないかもかな、と話しかけてきた智也を向いて初めてそう思えた。
【第九十五章へ】
