届いた手紙
『塩沢柊様』
二学期が始まって、一週間が過ぎた月曜日のことだった。六教科ぶんが重たい手提げを引きずり、朝から残暑も厳しい中、登校して靴箱を開くと、上履きの上に薄い封筒が乗っていた。
眉を寄せて取り出すと、無地の萌葱色の封筒で、表には黒いペンの丁寧な横書きでそう宛て名がある。反射的に裏返すと、右端に同じ字で見憶えのない名前が記してあった。
『二ノ宮夏樹』
「おっはようっ」
いきなり背中をはたかれてどきっと顔を向けると、にっとしてきたのは、デイパックを肩に引っかけた智也だった。「暴力で挨拶するなよ」という俺の顰め面は無視し、「何」と彼は俺の手元を覗きこんで素早く封筒を取り上げる。
「あ、」
「うわっ。ラブレター」
「よ、読んでもないのに断言するなよ」
「何? 誰から? ──二ノ宮夏樹。知ってる?」
「知らない」
靴と土のにおいが混じった靴箱から上履きを取り出すと、スニーカーを代わりに突っこむ。
「俺も知らんな。夏樹。男かな。女かな。開けていい?」
「何でだよ」
本当に開けそうな智也から手紙をもぎとると、ちょっと変な気持ちで自分の名前を一瞥し、がさつに右のポケットに押しこんだ。
「ああ、愛の告白に何てことを。ゲイのイメージ、ガタ落ち」
「どうせろくなもんじゃないよ」
「ポジティヴに考えろよ」
「ポジティヴに考えて、ネガティヴなことになったらショック大きいだろ」
「常套弁解だ」
俺がすねた顔で先に行こうとすると、「待てよ」と智也は急いでスニーカーを上履きに履き替えた。二メートルぐらい先で止まった俺は、彼のほうに向き直って、蒸し暑い指で汗ばむ髪をはらう。
俺のすぐ背後の廊下では、すでに生徒たちが行き交って咲いさざめている。智也は俺に追いつくと、おやつの匂いをかぎつけた犬みたいに、俺のポケットを覗きたがった。
「何だよ」
彼を避けるように廊下を歩き出し、智也は左隣に並ぶ。
「読まないのか」
「教室でな」
「教室じゃ揶揄われるかも」
「じゃあ、家で」
「ラブレターか違うかぐらい、教えてくれたっていいじゃん」
智也に横目をし、さっきから脳裏にちらついている記憶に陰鬱な息をついた。こういう手段を使われたことがある。二度も同じ手にかかり、痣まみれになって土のにおいに昏睡したくはない。
朝陽がまばゆい渡り廊下で、「前も話したけど」と智也にそのあたりを手短に説明した。
「もしラブレターっぽくても、種明かしはそんなんだろ」
智也は、いまいち納得しない目見で俺を見つめる。「じゃなかったら」と俺はずっしり重い手提げを持ち直した。
「もっと率直に、悪口かも。前もエイズとか入ってたの見ただろ」
「読まなきゃ分かんないじゃん」
「分かるよ」
「出した奴に悪気がない場合はどうなるわけ。とりあえず読めよ」
「嫌な気分になるって分かってるもん読んだって、」
「あーっ、だったら俺だけ読むっ」
「何だよそれっ」
「俺は気になるんだよっ」
「俺宛ての手紙をお前が気にすんなっ」
「やっと喧嘩にお初が来たね」
突然背中に割りこんだ声に、歩きながらポケットに手を突っこもうとしたり、それを避けたり防いだりしていた俺たちは、足を止めた。
振り返ると、そこにいたのは両脇で髪を縛った白い丸襟ブラウスに紺のプリーツスカートの深井だった。
喧嘩。俺と智也は顔を合わせると、咳払いで姿勢を正す。深井は楽しそうに咲うと、俺の右隣に並んだ。
「手紙とか言ってたね」
「どうせ悪戯だよ」
右ポケットのつぶれかけた封筒を取り出して見せる。「俺には渋ったくせに」と左隣の智也がふくれっ面になる。
「何? 読んだの?」
「まだ」
「差出人は? なかったら怪しいね」
「一応あるよ。二ノ宮夏樹。知ってる?」
「二ノ宮──聞いたことないな。学年違うのかな。一応読んでみればいいじゃない」
「……でも」
「ムカつくこと書いてたら、その二ノ宮夏樹を捜して殴ればいいし」
「実に女らしい考えだよなー」
「何か言った?」
深井は、敵を感知した猫のように俺越しに智也をぎろりとし、智也は口笛でも吹くような顔で向こうを向く。相変わらずのやりとりにはさまれて息をつくと、手の中の封筒を複雑に見つめた。
流れている周りに合わせ、ひとまず俺たちは階段へと歩き出す。
「読まないのはもったいないと思うけどな」
「でも、むしろ損するかも。もし二ノ宮夏樹っていうのが偽名で、存在しなくて、開かせるために適当な名前書いたとかだったら」
内心で思っているだけならありえそうな気がしたが、口にすると、被害妄想もいいところに思えた。
ふたりにもそうとしか聞こえなかったらしい。智也は視線をよそにやって息をつき、深井は天井に上目をして肩をすくめる。
「そこまでいくと、警戒心も想像力だな」
「ミステリー作家になれるよ」
頬を無性に熱くさせると、捨て鉢な気になってひと思いに封をちぎった。「お」と智也はすかさず瞳を輝かせ、深井も興味をたたえて覗きこんでくる。
俺は便箋を取り出す前に、ふたりを一瞥した。
「お前たちって、お似合いだと思う」
智也と深井は同時にぴくりと俺を見て、顔を合わせた。拒絶反応の火花が散っている隙に、視線に縛られずに二枚重なった便箋を取り出す。
同じ色の便箋だ。とりあえず、真っ赤なマジックが透けたりはしていない。さしかかった階段をのぼる足は必然緩めつつ、俺は皺がついたふたつ折りの便箋を開いた。
塩沢先輩へ
突然こんな手紙出しちゃってごめんなさい。迷惑だったら破って捨ててもいいけど、よければ読んでください。
僕は一年三組の二ノ宮夏樹といいます。
先輩のことは入学したときから聞いてました。でもほんとか分からないから勇気が出ませんでした。違って、悪口とかで言われてるだけなら、先輩のほうが迷惑で、僕にも意味がないから。だけど、一学期の様子では、嘘でもないみたいだから僕にも告白させてください。
僕も小学校のときから、よく分からないけど同性に惹かれるんです。けどこんなのだれにも言えなくてすごく悩んでました。この学校に入学して先輩のこと聞いて、本当なら話をしてみたいと思いました。一学期もずっと見てて、話したほうがいいと思うようにもなりました。
ここで二枚目になった。智也と深井は気遣いなのかどうか、口喧嘩を始めていて俺の黙読を邪魔しない。
先輩は三年生で、受験だからいそがしいのは分かってます。ほんとは夏休み前に声をかけたかったんだけど、何か怖くて、こんな時期になっちゃいました。ごめんなさい。僕は夏休みはずっと先輩のこと考えて過ごしちゃって、二学期になったら絶対声をかけようと思ってました。
なのにいざとなると勇気が出なくて、一週間も経ってしまいました。考えて、手紙にしました。僕はよければ先輩と話がしたいです。何を話したいのかはよく分からないけど、たぶん先輩と話して損になるってことはないと思うんです。
先輩は僕なんかと話したらいらいらしてくるかもしれません。だから先輩がよければでいいです。先輩の都合のいいときに一年三組に来てください。待ってます。
二ノ宮夏樹
勘で階段をのぼったり踊り場を曲がったりしてきた俺は、封筒と同じ筆跡のその名前をしばらく見つめていた。
心臓も細胞も、狼狽にざわざわしていた。自制しようとしても、気持ちが震える。
これは、本物なのではないか。さすがにこれは、俺を騙して罰しようとしているのではなく、本当に一年三組にいるゲイの少年の真摯な手紙なのではないか。でもやっぱり、とあのリンチも執拗に頭に染みつき、あの記憶とこの文面、どちらを信じればいいのか混乱してくる。
あの呼び出し状に較べれば、この手紙には気持ちがこもっている。ひかえめでもある。俺はこいつの気持ちが何となく分かる。俺も先輩にそういう奴がいたら、話がしたいと思うだろう。というか、確かに芽さんのところにせっせと通っている。ゲイを嫌悪するストレートが書ける文ではない気もする。
けれど、そうしといて確実に呼び出して何かするのかも、としつこく懐疑ももつれ、そういう煮え切らない心持ちが自分で焦れったい。しかし、そういう奴は実際、ときどきバカバカしいほど手のこんだことをやるのだ。
「柊、次、階段じゃない」
不意にそんな声と腕をつかまれ、はっと顔をあげた。途端、持ち上げた足が架空の階段を空踏みし、俺は思いきり三階の廊下に前のめりそうになってしまった。でも智也が腕を引っ張ってくれたおかげで、みんなの前でバナナでも踏んだみたいに転ばずに済む。「ありがと」と俺が決まり悪く笑うと、智也は肩をすくめて手を離した。
「ずいぶん熱心に読んでましたね」
「嫌がらせだったの?」
右から深井も首を伸ばしてきて、「いや」と俺はぎこちなく手の中に便箋をたたむ。
「何か、一年の子で。ゲイで。俺と話がしたいって」
「あー、ほらほら。やっぱラブレターだ」
「す、好きだとかは書いてなかったぜ」
「好きだっていう話をしたいんだろ」
「みんな、桐島みたいに相手と進むことばっか考えてるわけじゃないんだよ」
「何だよ、処女」
「っ、言葉を選べ、このはやて野郎っ」
深井は俺の後ろをまわって、智也の脚に短めのスカートなんか気にしない蹴りを入れ、「てめえ」と智也はデイパックで深井の脇腹をたたきかえす。それが夫婦喧嘩にしか見えない俺はあきれた息をつき、便箋をしまった封筒は手提げに忍ばせた。
話がしたい。丁寧だけど、緊張にこわばった字が瞳に焼きついてしまっている。
どうしよう。一年三組の教室。一年三組におもむくと、クラス全員が俺を攻撃してくるなんてことはないだろう。が、落ち合ってふたりきりになったあと何かするとか、数人の仲間が出てくるとかはありうる。どうしたいというより、どうしたらいいのか分からない。
いつも通りざわめく朝の教室に着くと、智也と深井はめいっぱいの嫌悪を互いに顔に出してつんと別れた。俺は首を垂らして、何やら疲れた息を吐くと、窓際側の一番前の席に行く。
風通しの窓が開けられ、朝の涼みをはらんだ風が頬を撫でていった。
「マジあの女ムカつくよなっ」と俺の席にやってきた智也は、こまねいてどんとつくえに座る。俺はわずかに身を引いたあと、苦笑をこぼして息を抜いた。
「深井は、ちょっと智也のおばさんに似てると思うけど」
智也は片目でちらっと脇目をくれると、「まあな」と腕組みをといてつくえに手をつく。
「だから、あいつとつきあえば俺はマザコンだぜ。頼むんで、変な未来は想像しないでくれ」
「智也もな」
「………、そいつがタイプだったら、芽さんはどうすんの?」
「深井にもし告白とかされたらどうする?」
智也の眇目に俺はにっこりとし、たっぷり五秒で彼が負けたそっぽをした。
「賢くなってきちゃってさ」
「お前の影響だろ。分からないよ。会うかどうかも」
智也はしかられたような顔は放って、俺に向き直る。
「会うだけ会えばいいじゃん」
「結局のとこ、好意か悪意か分かんないだろ」
「俺が脇で覗いといて、何かされた場合にひかえとこうか」
「好意って分かりきってても覗くだろ」
「失敬な。口にしないほうがいい真実もあるんだぞ」
「はいはい。だいたい、二ノ宮夏樹ってほんとに存在するのかな」
つくえの隙間に頬杖をついて、気むずかしい顔になる。
「重症の考えかただな。ネットでもらったメールに思うならまだしも。手書きだったんだろ」
「まあ。でもさ。やっぱ怖いよ。何かあったらって」
「お前はゲイだってばれて生きてんだし、こういうのこれからもあると思うぜ。好意からでも悪意からでも。逃げてたって、また来る。だったら自分から向かって、慣れて、意外と平気じゃんって思うようになっといたほうが今後のためだと思うぜ」
智也を見上げ、にっとされると今度はうまく切り返せずに捻くれた仏頂面をしてしまう。智也は笑みをもらすと、「じゃあさ」とつくえを飛び降りて次は両腕を預けてきた。
「香野に訊けば」
「え」
「その二ノ宮くんがほんとに一年三組にいるか、そこの担任に確認ぐらいしてくれるだろ」
「きょ、教師にこんな手紙もらったことばらすわけ」
「あいつならいいじゃん」
智也の屈託ない目を見、「うん」とうやむやにうなずく。そのときチャイムが教室の雑音に割りこみ、「お」と智也も上体を起こすと、俺の肩をたたいて自分の席に行ってしまった。
生徒たちが自分の席に収まっていく中、香野がやってきて、教卓で出席を取る。俺は朝陽で陰影のかかるその横顔を見つめ、完全無視ってのも確かになあ、ともどかしく右のフックにかかる手提げを盗み見、ぱったりつくえの木の匂いに伏せった。
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