非常階段-96

先輩として

「先生」
 一時間目の国語の授業が終わったあと、急いで教科書を引き出しにしまうと、教卓で荷物をまとめる香野に駆け寄った。一時間ろくに授業に聞かずに考えた結果、確かめるぐらいなら傷をこうむることもないか、と智也の助言に従うことにしたのだ。
 顔を上げた香野は、「何だ?」と笑みを作って手を止める。俺はつくえと教卓のあいだに入りこむと、背後で動き出すクラスメイトたちを気にして曖昧に咲い返した。
「ちょっと、話があるんです」
「話」
 怪訝そうにチョークケースを教科書に乗せる香野に、俺はもうちょっと咲う。
「ダメですか」
「いや、別に。今か」
「はい。あ、廊下でいいですか」
「ああ」
 荷物を取り上げた香野ととりあえず教室を出た。廊下でも生徒はたくさんはしゃいでいるが、つくえでぼうっとしているふりで聞き耳を立てたり、口をはさんで邪魔してきたりする奴はいない。
 中庭が見下ろせる窓辺に寄ると、まだ影の長い足元に視線を揺蕩わせた。
「その、あの、何というか──」
 どう切り出せばいいのだろう。やっぱり、こういうのを口外するのは恥ずかしい。第一、向こうは好きだとはひと言も書いていないのに、手紙をもらったと言うと、もうラブレターみたいではないか。
 口に接着剤でも引っかかっているように言い淀む俺に、荷物を脇に抱える香野は、いったん生徒たちの流れを見やった。
「放課後にゆっくり聞いても──」
「い、いや、そんな、それはいいです」
「しかし、」
「そんな深い話じゃないです」
 恥ずかしさか焦りか、ほてって脈打つ鼓動に口調まで早くなる。香野は俺を見下ろして、やや鼻白んでいる。
「えと、教師が、担任じゃないクラスのこと知りたがっても、悪くないですよね」
「は?」
 まともに訊き返されて頬を染める。まわりくどいか。でも──。そうして躊躇っているうちヤケになってきた俺は、勢いで端的に話題を切ってしまった。
「一年三組に、二ノ宮夏樹って奴がいるか確かめてほしいんです」
 もちろん、まったく思い設けなかっただろう相談に、香野は何秒かぽかんとまばたいた。
「二ノ宮──」
「夏樹。男です」
 男。陽射しの加減かもしれないけど、その言葉に香野が何か感知した顔になった気がして、慌ててつぎはぎな弁解をつけたす。
「いや、俺が気があるとかじゃなくて、向こうが──というか。……その」
 頬を真っ赤に燃やしてうなだれた。墓穴だ。香野が噴き出すのが聞こえても、顔を上げられない。
「分かった。訊いておこう」
 前髪の合間にそろりと上目をした。香野はおかしそうに笑いを噛んでいる。
「ほんと、ですか」
「ああ。そんなことを知ろうとして、問題にはならないさ。担任は誰だったかな」
「……さあ」
「一年の先生に訊けば分かるか。一年三組の二ノ宮夏樹、だな」
「……はい。すみません、変なこと」
「気にするな。次に会うのはたぶん帰りだな。訊けてるだろう」
 よろしくという代わりに俺が軽く頭を下げると、香野はその頭をぽんとして生徒に紛れていった。「はあ」と声に出してため息をつくと、そばの窓にもたれてがっくり首を折る。
 恥ずかしかった。二ノ宮夏樹が実在すれば、彼もゲイだと香野には知られてしまっただろう。まあ、香野なら害はないか。「柊」と呼ばれて垂らしていた頭を上げると、正面で智也がにっとしていた。
「訊いたんだ」
「お前が言ったんじゃん」
 智也は俺の頬に手の甲を当てると、「オーブンに残った熱みたいだ」と国語の授業のあとらしい意見を述べた。俺は彼の手をはらってそっぽをすると、視界の端に中庭の芝生を入れる。
「二ノ宮くん、どんな奴だろうな。芽さんとやらより美形だったらどうしよ」
「お前はどうもしないだろ。それに、あれより美少年なら有名人だよ」
「え、あれの兄貴はそうも美形なのか」
「まあ。優しそうだったし」
 夏休みに見せてもらった芽さんの写真を思い返す。まあ、あれから四年も経ったわけで、現在容姿がどうなっているかは定かではない。
「写真の限りでは、ほら、あの、一学期の教育実習の人に通じるような」
「マジ。ああ、あの人は俺のめちゃくちゃタイプだった」
「だからお前、彼女いるんだろ。ていうか、お前の好みってわりと平凡だよな」
「どういう意味だよ」
 智也がおもしろくなさそうに眉を寄せたとき、チャイムが鳴って、俺たちは急いで教室に入った。「文句は次の休み時間だ」と布告され、俺は苦笑いと請け合うと、席に駆け寄って二時間目の理科の教科書を取り出す。
 開けられた窓に舞う風は、三階という高さにまだ涼しさをはらんでいた。
 かくして俺は、放課後までずいぶん落ち着かないそわつきに見舞われることになった。心臓が揺れ動いて、所作が寝ぐせみたいにまとまらない。手紙の内容が脳裏に刻まれてちらついて、窓を見たり天井を見たりしてしまう。
 智也はあきれていた。「自分以外のゲイは初めてじゃないだろ」と言われても、芽さんとは口をきいたことはないのだ。
 二ノ宮夏樹が俺をどう想っているかとか、そういうことでなく、彼に対しての自分の気持ちがどう転がるか不安で焦れていた。いきなり好きになるとは思わないが、俺は彼を前にして何を思うだろう。
 ほっとするだろうか。もし同族嫌悪があったら。彼がかなり落ちこんでいて、こちらも滅入ってきたら。反対に前向きすぎて、ヒイて苦手意識が芽生えたら。考えるほど混乱してくる。「存在するって方向で悩んでるんだな」と智也に冷静に発言されると、俺ははたと当惑を停止させて考えこんだ。
 ともあれ、二ノ宮夏樹が本当にいたら、今度こそ自分以外のゲイと話をすることになる。怖い気もする。楽しみな気もする。相容れない気持ちのぶつかりあいに神経が波立つ。一年の手紙もらったときとまるで一緒だな、とか気づくと、期待しすぎてもまずいなとしばらく努めて静かになった。
 けれど、あの文面がよみがえるほど、今度こそ間違いない気がしてくる。俺を呼び出してふくろにするつもりにしては、やはりひかえめで、こちらを窺い過ぎている。ごめんなさい、という言葉さえあった。あの手紙がいやがらせだったら、聖域に侵入するレベルで陰湿だ。
「塩沢」
 ついに訪れた放課後、席を立って手提げを持ち上げかけていた俺は、教壇を降りてきた香野の声にぎくりと固まった。女子たちの挨拶に応えながら俺の様子に笑った香野は、つくえのかたわらに来て、率直に答えをよこした。
「昼休みに、一年三組の担任の先生に訊いてみたよ。いるそうだ」
 いる!
 痙攣がつかえていた鼓動が大きな音を立てて止まった気がした。そこにデイパックを腕に通しながら智也が駆け寄ってきて、「どうだった?」と彼はいっぱいに好奇心を満たして、香野の隣に立った。
「この通りだ」
 香野にしめされて、かちこちに自失する俺を見た智也は、言うまでもない結果に肩をすくめた。
「何せ童貞ですから」
 智也は香野を見上げ、香野は仕方なそさうに智也の後頭部を軽くはたいた。
「当たり前だ。お前が変わってるんだよ」
「えー。そうかな。先生は初めてっていつでした?」
「勝手に想像してろ。塩沢、二ノ宮の担任の先生に訊いたのは、クラスにいるかどうかだけだからな」
「えっ」と肩を打って古い人形みたいに唐突にそちらを向いた俺は、「あ」と意味のない声をもらした。
「は、はい。そう、ですね。……はい」
 上の空でまた正面を向いて固まった俺を眺めた香野は、智也に目を戻した。
「やっぱり、そうなのか」
「ん」
「その、二ノ宮は」
「ああ。らしいですね」
「そうか──」
 香野は感慨深そうに窓の向こうに目を投げかけた。いつのまにか窓は閉められていて、蒸した教室に通る風はない。
「そういう生徒は何人もいるんだろうなあ」
「十人にひとりはいるんですよ」
「俺も聞いたことがある。そういえば、深井の家に行ったそうだな」
 今度は声はもらさずにそちらを向き、名残る動揺にしばらくかかったのち、香野の質問を飲みこんだ。
「まあ。一応」
 香野は俺の放心に失笑しながら、すでに空席の深井の席をかえりみた。中央列の前から四番目だ。クラスメイトたちは水筒をあおったり下敷きをひるがえしたりしながら、どんどん暑い教室を流れ出している。
「深井のご両親に連絡をもらったよ。彼には会えたのか」
「いや、ドア越しに俺が勝手にしゃべってるだけです。聞いてもらえてるのかも分かりません。深井によると、ヘッドホンも持ってるらしいから」
「そうか」とむずかしそうな息をついた香野に、智也は腰に手を当てる。
「先生はそいつ見たことないんですか。中三の四ヵ月はここに通ってたらしいですよ」
「それが、ないんだよ。俺がここに赴任してきたのは、ちょうどお前たちが入学した年だからな。彼を知ってる先生もいるよ。そういう理由で引きこもるようになったとは知られてないようだがな」
 俺も香野を見、そうなのか、と手提げをたぐりよせた。もしかすると、香野は芽さんを直接知っているから尽力したのかと思っていた。
「まあ」と締めくくる口調で、香野は俺に励ます笑みを作った。
「そっちも大変だろうが、二ノ宮も後輩だ。相談したいことがあるって言われたら乗ってやれ」
 香野の笑みに微笑を返すと、「そうですね」とうなずいた。
「帰ろうぜ」と智也に肩をうながされて手提げを取ると、椅子をつくえにしまう。嫌がらせが以前に較べて減り、明日もある授業の教科書はつくえに残しておけるようになった。手提げは朝より軽い。
「さよなら」と香野に残して教室を出ると、まだまだ混雑する廊下を抜けて、階段を降りていった。
「ほんとにいるってさ」
 階段を降りながら、智也は悪さを仕掛けようとする悪魔みたいににやにやとした。俺はその笑いについ眉間を顰める。
「何だよ、その笑い」
「おもしろくなってきたじゃないか」
「野郎三人で三角関係とか」
「その通り」
「俺はすごい動揺してんのに」
「明日、会いにいくんだろ」
「明日!? ──は、いきなりすぎるのでは」
「今から行っても、いきなりじゃないと思うぜ」
 口ごもり、一日自分がああだったぶん、否定できない。二ノ宮夏樹には、今日は俺以上に落ち着けない日だっただろう。
 午後の日射しが伸びる踊り場を折り返し、俺たちは談笑する生徒たちをよけていく。
「気持ちの、準備とかさ」
 かろうじて俺がありきたりな言い訳をすると、智也は眇目で一蹴した。
「ひと目惚れしにいくわけでもないんだろ」
「あ、当たり前だろっ」
「じゃあ、会うだけぱっと会えばいいじゃん。長引くと期待だけふくらんで、対象外だった場合ショックがでかいぞ」
 対象外。生唾を飲んで視線を前方にこわばらせた。確かに容姿を初め、彼について見当はいっさいつかない。
「俺もついてってあげようか」
「……見たいんだろ」
「うん」
「俺ってさ、悪く有名じゃん。俺本人が訪ねたら、彼もゲイだってばれてこないかな。いや、もしかすると、俺が一年にモーションかけてるって変なうわさが立つかも」
「立つだろうなあ」
 あっさり言われて、かえってうなだれた。智也は不謹慎にからからとすると、「じゃあさ」と階段を飛び降りてこちらを振り返る。
「俺が呼びにいって、目立たない場所に連れてきてやろうか」
 得意気な智也を見つめながら、彼と同じ二階に立った。相変わらず俺たちの目線は変わらない。方向性は悪くない提案だ。
「うん──。深井にそれ頼もうか」
「はっ? 何で俺さしおくんだよっ」
「いや、こういうとき、女のほうが相手は警戒しないとか聞いたような」
「誘拐じゃねえんだよ。だいたい、俺が女好きなのも不覚ながら有名だ」
 智也の顔を見つめてうなっても、ピンと来なくて先に一階へ降りはじめた。「何だよ」と智也は不満そうに追いかけてくる。
「俺、そんなに怖いおにいさんに見える?」
「そういうわけじゃないけど、先輩って引かないか。特に男」
「別にー」
「……高校生とつきあえるんだもんな。向こうから来ないかなあ」
「待ってるだけじゃ来ないものもあるのよ」
 俺は智也に横目をし、「うん」と階段に視線を落とした。
 悪質の可能性も捨てきれない。しかし、万一の場合だったら無視はもったいない。
 彼が本当にゲイにしろ何にしろ、悪意がなければ友人にならない理由はないのだ。まさかそいつの名前を勝手に使って手紙を出すってこともないだろうしなあ、と妄想を複雑にしていると、一階に着いていた。
「じゃあ、深井に頼めば」
 渡り廊下で第一棟に移り、靴箱を開きながら智也は観念した声で言った。俺は彼に首を巡らせる。
「え」
「そうだよな、普通は一年のときって何か三年にはビビる。誘拐にならえば、女のほうが成功率は高い。深井、顔はかわいいし」
 スニーカーに履き替える智也を見つめ、「ごめん」と弱い笑みを作った。腰をかがめてかかとを引っ張っていた智也は、こちらに顔をあげてにやりとする。
「じゃあ、明日深井に頼めよ」
「引き受けてくれるかな」
「芽さんをダシにしな」
 俺は噴き出すと、「そうだな」と悪乗りして靴箱を開いた。今回は何も入っていない。
 彼がゲイで、俺の答えを切実に待っているのなら、勇気を出してここに入れた手紙を黙殺するのは残酷だ。罠かもしれないとあのリンチの鮮明さも疼くけど、機会なら逃したくない。
 明日、二ノ宮夏樹に会おう。「行くぜ」と智也に声をかけられて、慌ててスニーカーを履いた俺は、上履きを入れた靴箱を、心の靄をはらうようにばたんと閉めた。

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